5.

 家に帰ってしばらくすると、勇が帰って来た。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 静かな子だ、と思う。

 勇は自分の部屋にランドセルを置きに行き、宿題を持ってリビングに現れた。


「おやつ、食べる?」

「先に宿題をやる」

 そう言うと、真剣な顔で鉛筆を持ち、一生懸命漢字を書き始めた。

 その、たどたどしい運筆と子どもらしい漢字を見ていたら、夏帆は、急に胸が塞がれるような気持ちになった。

 赤ちゃんのころ。

 どうしてちゃんと抱っこしてあげなかったんだろう?

 泣いたらすぐに抱き締めてあげればよかった。

 でも、出来なかった。

 苦しくて。

 誰にも頼らずに、一人で赤ちゃんだった勇を育てた。実家は妹夫婦がいたし、義理の実家に頼ることは出来るはずもないし、夫である武雄は古い考えの持ち主だったのだ。家事も子育ても、みな妻の仕事だと考えていた。

「出来た! おやつ、食べる!」

 勇は宿題を部屋に片付けに行き、すぐにリビングに来た。

「今日はね、特別にケーキよ。苺の」

 夏帆は、嫌なことがあったときはおいしいものを食べることにしていた。自分と、勇のためにケーキを買ったのだ。

「やったあ!」

 子どもらしく喜ぶ勇といっしょにケーキを食べていたら、夏帆の中から少しずつ仕事先での嫌な出来事が消えていった。

 武雄とそっくりの勇。

 でも、勇は武雄じゃない。勇は勇だ、と夏帆は思った。

 夏帆は勇と一緒にケーキを食べながら、言葉数の少ない勇のことを、思った。

 勇が静かなのは武雄に似たと思っていたけれど、自分に似たのかもしれない、と夏帆は考えた。そう言えば、わたしもあまりしゃべらない子どもだった。でもそれは、嫌いだったからじゃない。ただ、しゃべらなかっただけだ。

 勇は黙って、真剣にケーキを食べる。食べるときは、しゃべらない。

 そうだ。

 一つのことをしていると、他のことが出来なくなるんだ。

 そういうことに、夏帆は突然気がついた。

 亜由美の話だと、子どもたちは食べている間もとてもうるさいそうだ。それに対し、静かな食卓の我が家と比べて、なんだか劣等感みたいなものを抱いていた、勝手に。

 いっしょにしないで。

 さっき、自分でも言ったじゃないか、と夏帆は思った。

 亜由美の家がまるで理想の家族のように思っていたけど、違う。いっしょにしなくていい。うちはうちだし、夏帆は夏帆なのだ。そうして、勇は勇だ。

 勇はきれいにショートケーキを食べ終わると、満足そうにケーキの底についていた紙を丁寧に畳んだ。この子は、食べ方がきれいだ。それはとてもいいことなのだ。

 夏帆はあたたかい、なんとも表現出来ない気持ちが、心の中に広がっていくのを感じていた。冬の終わりにふと訪れる暖かい陽だまりに似て、ほんの少し眩しくて、夏帆は目を細めた。




 湖面は風景が写るほど、鏡のように静かであるといい。

 さざ波が立っても、じっと待っていればいつかは鎮まる。

 そうして、永久に鏡のように何もかもを写し取って、何もかもを呑み込んで、それでも静かな湖面でありたい。

 深い緑色をした、ひっそりとした湖。

 静かで、風の音と鳥の微かな声と控えめな虫の音しか聞こえない、そんな場所。

 

 ぽとんと、湖に小石が投げられる。

 輪が幾重にも出来て、広がる。でもいつか、輪があったことなど忘れた顔をする。

 少ししたら、波紋はなくなるのだ。まるで、初めからなかったみたいに。


 何もかも、鎮めていこう。

 そうして、鏡のようなおもてでいるのだ。

 いつも。




                                           

                            了 


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波の立たない湖面のように 西しまこ @nishi-shima

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