【書籍試し読み増量版】名代辻そば異世界店1／西村西

転生者ルテリア・セレノと懐かしの冷したぬきそば（１）

　ルテリアは生まれも育ちもフランスのパリだが、幼い頃から日本が大好きだった。

　それというのも、フランスでは日本のアニメがよくテレビで放送されており、書店に行けば日本の漫画コーナーも常設されていたからだ。

　そういう日本の創作文化に親しんで育ったルテリアは、高校を卒業すると同時に日本へ留学、絵を学ぶ為（ため）に東京のとある芸大に入学した。選んだ先は美術学部絵画科だ。

　しかしながら画家になる為に芸大を選んだのではない。漫画家になる為だ。最初から漫画の絵を描くのではない、まずは絵描きとしての地力を養う為。

　本来であれば遠く日本の地で孤軍奮闘することになるところなのだが、心強いことに、ルテリアの叔母が日本人男性と結婚し、東京に住んでいた。

　ルテリアは叔母夫婦の家に厄介になる形で、他の留学生たちよりも気軽に日本に行くことが出来た次第である。

　大学で学ぶ傍ら、ルテリアは大好きなアニメも観（み）ていたのだが、日本ではファンタジーの異世界に転生する作品が流（は）行（や）っていた。そして、それら転生モノの原作の多くがインターネット上に投稿された小説であることを知り、そこから異世界モノのウェブ小説にどっぷりハマることとなる。

　また、日本の料理にもルテリアは大いにハマッた。特に大学の近くにあった名（な）代（だい）辻（つじ）そばには、店員に顔を覚えられるくらい通い詰めたほどだ。

　フランス料理とは違う、鰹（かつお）節（ぶし）と昆布からなる出（だ）汁（し）の文化にルテリアはすっかり魅了された。

　母国フランスでもガレットなどでそばに親しんでいたので、麺として打たれたそばも違和感なく口に馴（な）染（じ）んだ。

　ルテリアが特に好きなのは冷たいそばで、暑い夏の日に食べた冷したぬきそばには一発でノックアウトされてしまった。

　強いコシが際立つ冷たい麺と、風味豊かなそばつゆ、そしてサクサクと香ばしい揚げ玉。この魅惑のハーモニーは他国の料理では得（え）難（がた）いものである。

　叔母の夫である義理の叔父は、たまにルテリアを連れて近所の辻そばに行き、そこでコロッケそばの麺抜き、通称台抜きを肴（さかな）にビールを飲んでいたのだが、そういう、辻そばのちょっとした飲み屋的な雰囲気も、一〇代のルテリアにとっては好印象だった。酒という大人の世界を垣（かい）間（ま）見（み）せてくれたと、そう思えたのだ。

　ルテリアの日本生活は順調そのものだったのだが、しかし二年生の時に事件は起きた。

　二年生になったその年の夏休み、ルテリアは久しぶりに母国フランスに里帰りしたのだが、空港からパリ市内に向かうシャトルバスに乗っていたところ、武装して目出し帽で顔を隠した男たちにバスジャックされてしまったのだ。

　犯人たちは警察に金を要求していたようだったが、さして時を置かず特殊部隊がバス内に突入、犯人たちはあっさり捕まってしまった。

　が、話はそれだけでは終わらない。犯人の一人が特殊部隊を銃で撃とうとして、逆に発砲を受けてしまい、その衝撃で持っていた銃を誤射、更にはその誤射された銃弾が運悪くルテリアの頭部に命中、痛みを感じる暇すらなくルテリアは即死してしまったのだ。

　死の実感すらなく、気付けば訪れていた雲の上の世界。

　そこは天国で、ルテリアは異世界の神だという青年と邂（かい）逅（こう）、彼に勧められるまま剣と魔法のファンタジー世界アーレスに転生することとなった。

　自分が死んだことは確かに悲しかったし、家族にお別れすらも言えなかったことはもっと悲しかったが、大好きな日本のアニメと同じ、ファンタジーの異世界に自分が転生するのだと知り、テンションが上がるルテリア。

　今にして思えばそれこそが最大の過ちだったのだが、その時のルテリアは興奮のあまり神の話の半分も理解せぬまま、悪を討ち世界を救う為『剣王』という強力なギフトを得て転生した。

　小説の主人公のように活躍することを夢見ていたルテリア。

　だが、そもそもからして今のアーレスに世界を脅かすような巨悪は存在しておらず、国家間の大規模な戦争もなく、ダンジョン以外には魔物もいなかった。

　かろうじて魔王という存在がいることだけは後に分かったのだが、それも魔族という人種が暮らす国の王というだけで、別に悪ではないのだという。

　つまり、ルテリアは転生して早々に目的を失ってしまったのだ。

　倒すべき巨悪はおらずとも与えられたギフトのおかげで戦う力はある。だから浪（ろ）漫（まん）を求めてダンジョン探索者になったのだが、探索者としての生活は思っていたよりずっとドライなものだった。

　危険なダンジョンに潜り、命懸けで危険な魔物と戦い続ける。時に仲間を失い、時に自身も大きく傷付く。こんな生活が二年も続くと、ルテリアは異世界での生活に疲れ果ててしまった。

　代わり映えのない殺伐とした日々。どうにか生活出来るくらいには稼げるが、暮らし向きは一向に良くならず、常にギリギリを生きているヒリつく感覚。いつ何時でも不安が頭を離れず、心は常に沈んだまま。

　部屋で一人きりになるといつも思うのだ、こんな筈（はず）ではなかったのだ、と。

　本当は漫画家になりたかったが、志半ばで無念の死を遂げた。だが、異世界の神にセカンドチャンスを与えてもらったからと心機一転、せっかく異世界に来たからには自分もアニメで見た勇者のように頼れる仲間たちと一緒に巨悪と戦い、英雄と呼ばれる存在になりたかったのだ。断じて、こんな明日をも見えないような刹那的な生活が送りたかった訳ではない。

　近頃は毎日、地球のことを思い出し、枕を涙で濡（ぬ）らすような生活を送っている。フランスに残してきた家族に会いたい、友達に会いたい、大学に通いたい、地球に帰りたい。望郷の念は日に日に募るばかりで、このままでは肥大化した悲しみに心が押し潰されてしまう。

　憧れの日本で大学に通い、大好きなアニメを観て、漫画を読み、大好物の辻そばで腹を満たす充実した日々。そんな日々は彼方（かなた）へと去り、今や何もかもが懐かしい。

　希望を見失い、死んだ目で灰色の日々を送っていたルテリアだったが、ある時、本当に偶然、何の気なしに通りかかった場所で、後に自分を救ってくれる奇跡に出会った。

　厄介になっている定宿から探索者ギルドへと向かう道中、旧王城の城壁、その一角でルテリアはとんでもないものを目にしたのだ。

　旧王城の堅固な城壁と同化するように佇（たたず）む、景観と全く馴染んでいないその威容。しかし大学時代のルテリアが通い詰めていた愛（いと）しの店、名代辻そばの店舗がそこに堂々立っていたのだ。

「え？　え……え？　え!?」

　往来のド真ん中で硬直したまま、ルテリアは混乱の極みに陥った。

　自分があれだけ愛していた辻そばの店舗が眼前に存在している。看板に堂々と『名代辻そば』と日本語で書かれているのがその証拠だ。

　日本語はこの世界には存在しない地球の文字。しかもこのアーレスは、ルテリアの知る限り日本の要素など皆無のファンタジー世界。

　昨日までこの場所には店舗らしきものなどなかったという事実が混乱に拍車をかける。何かの店を建てるなど、そんな素振りすら見せてはいなかった筈。

　ルテリアがあまりにも地球のことばかり考えるので、脳が幻覚でも見せているのだろうかと一瞬思ったのだが、往来を行く他の人たちも見慣れない辻そばの店舗に目が釘（くぎ）付（づ）けになっているようだから、それはないだろう。