花ぎれ

鳥尾巻

春時雨(はるしぐれ)

 春先の雨の降る日に、シオンはツムギと出逢った。朝から空模様は怪しかったが、傘を使う程でもないだろうとタカを括っていた。逃げ込んだ商店街のアーケード。薄墨のような夕方、目的もなく迷い込んだ路地裏に、彼女の店はあった。

 

 ごちゃごちゃと小さな店舗が並ぶ一角で足を止める。途切れがちな朱のネオンの看板には『露月ろげつ堂』の文字。興味本位で覗き込んだ薄暗い店内は何の店か分からない。

 

 シオンは陳列窓の硝子に映る自分の姿を眺めた。可愛いと揶揄されることも多い童顔と、アーモンド形の茶色の瞳。清潔感を意識して整えた短い黒髪も雨に濡れて湿り、スーツもずいぶん濡れてしまっている。そう高くもない吊るしのスーツだが、初ボーナスを奮発し着心地が良いものを選んだ。

 帰ったらきちんと乾かさないとな……と溜息が漏れそうになる。


「良かったら雨宿りしてって」


 柔らかく落ち着いた声に目をやれば、引き戸の隙間から女性が顔を覗かせていた。恐らくシオンよりも何歳か年上。

 真っ直ぐな黒髪を顎の下で切り揃え、密度の濃い睫毛に縁どられた瞼の上に雨の雫が光っている。ほんの少し垂れた目尻と相まって、泣いているようにも見える。ぽってりとした赤い唇と、ゆっくり瞬く黒い瞳が印象的で、惹き込まれるような心地がした。

 怪訝そうに再び声を掛けられ、見惚れていたことに気付いたシオンは、どぎまぎしながら胸の前で手を振った。


「いえ、そんな。客でもないのに申し訳ないですから」


「いいの。どうせ雨の日は仕事にならないし」


 そう言いながら看板の電気を落とした彼女は、淡く微笑んでもう一度手招きした。雨足はまだ弱まりそうにない。

 躊躇ためらいながら足を踏み入れる。照明を落とした店内には、甘く優しい金木犀に似た香りがほのかに漂う。木製の陳列棚に収められたインクや万年筆、箱入りの硝子ペン、箔推しの便箋や封筒、美しい装幀を施された本。

 奥にある作業机と思しき場所には、散らばった和紙や布、シオンには使い途も分からない道具類が雑然と置かれている。


「文房具のお店ですか?」


「うん。文房具も置いてあるけど……手製本のお店」


「手製本?」


 おおよそ小洒落た文具とは縁のない生活をしてきたシオンは、耳慣れないその言葉に首を傾げた。彼女は少し困ったように笑いながら、棚に並べられた一冊のノートを手に取る。一見すると布で装幀された本のように見えるそれを、シオンに手渡して説明する。

 開き癖がつかないようにそっと開けば、上質な紙を使っていると思われるクリーム色の頁に文字はない。


「それはノート。布や紙、革なんかを使ってね。本の表紙を作るの。修理をしたり」


「へえ。需要あるんですか」


 今時は電子でなんでも事足りる。態々わざわざアナログな手法を取らなくても。と、そこまで考えたシオンは、失礼なことを言ったかもしれないと慌てて口を噤んだ。彼女は気に留めた様子もなく彼の手からノートを受け取り、丁寧に棚に戻す。

 宝物に触れるように背表紙を撫でる細い指先が妙に艶めかしく感じられ、気まずい思いで目を逸らした。彼女のゆっくりした動作と喋り方が、シオンを落ち着かない気分にさせる。


「意外と人気あるのよ?ネットで通販もやってる。布、和紙、羅紗、花ぎれ、栞、中に使う紙、好きな色と材料を選んで自分だけのノートを作るの」


「……へえ」


「雨の日はダメね。紙が湿気ちゃう」


 空調の効いた店内は快適な湿度に保たれているが、それでも天候に影響されるのだろうか。シオンは物珍しさも手伝って、キョロキョロと辺りを見回していた。

 

 いつの間にかタオルを持った彼女が目の前に来ていて、シオンの濡れた肩や髪を丁寧に拭う。何故か喉が詰まり、自分でやれるとは言えなかった。

 子供扱いというより、彼女の作品に対する扱いに似ている。肩や髪に柔らかく触れる体温は少し低いが、大切にされているような、くすぐったい気分になる。


 雨音が商店街の喧騒を打ち消し、水に閉じ込められた世界の幻想。背伸びをして細い腕を伸ばす彼女を見下ろし、手の置き場が分からず戸惑う。

 彼女の指先が肌を掠めるたび、金木犀のような香りが鼻腔をくすぐる。


「……キンモクセイの匂いがする」


「ああ、これは澱粉糊の匂い。ずっと使ってるから染みついちゃったのかな」


 ふふふ、と笑った表情が幼い。鼻先に差し出された指をどうすればいいのか。そうですか、と嗅ぐのもおかしい気がして、うろうろと視線を彷徨わせてしまう。しかし彼女はすぐに興味を失った様子で、物憂げに窓の外を眺めた。


「雨、やまないねえ」


 お茶でも飲もうか、と袖を引いて二階の住居に誘われ、何かに操られるようについて行った。下心がなかったと言えば嘘になる。

 そこで彼女は初めてツムギと名乗った。ただのツムギ。苗字は知らない。年も知らない。シオンも名前しか聞かれなかった。


「シオンて花の名前ね。私の好きな色」


 ゆったりと流れる時間は心地良く。降りやまぬ雨のせいにして。手を伸ばしたのはどちらからだったのか。


 そのまま済し崩しに一晩を過ごした。翌朝目覚めれば、むき出しの女の肩越しに見た空は、綺麗に晴れ上がっていた。

 また来て、とも、もう来ないで、とも言われなかった。ただ曖昧に微笑んだ彼女は「雨の日はお休みにしようかな」と呟いた。

 

 それから時々、店を訪れている。約束のない関係は心許なく、距離が近いようで遠い彼女を今も測りかねている。

 それでもシオンは雨の気配を心待ちにしている自分に気付き、少しだけ浮かれた気分で曇天を仰いだ。

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