秋霖(しゅうりん)

 しばらく雨のない暑い日が続いていた。時折降る強い夕立にツムギを思い出すたび、もう行かない方がいいと自分を戒める。

 自分が行かない間に忘れ去られ、他の誰かがその役割を務めるのかと思うと腹の奥が焦げる。だがお気に入りの玩具にもなりきれない。割り切った都合のいい関係と考えるには、シオンはツムギに溺れすぎていた。


 彼女の作る作品の中のパーツ。自分は花ぎれのようだと思う。元は本の天地を補強する為につけられた小さな織り糸。

 今や装飾の意味合いの強い、なくても困らない存在だ……なんて自虐的に拗ねたことさえあるが、ツムギはキスで誤魔化すばかり。本当にずるい。


 

「それはヤバいのに捕まったなあ……えーと、その、彼女?いや、セフレ?」


 入社当初から教育係を務めてくれた面倒見のいい先輩に誘われ、彼の行きつけの居酒屋に腰を落ち着けた後。意気消沈しているシオンに、先輩は言った。

 あまり酒が強くないので、チビチビと舐めるように飲んでいても酔いは回る。気付けば事の顛末を洗いざらい吐かされていて、先輩の言葉にさらに打ちのめされた。確かに他人から見たらそういう名前も付くのだろう。


「……そうですよね。もうやめようかな。価値観が違い過ぎる」


「羨ましいシチュエーションではあるけどな。やめられるうちにやめた方がいい」

 

 友達を紹介してくれるという先輩の親切に乗っかって、夏の間は何人かの女の子と会った。

 中には可愛いと思う子もいたし、連絡先を交換して遊びに行くこともあった。

 

 だが忘れかけたと思うと、雨の気配が記憶を呼び覚ます。艶のある黒髪と気まぐれな言葉。赤い唇、ゆるゆると動く白い身体。

 空気が湿り気を帯びるたびに、上の空で雨滴を探すシオンに、いつしか彼女たちも離れて行ってしまった。



 夏の果て。夜の訪れと共に吹く涼しい風が、本物の金木犀の香りを運ぶ。

 そろそろ寝ようと窓を閉めようとして、静かに振り始めていた雨に気付く。不意に襲う渇望、同時に湧き上がる否定。

 会いたいのに、会いたくない。店以外の連絡先さえ知らない。いつだって会いたいのは自分だけで、ツムギは気にも留めていないのだろう。

 

 一陣の風がカーテンを揺らした。布端を捕え暗い夜の中に目を凝らす。行く。行かない。拒まれる。受け入れてくれる。もうどちらでも構わないと思った。

 強まる花の芳香が思考を鈍らせ、どっちつかずの気持ちを抱えたまま、上着を掴んで外に駆け出していた。


 自宅からほど近い夜のアーケードを駆けて行く。今では真っ直ぐに辿り着ける場所。暗い路地、雨にけぶる朱のネオンが鈍く光を弾き返している。こんな時間に迷惑だとか、もう忘れられているのではないか、なんて考えは浮かばなかった。


 勢いのままに引き戸を軽く叩き、二階から聞こえる足音に耳を澄ます。引き戸の隙間から顔を覗かせたツムギは、何も言わずシオンを迎え入れた。


「看板、消し忘れてるよ」


「そうだった?」


 暫く会っていなかったのに、ツムギは以前と変わらない態度でゆっくりとスイッチをオフにする。

 こんなことを言いたいんじゃない。息を弾ませて言葉を探すシオンの濡れた袖を引いて、初めての時と同じように二階への階段を上がっていく。

 ラグの上にシオンを座らせ、クローゼットから取り出したタオルで、濡れた髪を拭く手つきは変わらず丁寧で優しい。無言でされるがままになっているシオンを見下ろし、ツムギは改めて気づいたように笑った。


「久しぶり。元気?」


「うん」


 取り繕うことも出来ない拙い返事。何も言わなくても分かってもらえるとは思えない。思えないけれど、間近に迫る温もりを感じるだけで、心臓に血液が足りないみたいに鼓動が落ち着かない。

 身を乗り出し、頭を拭く手首を掴んで止めると、陰になったツムギの瞳孔が僅かに開く。


「どうしたの?」


「……会いたかった」


「そう」


 言葉だけなら冷たいはずの彼女の声は、あの花に似て甘い。さしたる抵抗もなく腕の中に収まった細い身体を抱き締める。

 額を触れ合わせ、ツムギの目を覗き込む。そこに同じ熱量はなくても、自分の気持ちだけは恋と言える。

 珍しく頬を上気させたツムギは、ふざけたようにシオンの顎を甘噛んで身を捩った。


「あげたいものがあるの」


「なに?」


「ちょっと待ってて」


 一度一階に降りたツムギが持ってきたのは、一冊のノート。藍鼠あいねず色の布装幀に、紺の栞紐、花ぎれは淡い紫苑しおん色。


「あげる」


 雨音に馴染む声音。喜びとも哀しみともつかない高揚に胸を絞られる。

 込み上げる感情のままに冊子ごといだけば、ツムギはただ嬉しそうに笑ってシオンの胸元に頬を押し付けた。


〈終〉

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花ぎれ 鳥尾巻 @toriokan

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