遣らずの雨
ツムギと会う日はいつも雨が降っている。梅雨時ともなれば会いに行く頻度も増える。
床に投げ出された手を手繰り寄せる。水掻きの名残りを辿るように指を絡めれば、少しの冷たさを感じる肌の表面がしっとりと汗ばんでいるのが分かる。
雨に気を取られ、気もそぞろなツムギの指先に軽く歯を立てる。窓硝子を叩く雨音を遮るように両腕の檻に閉じ込め、細い体を緩やかに揺する。か細い声のあえかな抗いを柔く唇で塞ぎ、追い詰める。骨のない海月のような
会社からの帰り、雨が降り出したことに気付いた。
雨足に追い立てられるように店に向かう。声を掛けながらそっと引き戸を開く。
相変わらず経営が成り立つのかと思う程、客のいない店舗の奥から出て来た身なりの良い壮年の男。
無言で会釈して擦れ違った後に、橙色の花の甘い香りが漂う。その瞬間、胸の奥に嫌な熱が集まり、それは出迎えたツムギを見ても、じりじりと心を焦がし続けた。
今日は激しくしすぎたかもしれない。事後の気怠い空気を纏う背中に口づけて、シオンは尋ねた。
「さっきの人、誰?」
振り返ったツムギは、幾分掠れた声で億劫そうに答える。
「お得意様」
「店の奥で話してたの?」
「作業工程が見たいって」
「休みだったんじゃないの。あんなに匂いが移るくらい居たの?」
「降り出したの夕方じゃない。シオンも同じ匂いがするよ」
笑いながら胸元に鼻を
始まりはなんとなく。今までは互いに想いを告げてからの交際しかしてこなかったシオンには、この関係を何と名付けていいのか分からない。
自分の執着にも似た気持ちを自覚したのは最近のこと。ツムギにとってシオンは嫉妬する立場ではないのかもしれない。だが他の男の存在は気になる。自分たちの関係はなんだと問い詰めてしまえば、また曖昧に笑って逃げられそうで聞けなかった。
起き上がったツムギは、白い裸身を隠しもせず、ふわふわした足取りで冷蔵庫に向かう。取ってきたペットボトルの水を一口飲んで、赤い唇を人差し指で拭う。
あの白い喉に噛みついてやりたい。何時になく凶暴な感情に駆られ、シオンの瞳が昏く陰る。視線に気付いた彼女は、水を差し出しながら首を傾げた。
「何か怒ってる?」
「……怒ってないけど。ツムギはどうして俺とこういうことするの?」
「気持ちいいから」
半ば予想通りの、あっけらかんとした答え。生々しいことを言いそうにない白い横顔を恨めしく見つめる。そこに意味を求める自分が酷く惨めに思え、知らず声が低くなる。
「さっきの人とも、するの?」
「うーん……しないかなあ」
「かなあって、なに」
「あの人は、知性担当。会話重視」
人間が完璧で有り得ないなら、一人が全部を担うことは無理、とツムギは笑う。
好みの玩具を集める子供みたいな理屈だ、とシオンは思った。パーツを寄せ集めて理想を作り上げるなんて、どうかしてる。
「……俺は体だけってこと?」
「体だけじゃなくて顔も好き。若いから体力あるし。こういうの今はシオンだけ」
「潔く最低発言だな……」
ぼやくシオンを、ツムギは明後日の方角を向いて綺麗に無視する。
情を交わせば一人を独占したいと願うのはおかしなことだろうか。普通に考えれば酷いことを言われている自覚はあるのに、普通の感覚が当てはまらないツムギにどう伝えればいいのか悩む。
嫌なら来なくていい、と言われてしまうのは目に見えている。
結局、他愛もない話に流れた。元々口数の少ないシオンだったが、ツムギの質問に答える形で、仕事のこと、好きな食べ物や飲み物、ゲームや映画の話などもする。
そのうちツムギは何かイメージが湧いたらしく、肌に適当にシャツを羽織って、ノートを作り始めた。
こうしたことは初めてではない。雨が止まぬうちはここに逗まるのを許されているのか。それとも作業に没頭するあまり存在を忘れられているのか。
多分後者だろうと思いながら、紙を断つ指先を眺めるうちに夜が更けていく。
自由にしていいと言われているので、シオンも半裸に短パンというだらしない格好でコーヒーを淹れる。
いつの間にか持ってきた私物もずいぶん増えた。他の人間の気配がしないところをみると、ツムギの言っていることは事実なのだろう。良くも悪くも彼女は嘘をつかない。
シオンは2人分のマグを持って、ツムギの元へ向かった。
「休憩したら」
「ありがと」
ミルク入り砂糖なしの方を差し出せば、手を止めたツムギが、ふっと息を吐く。
乱れた黒髪が力の抜けた細い
シオンの目に灯る熱に気付いたツムギは、音も立てずにカップを置いた。
「休憩延長する」
そういう雰囲気はすぐに察するくせに、心情に関しては全く理解してくれない。
不満を募らせつつも、梅雨寒の空気に、一度は
密な睫毛がゆっくり瞬くのを合図に、言葉もなく再び雨の音に紛れていく。
悦楽の果てにあるものは「小さな死」だと誰かが言っていた。何度でも2人で堕ちる冥府の底。約束のない心中。
頼りない吐息と花の香りを吸い込みながら、この夜が明けなければいいと願った。
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