ア・デイ・イン・ザ・ボトル

夕方 楽

海辺のホテルにて

「いやあ、いい海風だ」

 ホテルの一室。広めのバルコニーの手すりにもたれかかった探偵が、前髪を風になびかせながら感慨深げにつぶやく。

「こんなホテルに連泊したら、さぞやストレス解消になるでしょうね」

 探偵は手すりに両手をついて下を見下ろす。

「ああでも、ここから落ちたら、一巻の終わりだな」

 ホテルは断崖に建っていて、すぐ下ではごつごつした岩場に荒い波が打ち寄せている。岩場の右手には狭い砂浜が続いていて、そこはこのホテルのプライベートビーチになっていた。季節外れの砂浜で、子供が二人、波打ち際ではしゃいでいるのが小さく見えている。

「それで、どうして今さら私をこのホテルに呼び出したりしたの? 用件は何なの?」

 探偵と向かい合って立ったまま私が尋ねる。

「もちろん、あの事件についてです」

「あの事件はもう終わったことじゃない? 少なくとも私にとっては」

「それがそうでもないんです」

 意地悪そうな笑みを浮かべて探偵が言う。

「確かに私は、あの女がこのホテルで殺された事件で警察に拘留された。でも、証拠不十分で釈放された。私は無実。もうあの事件とは関係ない」

 ザーンと高い波が岩に当たって砕ける。もちろんこの五階のバルコニーまで飛沫は届かないけれど、冷たい何かが頬に当たったような気持になる。

「実は、こんなものが見つかったんです」

 探偵はジャケットのポケットから小さな瓶を取り出しながら、

「昨日、あのビーチを歩いていて、これを見つけたんです。ほら、瓶の中に何か入ってるでしょ?」

 探偵が小瓶を私の顔の前に突き出す。

 高さ五センチほどの透明な瓶の中に、メモらしきものが四つに折りたたまれて入っている。

「当然ながら、私は中のメモを見させてもらいました」

 瓶をスッと引っ込めながら、またニヤリと笑って、

「何が書いてあったと思います?」

「さあ、見当もつかない」

 本当に見当もつかなかった。だいたい、そのメモを誰が書いたというのか。

「では教えてあげましょう」

 探偵はこれまでとは違う強い口調で、

「このメモには、あなたが犯人だという、被害者からのメッセージが記されていたんです」

 えっ、ダイイングメッセージ?

 いやそんなはずないじゃない。あの時、あの女がメモを書いて瓶に入れ、海に投げ捨てる時間なんてなかった。それは確信を持って言える。じゃあ、私が殺人を実行に移す前に、彼女が気付いて、これを用意したってこと?

 息が浅くなり、心臓の鼓動が速くなる。

 もしかしてあの時、私がトイレに行った時。ちょうどペーパーを切らして、予備のロールをセットするのに時間がかかった。その間にあの女が?

「ここには、被害者しか知りえないことが書かれていました。そして、あなたが犯人であることを示す証拠も……」

 いや困ったな。でもあと一日。明日、私はパリに発つ。海外に行ってしまえば、もうこの貧乏探偵につけ回されることもない。あと一日だけ耐えなきゃ。

「さて、どうしましょうか」

 探偵が小瓶を親指と人差し指でつまんで、再び私の顔の前に突き出してくる。

 今しかない。

 私は探偵の手から小瓶をもぎ取り、そのまま思い切り海に向かって放り投げた。

 小瓶は回転しながら白く濁った荒波に吸い込まれてあっという間に視界から消えた。

 やった、ざまあみろ。あと一日、あと一日耐えればいいんだ。

 私は満ち足りた気持ちになって、ゆっくりと顔を上げ、探偵の顔を正面から見た。

 しかし探偵に焦った様子はなかった。

 探偵は、さっきよりもっとイヤな感じのする笑みをたたえながら、ゆっくりと、ジャケットの、さっきとは別のポケットに手を入れた。

 そして、マジシャンが何もないところから生きた鳩を取り出すときのように、演出たっぷりの手つきで、さっき私が海に投げ捨てたのとまったく同じ大きさの、透明な、中に四つ折りのメモが入った小瓶を取り出して、私の顔の前に掲げた。

(終わり)

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