第5話「メッセンジャー」世界の終わりにこんなエピソードはいかがだろうか。

 そうして人類は永遠の眠りについた。

 一瞬であった。

 まさか、地球のコアが小ぶりなブラックホールと化して様々なものを吸い込んでしまうなど、誰も想像しなかっただろう。文字通りめちゃくちゃのぎったぎたで、あ、と叫ぶ暇もなく皆チリになった。そこには人生最後の日にありがちな、登場人物それぞれの想いなどかけらも残る余地がなく、人類は一人残らず消え失せた。

 ブラックホールは吸いたいだけ吸って突然消えた。そんなわけで、生き残ったのは、わたしと、ゴキブリだ。他は知らない。ただ目に入った生き物が、それだけだったというだけのことだ。もしかすると、他にもいるのかもしれないが。つまり、今のところはゴキブリが生態系ピラミッドの頂点に立ったのだが、彼らとてそんな意識などあるわけもなく、カサカサとあらゆる場所を這い回るだけに決まっている。

 よかったではないか。そんな彼らを見て悲鳴をあげるとか、ハエ叩きや新聞紙をぶん回すとか、殺虫剤片手に血眼になるとか、あるいは金になることに目をつけて、彼らの絵をこれ見よがしにあしらった害虫駆除剤を次々に作り出し、あまつさえ彼らの形を模した着ぐるみを着て、馬鹿馬鹿しいテレビCMを作り上げるだとか、おおよそ地球にとって非常にどうでもよい行いをする人類は、もういない。地球に平和が訪れた。

 心から、おめでとうと言える。


 そういうわたしは人類ではないから生き残った。わたしは声。昔死んだ人間の、声だ。人は死ぬとき、朽ちゆく肉体から離れて残ってしまうことがある。それがわたしだ。そしてわたしと同じような立場の声たちが、未練のようなものを昇華して、ちゃんとこの世から立ち去るようにと、そういう見守りをしている。

 そうだな。実際の仕事を見てもらうのがいちばん手っ取り早い。こんな世の中だ。思い出話でなごみたい私のワガママついでに、こんなエピソードを聞いていただこう。



***



 交通事故で即死だった。

 自動車なんてただの凶器だろ。みんな崇めて狂ったように乗ってるけど、1日に何人轢かれているか、知ってるか? そんなもの作ってる会社が、経済界ではずいぶん偉いみたいじゃないか。

 やってられるか。

 妻が娘を抱っこして泣いている。大変だな。乳飲み子抱えて喪服だなんて。いつものTシャツとジャージがいちばん着心地がいいだろうに。ヨダレとか、鼻水とか、ゲロとか、娘に関する様々な液体などなどですぐに服なんか汚れるんだから、ほんとうに頭が下がるよ。突然死んで、ごめんな。でもさあ、みさき。俺、まだここにいるんだぜ。

 何回声をかけても、妻はこちらを見てくれない。俺も泣いてるってこと、知ってほしいのに。

 肩を叩かれて、振り返った。

 なかなか渋いイケてるおっさんがそこにいた。痩けた頬に、落ち窪んだ眼窩、少し不健康で、くたびれた感じはあるけれど。

「声を、届けたいか?」

「当たり前だ。俺はまだここにいるんだぞって。あんた誰だ」

「声だ。君と同じだ」

「つまり死人か。仲間だな」

「声が届いたら、君は消える。ずっと見守りたいのなら、そのままでいなさい」

「いや、一言、伝えたいことがある。『ごめん』って謝るだけだ。それが出来ればもう思い残すことはない」

「了解した」

「さあ、どうすればいいのか、教えてくれ」

「知らんよそんなこと」

「はあ!? あんた、なんか神様みたいなやつで俺に特権みたいなものをくれる人じゃないのか!?」

「ライトノベルの読みすぎだ。わたしはただの声にすぎない。それからどうすればいいのかだが、しばらく見守っていれば、その機会は訪れる。皆、そうして旅立っていった」

 俺は頭を掻きむしった。

 ただただ、辛そうな妻と、それを気にするにはまだ幼すぎる我が子の純粋な可愛らしい丸顔を、眺めていることしか出来なかった。


 確かに、おっさんの言う通り、見守るというのも悪いことではないように思えた。時間が人の悲しみを癒やして、少しずつではあるが、俺の家族は日常を取り戻していた。乳児を育てるのが大変なことだと理解したつもりではいたが、妻と子どもの、すべての生活を知っていたわけではない。俺は初めて、家族の一日の生活のありのままを眺めた。いつ泣き出すのかわからない我が子の周りで、妻は様々な家事を手際よくこなしていく。時には娘が泣いている理由がわからない様子で、苛立っていた。愛する我が子に腹を立てる姿は、俺が抱く理想の母親像からかけ離れている。だから俺は必死に

「暑いんだよ」

と妻に向かって言った。

 俺にはなぜか娘の気持ちがわかった。たぶん死んだからだろう。冷静なんだ。どうせ俺はもう生きていないんだからという諦めの気持ちは、俺から雑念を消し去って、観察する生き物の仕草とか言動から、気持ちを読み取る。こんな能力が、生きている間にあれば、職場でももっとうまくやれたのにと、悔やんでも仕方がない。いずれにしても生きている限り俺は雑念まみれだったということだ。

 しかし俺が言葉を発しても、やはり妻は聞こえているそぶりを見せない。死んだときと同じだ。俺の声は、なかなか妻に届かなかった。娘が暑がっていることを妻に伝えたくて身を乗り出すと、不思議なことに、妻は何かを察して娘の肌着の下を触り、いそいそと服を着替えさせる。そのようにして、俺が言葉をかける機会はその時も失われた。

 子どもの成長を、見守っていられるのが幸せだった。毎日、少しずつ、娘は成長していくことが、よくわかる。最初は「ごめん」と伝えたい一心だった俺の心にも、だんだんと変化が訪れる。

「俺がいなくても、回っていくのが、世の中なんだな」俺はイケてるおじさんの隣でムスッとした顔で言った。

「達観したものだな。あなたは全人類のうちの一人にすぎないのだから仕方のないことだ」

「わかってるよ……当たり前だ……」

 なんだかむなしい。皆が俺のことを忘れていく。通夜と葬式であんなにみんな泣いてくれたのに。みんなすぐににこにこする。そりゃあ、そうだよな。いつまでも俺のことだけ考えてくれるわけじゃない。

 そういうわけで、俺が妻に「ごめん」とただ一言だけを言いたい気持ちは、萎んでしまった。


 その日は風が強かった。こっそり、家族と一緒に眺めた朝のニュースによると、台風が近付いているらしい。しかし外は陽が出ていていい天気だ。1歳になっていた娘はベビーカーに乗りたい気分のようだった。

「ゴーゴー。カーカー」

 可愛らしいおねだりに、俺は微笑む。みさきも、微笑んでいた。

 妻は娘を連れて散歩に出かけた。初夏の気配に少しだけ湿り気を帯び始めて青空が霞んでいた。空はこんなにも広いのに、都内は乱立した高層ビルがそれらを分断している。美的センスのかけらも感じられない、細長い額縁みたいだ。

 強欲な再開発のあおりだろう。あちこち、工事現場ばかりだ。俺はああいう光景を眺めるたびに、よくドラマにあるような、工事用資材のパイプが落ちてくる場面を想像して、ヒヤヒヤするんだ。ほら、案の定、妻と娘が歩く街道だって、大仰なマンション建設が行われていて、危なっかしいクレーンで、金属製と思われる建築資材を、ぶらぶらと吊るしている。

 もちろん、そう簡単に落ちたりするわけがない。安全対策は万全のはずだ。ただし風はどんどん強くなっていく。急速に天候が変わりやすい昨今だ。工事中止の風速に達したとして、果たしてその判断は間に合うのだろうか? 俺はやけにソワソワとして、要らぬ心配で胸をいっぱいにしていた。

 強まる風にベビーカーの幌がバタバタと波打つ。娘はそれで大喜びで、時おりきゃあっと歓声を上げている。みさきは乱れる前髪に顔をしかめて、目を細めながら、片手を庇のようにして額の上に掲げていた。

「はあ。お散歩これくらいにしようか。風が強すぎる」

 妻がついに根をあげたところで、俺はハッと息を呑んだ。ひときわ強い一吹きの風で、妻と娘の頭上で激しく揺れる音がした。建築資材の束から、2、3本のパイプが、傾いた。そんなバカなとは思いたかった。でも見上げたそれの危なっかしいバランスはついに限界を超えた。するりと、落下する。

「危ない!!!」

 俺の声は大きく響いたみたいで、その場にいる全員が、声の主を探した。それで妻は少し立ち位置が変わって、落下した鉄骨はギリギリ俺の家族がいる場所から逸れて落ちた。すさまじい轟音とともに、妻と娘の目の前の歩道に落下した。娘はあまりの音に、泣き出した。妻は慌てて、ベビーカーの娘を抱き上げた。それから、周囲を見回して……

「りょうちゃん」

「りょうちゃん」

 目に涙をいっぱい浮かべて狂ったように俺の名前を呼んだ。

 そこまでだった。俺は消えた。



***



 そんなわけで、彼、「りょうちゃん」の奥さんは、パニック状態でずっと亡き夫の名を叫んでいたんです。周囲の人たちは、奥さんに怪我はないようだけれど、救急車を呼ぼうか、呼ぶまいかで、一時騒然となっていましたね。何はともあれ、りょうちゃんはしっかりと、最後に言うべき一言「危ない」で、自分の家族を救ったのでした。めでたし、めでたし。かけがえのない人類の愛についての話だ。みなさんお好きでしょう。

「司会のおじさんは渋メン。俺は死にメン。この世とあの世の境界線で、愛する家族に伝えたいことがある。死んでも腐るな……俺は絶対に家族に『声』を届けるんだ!」

 渋メンとはわたしのことだ。上記のヘタクソなキャッチコピーは、広告代理店に勤めていた将来有望かどうかはわからないがとにかく若手で元気一杯だった彼が、当ストーリーのためにささっと考えてくれたものなのだが、目も当てられないほどにクオリティはひどい。

 しかしながら。彼にも彼なりの人生があった。ただ運が悪かっただけ。「声」だけの存在となってしまった後も、家族を思い続ける彼の、感動の物語をお届けしました。いかがだったかな?


 ところで私は少々困っている。なにせ「声」を届ける相手である人間が、一人残らず消えてしまったのだから。右往左往する「声」たちに、なんとかしてゴキブリ相手に渾身の一言を伝えるよう、説得しなければならない。

 あるいは何もない中空に向かって「我が黄泉に悔いなし」と呟くか。たった一人そういう例を残した男もいましてね。彼はただの助平でした。死後も相手に気付かれないまま、女の子のお尻を追いかけ回して満足したとのことだ。まったくしょうがないやつだったが、何はともあれ未練はなくなったらしく、もはや勝手にしろという感じだ。

 彼は消えたが、最後にこの金色のリボンだけが残されていた。果たしてこれは彼にとって何を意味するものだったのだろう。わざわざとっておいたわけだから、さぞ大切であったに違いない。完全に消えてもなお、ささやかなドラマは残るものだ。本当に人間はいろいろで、それが面白い。


 それにしても、あまりに大勢がいっぺんに亡くなったため、閻魔100万人体制で成仏した魂の選別に対応していると聞く。突然の人員強化に対応できるものなのか? そこはやはり焼け石に水、あまりの繁忙ぶりに数合わせで投入された人材は、玉石混合らしい。閻魔各々の仕事ぶりに当たり外れがあることは確かだそうな、どの閻魔に当たりどのような采配が成されるのかについては、当の閻魔に祈るしかないという。それはまさに地獄のような状況だ。

 しかしながら、地球がこんなことになってしまって、魂が生まれ変わる先は一体どこにあるというのだろう。閻魔の一人に聞いてみたが、「後は知らん。そこから先は『魂リサイクルセンター』の管轄だ」と言い放っていた。さすがお役所仕事である。私自身は働きがいのある存在にまた生まれ変われることを願うのみだ。この分だと、私の順番はだいぶ先になりそうですがね。

 地球にとって未曾有の事態である。悠久の世界に想い巡らせれば、いくらでも時間をつぶすことが出来るとはいえ。さあ、忙しくなりそうだ。私の最期の仕事となるだろう。

 私は声。人類ではない。だからこうしてなにもなくなった地球でも、話ができる。え? 私の声が聞こえるって、どういうことかって? お察しくださいよ。あなたはね、もうこの世に



おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メッセンジャー —死後のあなたにやりがいを★スタッフ随時募集中— 夏原秋 @na2hara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ