琴柱3
増田朋美
琴柱3
「本当に行っていいんですか?こんな人間がお琴の演奏団体に行くなんて。」
米田慶さんは申し訳無さそうに言った。
「いやいや大丈夫です。あそこの人達は、変にあなたのことをばかにすることはありませんから。」
フックさんはにこやかに言った。
「それにしても良かったじゃないかよ。職格者並みに弾けるやつが現れたんだから。」
杉ちゃんに至っては、一層上機嫌であった。
「きっとね、みんな大事にかわいがってくれるよ。保証してあげるさ。」
杉ちゃんはそう言うが、米田慶さんは不安な表情であった。
今回の練習場所は文化センターではなくて田子の浦地区では比較的広いと言われる公会堂で行われるということだった。ちなみに楽器は個人持ちであることから、今日は小薗さんがレンタカーを借りてくれて、その大型車の後部座席に琴を乗せて運んでくれたのである。
とりあえず、三人は公会堂の入り口で降ろしてもらった。小薗さんに琴を渡してもらって、慶さんは、公会堂の入り口の戸を叩いた。中からはいどうぞという声がしたので、杉ちゃん、フックさん、米田慶さんの三人は、公会堂の中へ入った。
「よろしくお願いします。こいつはな、名前はえーと、」
杉ちゃんという人は名前をすぐに忘れてしまうくせがあった。だから変なやつだと思われてしまうのである。
「米田慶さんです。なんでも実力がある方で、一応職格者の称号もあるそうです。事情があって、社中からは退会したそうですが、それでもお琴を弾きたいと言うことで、来てくださいました。」
フックさんは、米田慶さんをメンバーさんたちに相談した。
「流派は山田流で、何でもいろんな曲を弾くことができるそうです。古典筝曲から、現代筝曲にも親しんてきたとか。」
「そうなんですね。」
と、琴奏者の一人が言った。
「それくらい実力があるのか、確かめさせてもらうために、一曲弾いてもらおうかしらね。それなら、琴の代名詞と言える、春の海とか弾いてもらおうかな。どうかしら。それなら弾けるかな?」
「わかりました。」
慶さんはそう言って、正座で床に座り、琴を琴台の上に乗せて素早く琴柱を乗せて調弦し、春の海を弾き始めた。確かに、春の海はむずかしい曲である。有名な割に演奏するのは簡単ではない。よく、師範試験にも登場する曲でもあった。慶さんは、春の海を止まることなく何とか弾きこなして見せた。
「ほう、なかなか弾けるじゃ無いですか。それではぜひ、うちのバンドで活躍してよ。」
酒井希望さんがそういうのであるが、他の女性たちはとても嫌そうであった。とても彼を歓迎しているような態度には見えなかった。
「まあ、気にしないで。みんな上手ではないから、あんたみたいなすごい上手い人を見ちゃうと、変な顔しちゃうのよ。まあ気にしないでさ、一緒にやりましょうよ。」
ちょっと太った生田流の十七絃のおばさんがにこやかに笑って言った。太った人というのは、何処かに優しい気持ちを持っているというのは本当である。
「ありがとうございます。それでは早速、ここまで実力のある方のようですし、メンバーになってもらって、練習に参加してもらいましょうか。春の海が弾けるようであれば、牧野由多可さんの春の海幻想を練習してみましょうよ。皆さん、意義ありますか?」
希望さんに言われて、メンバーさんたちは、春の海幻想の楽譜を取り出した。慶さんは、琴一に入ってと言われた。それがまたメンバーさんは嫌だったらしい。まわりの人達は、どうしてこんなふうに弾けるのだろうとか、あたしたちが弾くのにあんなに苦労してたのにとか、嫌味を言っている。
「それでも一生懸命やらなくちゃ。せっかく上手い人が来てくださったんだから。」
と尺八奏者の男性がそう言っているのであるが、ほとんどの女性たちは、嫌そうな顔をしたままであった。
「でも彼は上手ですよ。こうして上手な人が来てくれれば、うちのバンドだって、有力な人が来てくれて、きっといい方向に変わってくれると思う。そうだよねえ。竹芝さん。」
と尺八奏者の男性が、竹芝さんという女性の琴奏者、しかもコンサートマスター的な位置にいる女性に向かってそう言うと、
「嫌な人が来たものですね。」
と彼女は言った。
「どうしてですかね?貴重な人材だと思うけど。」
別の尺八奏者が言った。
「いいえ、春の海幻想がすぐ弾けるのはありがたいんですけど、この会の様子を壊すようでは困ります。それにこの人は、長年教室へいたんでしょう。それなら、わたしたちがしているような苦労をしていないことにもなりますよね。そんな人と、わたしたちは一緒にやれるもんですか。私達は認めませんよ!そんな人をこのバンドに加わらせるなんて!」
と、竹芝さんは言った。
「しかし、いいじゃないですか。こういう若い人で、演奏も上手な方はきっと良い人材になりますよ。ぜひ仲良くしてやりましょうや。」
尺八奏者の男性がそう言うと、
「でも私達は、こういう人に対抗するつもりでやってきたんだし、そういう人にここへ来てもらいたくないわ。」
琴奏者の女性はそういった。
「それには実力がある人がいてもいいのでは?」
と力なく希望さんがそう言うと、
「嫌ですよ。そんな人に個々に来られて、あたしたちが今まで戦ってきた、偏見との戦いの歴史をぶっ壊されたらたまんないわよ。」
と竹芝さんが言った。
「まあ待て待て。こいつだって決して楽だったわけじゃない。こいつだって、同じお琴教室で一生懸命やってたけどさ。一生懸命だったけれど、それが通じなくて大変だったんだよ。お琴を習うのにさ、どうしても必要だけど、博信堂の楽譜は手に入らないだろ。それを先生に強制されて、嫌な思いをしたこともあったんだ。だからそういう事はおまえさんたちも経験したことはないか?一度や二度はあるだろう。それを手に入れられなくて、激怒されたこともあったんじゃないの?」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「確かにそうね。そういう事はあたしたちもよく経験しましたけどね。だからこそ、新しい人は入れたくないって言う気持ちがあるのよ。それも上手い人となればなおさらよ。だって、わたしたちは、博信堂の楽譜を買えなかったことで、いくら先生に怒鳴られたと思ってるの?あたしたちは散々怒られて、もうお琴は懲り懲りだと思ったわよ。それを乗り越えられた男というのは、やはり、、、嫌なものがあるわ。」
山田流の琴奏者が言った。
「あたしたちだって辛かったんですよ。生田流のあたしたちは、すぐに楽譜を手に入れられるからいいねって、山田流の人に嫌味を言われるんですよ。それに挙げ句の果てには、ネットで嫌がらせされたことだってあるわ。だから、あたしたちは、他の人達とは協力しないことで、お琴や尺八をやり続けてきたのです。琴や尺八をずっと続けていくためには、これまでのやり方をしてはだめなんですよ。そういうお教室からは離れなくちゃ。それに関わってきた人と、一緒になんか当然やりたくありませんわ。」
生田流の琴奏者もそういった。
「こいつだって同じようなところを経験したからこそこのバンドに入ったんだけどなあ。それなのに、どうしても受け入れてくれないのかなあ?」
杉ちゃんがやれやれという顔で言った。
「そうかも知れないけど、わたしたちは、偏見と戦いながら、頑張ってきたのに、その恩恵に預かっている人に、それをぶっ壊されるような真似をされてはたまらない!」
と、竹芝さんは言った。
「でも彼はとてもいい演奏ができるというのは、外せないと思うんですけどね。このバンドだって、そういう人が必要であることはよくわかっているじゃありませんか?」
尺八奏者の男性がつぶやくと、竹芝さんがヒステリックに、
「杉浦さん!そんな事を言うんだったら、あなたにこのバンドから出ていってもらいましょうか!」
そういったため、杉浦さんは黙ってしまった。
仕方なく杉ちゃんたちは、その日は何も収穫がなく、製鉄所へ戻るしかなかった。ところが意外に、彼、米田慶さんはとても落ち込んでしまっていると思われたが、なんだかとても落ち着いていて、先程の事も忘れてしまっているようである。
「本当にごめんなさいね。僕もあのようになるとは思わなかったので、新しい仲間が来たら歓迎してくれると思ったのですが、現実は違いました。」
フックさんが申し訳無さそうに言うと、
「いいえ、いいんですよ。だってあの人達、僕が所属していたお琴教室の人たちと同じことを言っていました。長く伝統文化に携わっていると、そういう考えが出てきてしまうものですね。それはどうしようもない事かもしれませんね。やはり伝統文化というものは、人間のあたまを固くさせてしまうというか、そうさせてしまうのかもしれません。」
と、米田慶さんはそういった。その言葉に、杉ちゃんたちは、そうだねと頷きあった。
「まあねえ、そうなってしまうのはもう仕方ないか。それもなんだか悲しいな。」
杉ちゃんがそういう通りそんな感想を持たれても仕方なかった。
「そうやって、流派どうしで喧嘩するなんて、まるで戦争状態ですね。それも楽しくないな。」
フックさんは作曲家らしくそういった。
「そうやって喧嘩してるから、作曲者としてはそのあたりがつらくて、琴の曲を書くのは嫌になってしまうんですよ。」
「本当ですね。」
米田慶さんは言った。
それから、その翌日。製鉄所に妙な客がやってきた。なんとやってきたのは酒井希望さんである。
「昨日は大変失礼いたしました。うちの団員があんな琴言ってしまいまして、本当に申し訳ありません。」
希望さんは杉ちゃんやフックさんに言った。
「それでは良いのですけどね。一体今日は希望さん、僕たちに何の用があるのです?」
フックさんはそういうと、
「はい。実はお願いがあってこさせてもらいました。右城水穂先生がこちらにいらっしゃいますよね。今日は、右城水穂先生にお願いがあるのです。」
と、希望さんは言った。
「はあ。次は、水穂さんに用があるんか。次々にターゲットを変えて、邦楽家は大変だな。」
杉ちゃんに言われて、希望さんは申し訳無さそうな顔をして、
「すみません。でも右城先生のような高名なピアニストの方に、ぜひうちのバンドの推薦の一言を書いてもらえれば。」
と、言った。
「何だ。結局それが目的か。悪いけど、それはお断りだ。水穂さんの現姓は右城ではなくて磯野だよ。右城は旧姓で、もうそれは使ってないの。それに、水穂さんなら寝ているよ。それを邪魔させたくないので、今日は帰って貰えないかな!」
と、杉ちゃんがそう言うと、
「それなら書きますよ。」
と、小さな声がして、水穂さんその人が現れた。
「本当ですか?本当に二言三言書いてくれれば、それでいいのですよ。それだけで大丈夫ですから。どうかお願いします。我がバンドを推薦する文書を書いていただければ。」
「わかりました。」
そういった水穂さんは、前よりももっとやつれた痛々しい感じの表情だったけれど、そういう事を言った。
「でもその体でお前さんは大丈夫なのかい?」
杉ちゃんがそう言うと、
「でも本当に二言三言だけで構いません。うちのバンドを推薦してくれればいいのです。そうやって高名なピアニストの先生から、推薦の文書をいただけるなんて、夢のようです。ぜひよろしくお願いします。必ず書いてください!」
「そうかも知れないけどねえ。お前さんは、寝てなくちゃだめじゃないのかい?」
杉ちゃんが心配そうな顔をしていたが、
「いえ、大丈夫です。なんとか書けるのではないかと思います。」
と、水穂さんはしっかり言った。
「それにしても、あれやこれやところころとパトロンを変えなければならないとは。邦楽バンドもつらいものがあるな。最もこういうバンドはすぐパトロンをおりてしまう方が多いか。」
杉ちゃんは大きなため息をついた。
「いつも丁か半かを狙っている賭博をしているようなものですね。」
フックさんもなんだか希望さんが可哀想になって、そういう事を言った。
「それでは良い方へ、サイコロが転んでもらいたいものですが。きっといろんな人に推薦の言葉とか、そういうものをもらっているのでしょうね。それは、裏を返せば偉い人に推薦の言葉を書いてもらわないと、客が来てくれないという現実でもあるのですね。そうですね。まだまだ難しいのかな。」
「そうだねえ。前例が無いってことは、そういうことでもあるな。」
杉ちゃんとフックさんは、顔を見合わせていった。
「ありがとうございます。先生。やっとこれで用無しのバンドも卒業できますね。他にも有名な音楽家がいればぜひ紹介してください。その方々に推薦の言葉を書いていただければ。」
希望さんだけ一人ニコニコしていた。
さらにその翌日のことであった。その日は日曜日であった。由紀子は、駅員の仕事はお休みであった。どうせ土日祝日担当の駅員も要るので、由紀子が出勤する必要も無いのであった。そんな日は必ず製鉄所へ行くことにしている。役に立つのか立たないのかよくわからないけれど、由紀子は、水穂さんの世話をしたいと思うのであった。その日も、由紀子は、車を走らせて製鉄所へ向かった。
由紀子は、こんにちはと言って、製鉄所の四畳半へ向かうと、水穂さんは、座布団に座るタイプの机の前に正座で座って、なにか書いていた。由紀子からしてみれば、水穂さんが布団から起きて、机に向かっていることなんて、言語道断であったからすぐに、
「水穂さんどうしたの!横になっていればだめだと言われたばかりじゃないの!」
と声を荒らげたが、水穂さんはそれを無視して書き続けていたのであった。しかし、次の瞬間、水穂さんは激しく咳き込んでしまい、机の前に敷いた座布団の上に倒れ込んでしまった。由紀子はすぐに水穂さん横になってと言い、無理やり彼を立たせて布団に横にさせた。その間にも咳き込んでいるままだったので、その背を撫でてあげた。
「一体どうしたんだよ!ああまたやったのねえ。だから言ったじゃないかよ、無理するなって。」
杉ちゃんが四畳半に入ってきて、由紀子にそう言うと、
「急に倒れちゃったんです。だってこの間ずっと安静にして居ろと言われたばかりなのに、机に向かってなにか書いたりしてるから、こうなるんじゃありませんか!」
由紀子は苛立った様子で、杉ちゃんに言った。
「とりあえず薬を飲ませて眠らせてあげよう。」
杉ちゃんに言われて、由紀子は急いで枕元にあった水のみの中身を水穂さんに飲ませた。これによって、やっと咳き込むのは止まってくれたのであるが、薬には眠気を催す成分が入っているらしく、水穂さんは静かに眠り始めてしまった。
「もうどうしてなのかしらね。先生の言うことも何も聞かないで、机に座って書き物するなんて。ちゃんと、安静にしてなければだめなのに。」
そう言いながら由紀子は壁にかかっているカレンダーを見た。本日の翌日に、推薦書提出日とカレンダーに書き込まれてた。机には確かにその原稿と思われる、レポート用紙が置かれていたが、それは先程吐き出した血液のせいで真っ赤に汚れてしまっていて、とても、書いてある文字は読めそうになかった。ただ一番はじめに書かれていた、
「楽しき夢、ありがたき候。」
という文字だけが読み取れた。水穂さんは字が上手なので、とてもきれいな字だった。
「とりあえずこのまま寝かせてあげよう。」
杉ちゃんに言われて、由紀子も頷いた。急いで水穂さんを布団に寝かせてやり、掛ふとんをかけてやった。
「しかし、そのうち、あの、酒井希望という尺八野郎が、原稿を取りに来るぜ。これでは提出できないだろう。」
「そんな事させるなんて!水穂さんには、今はさせては行けないわ。まずはじめに、安静にさせてやらなくちゃ!」
由紀子はヒステリックに言った。
「そうだねえ。それではどうしたらいいのかなあ。こんな原稿をあの男に見せるのは、ちょっと酷だぜ。」
杉ちゃんも由紀子の言うとおりだと言った。
「まあ仕方ない。あの尺八男には、別の人間に推薦状を書いてもらうように頼もう。誰が推薦者になってくれるかが問題だけどさ。誰かいないかなあ。そういう邦楽に理解ある人。」
杉ちゃんはまだ吹き出てくる汗を拭きながら、大きなため息を付いてそういう事を言った。
「まあ、ねえ。誰に書いてもらうかということであるが、、、。洋楽のオーケストラのような感じで、流派も何も関係なく、琴や尺八を演奏するバンドという前例が無い形態のバンドの推薦状を書くというのは非常に難しいものであると思うんだよね。それをやってくれるというのは、本当に難しいものだと思うよ。日本人は前例というのにこだわりすぎるから。全く新しいものはすぐには受け入れないからな。そういうところで、やってくれるんだったら、水穂さんは、いい人材だったとは思うんだが、、、。」
「そう言うわけには行きません!水穂さんは、今はとにかく、安静にさせて上げることが必要なんです!」
由紀子は、そういう杉ちゃんに急いで言った。
「確かに、由紀子さんの言うことも一理あるけどさ。僕らもなんとかしなければならないと思うんだよね。あの尺八男、水穂さんに推薦状を書いてもらうの、本当に楽しみにしてるみたいだし、、、。」
確かにその通りなのだった。今ごろ酒井希望さんは、何処かで大きなくしゃみをしていることだろう。
「明日原稿を取りに来るんか。これでは、まずいよなあ。」
杉ちゃんは血液で汚れた原稿に目をやった。
「この一言でいいんじゃないかしら。」
由紀子は、急いで言った。
「いいんじゃないかしらって、それでは、大したこと書いてないだろう。僕読めないから、なんて書いてあるのか。」
「だからこれで良いと思うわ。楽しき夢ありがたき候。この言葉にまさるものは無いわよ。その一言だけでも立派な推薦の言葉じゃないの。」
由紀子は、もうどうでも良いというつもりでいったのか、それとも、杉ちゃんの苦労を助けるつもりでいったのか、自分でもよくわからないままそう言ってしまったのだった。
琴柱3 増田朋美 @masubuchi4996
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