転生者ルテリア・セレノと懐かしの冷したぬきそば(2)

「え、ほ……本当に? 本当に辻そばなの………………?」

 こうして目の前に店舗が存在しているというのに、それでもにわかには信じられない。自分の脳が見せている幻覚ではないのなら、幻覚系の魔法でもかけられているのではないか。

 眼前の光景を疑う気持ちばかりが湧いてくるものの、これが本当に辻そばであるならば是が非でも中に入りたい。そして、遠い日に食べた冷したぬきそばをもう一度食べてみたい。

 何ともささやかな、しかしながら強烈な渇望である。

 まるで街灯の光にかれるのように、ルテリアはふらふらとおぼつかない足取りで辻そばの入り口に歩を進めていた。

 日本にいた頃と同じように、ルテリアを認識したガラスのドアがひとりでに開く。

 自動ドア。地球では当たり前にあったものだが、この異世界にそんな便利なものはない。魔力を電源代わりに動く魔導具というものはあるが、あれらは地球の電化製品ほど技術的に進んだものではない。同じ自動ドアをアーレスの技術で製造すれば、その装置は巨大なものとなるだろう。

 自動ドアが開いたその瞬間、ルテリアの鼻孔に、あの独特な和風出汁の良い香りが届いた。

 柔らかく、優しく、そして懐かしい辻そばの香り。地球を離れてから二年が経過しているが、ルテリアの鼻は大好きな辻そばの香りをはっきりと覚えていた。

 あまりにも懐かしい、そして恋焦がれた地球の、日本の香り。ただ単に出汁の香りを嗅いだだけでルテリアの郷愁は大いに刺激され、目頭は熱くなり、鼻先がひくひくとけいれんし始める。

「あっ、いらっしゃいませ!」

 店の奥から現れる店員。黒髪黒目に少し日焼けした東洋人の肌、服装は辻そばの制服。

 間違いない、日本人だ。

 ルテリアの知る限り、このアーレスに東洋人の特徴を持つ人種はいない。従って彼は本物の日本人であり、考えられる可能性として最も高いのは、自分と同じ転生者、この世界の流儀で言うとストレンジャーだということだ。

 転生後の二年間で独自に調べたからストレンジャーという存在のことはルテリアも知っている。

 だが、実際に自分以外のストレンジャー、それも地球から来た者と会うのは初めてのことだ。

「あ、あああああああぁ………………」

 自分と同じ地球人。そう思うと、もう我慢が出来なかった。

 ルテリアの喉の奥から絞り出したような声がれ、目の奥からもジワジワと涙がにじみ始める。うれしいような、悲しいような、それでいて懐かしいような。ともかく名状し難い感情がルテリアの身体からだを支配し、その感情のままに涙も声もあふれ出す。

「え? あの……お客様?」

 困惑する店員を前に、ルテリアはついに大きな声を上げてわんわんと泣き出してしまった。

「あああッ! ああああぁ……ッ!!」

 両手で顔を覆い、ルテリアはそれでも赤子のように泣き続ける。

 この異邦の地で、ようやく自分の心を理解してくれるかもしれない存在と出会えたのだ。そう思うと、ルテリアの涙は止まることなく次から次へぼうのように流れ落ちた。


   ◇◇◇


 時間にしてたっぷりと一〇分も泣いていただろうか、ルテリアはようやくむと、困惑した様子でおろおろしている店員に対し、自嘲気味な笑みを浮かべて見せた。

「………………ごめんなさい、店の入り口で泣いてしまって。ご迷惑でしたよね?」

 ルテリアにも事情があるとはいえ、店に来た客がいきなり大泣きに泣き出したのだから、店員からすれば訳が分からないだろう。

「あ、いえ……。昼も過ぎて店は閑古鳥が鳴いてましたからね、それはいいんですけど…………」

 困惑した様子のままそう言う店員。ルテリアとしてももう落ち着いているのだが、どうやら彼はまだルテリアのことをいぶかしんでいるようだ。

 それはそうだよね、と苦笑してから、目元に残った涙を拭い、ルテリアは表情を正して店員に向き直り、静かに口を開いた。

「このお店は……名代辻そば、ですよね?」

 ここが辻そばだというのは見れば分かる。看板にもはっきりとそう書いてあった。しかし、それでも確認せずにはいられない。この店が幻なんかではなく、この異世界に本当に実在しているという確信が欲しいのだ。

「え、ええ、そうです。当店は名代辻そばになります」

 ぎこちないながらも、店員は確かに肯定した。

「そうですか、良かった……」

 思わずあんの息が洩れる。やはりここは名代辻そばで間違いないのだ。

 一体、何をどうすれば日本にあったままの名代辻そばの店舗をこの異世界に出店出来るのかは分からないが、ともかくルテリアが大学時代に愛した日本の辻そばがこの異世界に、しかも拠点としている旧王都に誕生したのだ。

 聞きたいこと、言いたいことは山ほどあるが、それらは全て後回しでいい。今この瞬間、何をおいてもまずやるべきことはたったひとつ。

「…………冷したぬき、ありますか?」

「え?」

「冷したぬきそばです。ありますか?」

 ルテリアが辻そばのメニューで最も好きだった冷したぬきそば。辻そばに来たのなら、まずはこれを食べなければ始まらない。

「え、ええ、もちろんございます。あっ、お召し上がりになられますか?」

 本当にあるのか少し不安だったのだが、店員があるとうなずいてくれたので、ルテリアは内心でガッツポーズを決めた。

 この世界に転生した以上、地球に帰ることは出来ない。だが、祖国フランスの次に愛した国、日本のそばがこうして食べられるのだ。日々募る望郷の念に押し潰されそうになっていたルテリアにとって、こんなに嬉しいことはない。

「ええ、お願いします。冷したぬきそば、食べさせてください」

 そう言ってルテリアが頭を下げると、店員はそれまでの動揺がうそのように落ち着いた様子で、ニコリとスマイルを浮かべて頷いた。

 接客となれば一切取り乱さない。プロフェッショナルだ。

「かしこまりました。お好きなお席にどうぞ」

「ありがとうございます」

 店員に促され、ルテリアはU字テーブルの一席に腰を下ろした。そうして改めて、冷したぬきそばが来るまで店内を見回してみる。

 天井のスピーカーからは耳馴染みのある演歌が流れ、テーブル上にはメニューの他、七味や割り箸などの備品もしっかり置いてあるようだ。券売機はないようだがトイレはちゃんとあるし、奥のちゅうぼうにもガスコンロなどアーレスにはないものが置かれているのが見える。

 一体どうやって地球の道具をこの異世界に持ち込んだのか。ルテリアの想像が正しければ十中八九ギフトの力だろうが、どうなっているにしろ、ルテリアにとって大変ありがたい話だ。

 と、ここで店員が水を持って厨房から戻って来た。

「どうぞ、お水です」

「どうもありがとうございます」

 水の入ったコップを受け取り、それをまじまじと見つめる。

 この世界ではまだ実現出来ていない、一切濁りもゆがみもないガラス製のコップに、恐らくは水道水だろう、これまた濁りのない水。このコップなど、貴族や商人に売れば軽く金貨一〇枚はくだらない筈だ。浮いている氷も製氷皿で作られたとおぼしきキューブ状のもの。徹頭徹尾、寸分たがわず名代辻そばのそれである。

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