転生者ルテリア・セレノと懐かしの冷したぬきそば(3)
ぐびり、と水を一口飲む。キンキンに冷えた雑味のない水が渇いた喉に染みる。
たかが水だが、されど水。異世界の水は基本的に一切浄水されていない生水だ。どうしても雑味が残るし、場所によっては変な臭いがすることもある。ルテリアもアーレスに来たばかりの頃は水が原因で随分と腹を下したものだ。
しかしながら、ここの水はそんな心配をせずともグビグビ飲める。地球では当たり前だったことだが、今はそれが何より嬉しい。この異世界では、冬でもない季節に濁りのない冷たい水を飲むだけのことですら
「ふう、
コップの水を半分ほど飲んでから、おもむろにメニューを手に取り目を通してみる。
ラミネートされたメニューのツルツルとした手触り。今はこんなことですらも懐かしい。
辻そばには本来沢山のメニューがあり、店舗ごとのオリジナルメニューもある筈なのだが、この店ではどうやら六種類のそばしか提供していないらしい。かけそば、わかめそば、ほうれん草そば、もりそば、特もりそば、冷したぬきそば。この六種だ。
日本語で書かれたメニューの上に、異世界の共通語の文字も書かれている。
辻そばのメニューでも一番好きな冷したぬきそばがあるのは素直にありがたいのだが、どうして品数がこんなに少ないのか。何かやんごとない事情でもあるのだろうか。
ルテリアがそんなことを考えていると、いつの間にか店員がどんぶりを持って側に立っていた。
それに気付いたルテリアが反射的に顔を上げると、店員は先ほどと同じアルカイックスマイルを口元に浮かべる。
「お待たせしました、冷したぬきそばです」
コトリ、と音を立てて眼前に置かれた、内側が朱塗りになった黒いどんぶり。その中に鎮座するのは間違いなく辻そばの冷したぬきそばだ。
冷水で締められた冷たいそばに、これまた冷たいそばつゆがかかり、その上にたっぷりと揚げ玉が盛られている。そして脇役ではあるが良い仕事をしてくれるねぎとわかめ。
これだ。これを求めていたのだ。シンプルながらも和風の滋味が詰まった逸品。
異世界に来てからというもの、この冷したぬきそばをどれだけ夢想したことか。硬いパンと味の薄いスープで義務的に
だが、これからはそんなつらい
「ありがとうございます」
ルテリアが礼を言うと、店員も「では、ごゆっくりどうぞ」と
そうして再び冷したぬきそばとサシで向かい合うルテリア。何とも
「いただきます……」
日本で覚えた、食事に対する感謝の文言を唱える。そばという日本の料理を食べるに際し、これほど似合いの言葉もないだろう。
割り箸を手に取り、パキリと小気味良い音を立てて割る。
ゴクリ、と思わず喉が鳴ってしまった。その音には
箸先を震わせながらそばを
この美しいそばを、そろそろと口に運ぶ。
ずる、ずるる、ずるるるる……。
サクサクサク……。
日本の麺は音を立てながら食べるのが粋なんだよ、と、そう教えてくれたのは叔母の夫、日本人の義理の叔父だ。彼の教えに従い、二年ぶりのそばも粋に音を立てて
「ああ、あぁ、美味しい………………」
その一口を飲み込むのと同時に、ルテリアの
まさしく万感の想いがこもった、ルテリアの「美味しい」という言葉。その言葉に嘘偽りは
次はわかめを口に運ぶ。祖国フランスでは食べることのなかったものだが、このクニクニとした食感が不思議とそばに合う。
次は辛味の利いたねぎと一緒にそばを。
次はまた揚げ玉と一緒にそばを。
次はわかめと一緒にそばを。
次の一口。
次の一口……。
ずるる、ずるるるるる……。
サク、サクサク……。
ゴクゴクゴク……。
気付けばつゆまで全て飲み干し、どんぶりが
食べる前、ルテリアはあれだけ色々なことを考えていたのに、食べ始めてから今に至るまでの間は無心であった。ただただ、美味しいそばに向き合う。それだけの静謐な時間であった。
そして残ったのは、空になったどんぶりと、満たされた心のみ。
「美味しかった……。本当に、美味しかった………………」
そう言うルテリアの顔には、実に満足そうな笑みが浮いている。あんなふうに激しく泣きながらこの店に入って来た者が、食べ終わればこの笑顔。それは紛れもなく辻そばの持つ力だ。
「綺麗に召し上がっていただき、ありがとうございます。どうですか、お口に合いましたか?」
空になったどんぶりを回収しに来たのだろう、いつの間にか店員がルテリアの側に立っていた。
店内の客はルテリア一人。きっと、ルテリアが食べる様子を厨房から見ていたのだろう、彼もまた嬉しそうに
そして、店員にルテリアも微笑みを返す。
「ええ。本当に……本当に美味しかったです。
「ご満足いただけたようで何よりです」
店員は笑顔のまま頭を下げると、どんぶりを回収してルテリアに背を向けた。
そうして厨房に向かおうした彼の背に、ルテリアは「待って!」と慌てて声をかける。
「はい? どうされました、お客様?」
店員が足を止め、ルテリアに向き直った。
仕事中に呼び止めたのは後で謝罪するが、でも、彼にはどうしても
「店員さん……」
意を決したように顔を上げ、ルテリアは正面から店員の顔を見据える。
「はい、何でしょう?」
ほぼ分かり切った答えを訊こうとしているだけなのに、緊張感に胸がドクドクと脈打ち、
だが、訊かない訳にはいかない。これはとても大事なことなのだ。
「店員さんは転生者……ストレンジャーですよね?」
ルテリアが思い切ってそう問いかけると、店員は明らかに動揺した様子で目を見開いた。
「えッ!?」
喉の奥が見えるほど大口を開け、
彼が驚くのも無理はない。
その特別な力の故、転生者はこの世界では貴人と認識されている。だが、同時にその特異な力を求める悪人たちにも身柄を狙われることになるのだ。
身の危険を考え、ルテリアも周囲に自身の身の上を明かしたことはない。親しい付き合いがある者にすらもだ。
きっと、彼も自身が転生者だということは秘密にしているのだろう。それを初対面のルテリアが言い当てたのだから、驚かない方が逆におかしい。
「それも地球の、日本から来た方。そうですよね?」
「ええぇッ!?」
うろたえた様子で大きな声を上げる店員。
その様子を見て、ルテリアは思わず苦笑してしまった。
~試し読みはここまでとなります。続きは書籍版でお楽しみください!~
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