凛として

 店の裏口の前で、スマホも触らずに佇んでいた。真っ暗な視界はまるでトンネルの中みたいだった。胸の中では今から伝えるべき言葉と感情が渦巻いていた。どんな言葉を選んでも、私が酷くて醜いことに変わりはなくて、そうまでしてでも伝えたい思いが今か今かとその時を待ち構えていた。

 そして、先輩が現れた。

 真っ白なワンピースを着た先輩はこちらの様子を伺うように恐る恐るといった感じで私の前に立った。私よりも一回りも二回りも背が高いはずの先輩がなんだか小さく見えた。かわいらしい子供みたいだった。

「いきなり呼び出してどうしたの?」

「すいません。それは着いたら話します」

 そう言って私は目的地に向けてスタスタと歩き始めた。一拍遅れて先輩も慌てたように追い縋ってきた。

 私は何かから逃げるように歩調を速くした。先輩でも付いてくるのがやっとなくらいに。

 私は一度も後ろを振り返らなかった。あの日の先輩みたいに。

 そうして思った。あの日の先輩もこんな気分だったんだな、と。胸に溜め込んだ言葉をすぐにでも吐き出してしまいたくて、けれど拒絶されることが怖くて、今すぐにでも逃げ出したくて。そんな想いが歩調を速めるのだ。

 目的地には程なくして着いた。

 薄汚れたビルの人を寄せ付けないような雰囲気も意に介さず、平然と中に入って階段を登っていった。先輩も後ろからついてきた。二人分の足音が夜の街に響きながら、少しずつ高度を上げて行った。

 そして、ファンテイクの前までたどり着いた。私は少しだけたじろいだ。けれどここまで来て、説明もせずに先輩を連れてきて逃げるという選択肢はもう残されていない。

 私は意を決して店のドアを開けた。ギッと軋んだ音がした。

「いらっしゃい。って凛ちゃんと後輩ちゃんじゃない。二週間ぶりくらいかしらね」

「ご無沙汰してます」

 私はそう言って頭を下げた。前と同じように、店内にお客さんの姿はなかった。私は前と同じテーブルに向かい、先輩のために椅子を引いて差し出した。

 私たちは前とは逆側の席に座って向き合った。

 沈黙が場を包んだ。それを破ったのは先輩だった。

「とりあえず何か頼もっか。私はもう決めてるけど、北山さんは前と同じのでいい?」

 先輩の問いかけに私は首を横に振った。それからメニューを見て適当に目についたお酒をあげた。

「私はこのバイオレットフィズをお願いします」

「これお酒だよ?」

先輩は慌ててそう言った。

「実は私つい先日が誕生日で、20歳になったんです。だからお酒飲めます」

 私は淡々とそう言った。実際にそれは嘘じゃなかった。

「そうなんだ。おめでとう。じゃあ今日は北山さんの誕生日会だ」

先輩の言葉に私は曖昧に笑った。そんな楽しい会ならどれだけよかっただろう。けれど実際のところこれから私が行うのは自らの内心の汚い部分を全て先輩に見せる作業だ。

 私が自嘲に勤しんでいる間に先輩はマスターにオーダーを告げた。

「雪国とバイオレット・フィズちょうだい。北山さんちょっと前に誕生日でお酒飲めるようになったんだって」

「あらそれはおめでたいわね。一杯サービスしちゃおうかしら」

 そんなことを言いながらマスターはカクテルを仕上げ私たちのテーブルまで運んで、置いてくれた。

 私たちは前回よりは洗練された動きでグラスとグラスを合わせた。

「乾杯」

そう言って儀式のように、一口飲んだ。高校生の時に一口だけ飲んだビール以来、二回目の飲酒だった。

 ほとんど初めてのお酒はなんだか熱くて、お腹の底がぽかぽかとするようだった。

「初めてのお酒はどう?」

「なんか不思議な感じです」

「なにそれ」

そう言って先輩は笑った。その笑顔は以前よりもずいぶん柔らかいものになった。

 その笑顔で胸が高鳴った。しかし、その笑顔のせいで自分の醜い感情と再び直面した。最近はずっとこれの繰り返しで、そこから抜け出すために今日はここに来たのだった。

 私のそんな内心を察してかどうかは分からないけれど、先輩は遠慮がちに尋ねた。

「今日はどうして、誘ってくれたの?」

「実は、先輩に言いたいことがあって」

 私はそう前置きをしてから、目の前にあるグラスを掲げた。先輩が目を丸くするのが見えた。

 私はあの日の先輩をなぞるように、紫色の液体を喉に一気に流し込んだ。それからその勢いに任せて言葉を放った。

「前に私、先輩の相談に対して、周囲の人に先輩の弱い部分も見せてみたらどうですかって言ったじゃないですか。あれやっぱり取り消させてください」

 私はそう言って大きく息を吸った。先輩は先ほどまでの心配そうな表情をやめて、いつもの真剣な表情で、宝石のように綺麗な瞳で真っ直ぐに私を見つめていた。私はその瞳に吸い込まれるように想いの全てを吐露した。

「先輩が私以外の人に弱いところとかかわいいところとか見せてるの嫌なんです。耐えられないんです。だからそういうの見せるのは私だけにしてください。それに、先輩が他の人と仲良くしてるのとか言葉を交わしているのとか、それだけでも身体が切り裂かれるみたいに痛いんです。心臓がキュってなって崖から突き落とされたみたいな気分になるんです。だからもう他の人と仲良くしようとしないでください。前みたいに厳しくて冷静で完璧でとっつきづらい先輩に戻ってください。それで、みんながまた先輩を避けるようになっても私だけは知ってますから。先輩の弱い部分も幼い部分もかわいい部分も。先輩の全部を受け入れて先輩を絶対一人にはしませんから。だから私だけにしてください。そういう先輩全部知っているのは私だけで十分なんです」

 言葉を重ねるにつれてアルコールとか頬の紅潮にその輪郭を破壊されていくような感じがした。私の言葉は無茶苦茶だった。感情だけをひたすら先輩にぶつけていた。そこには論理も道理も何もなかった。

 だからこんなわがままで自分勝手な告白が受け入れられるはずがなかった。こんな醜い独占欲にまみれた想いが受け入れられて良いはずがなかった。

「わかった。北山さんが言うならそうする」

 それなのに、先輩は何も疑うことなく当たり前のように頷いた。

 その瞬間、仄暗い喜びが全身を駆け巡った。心臓が歓喜で震えて身体が宙に浮くみたいにふわふわしていた。

「なんで...?」

私はその幸福が信じられなくて、真実だと思いたくて、確かめるように、縋り付くように尋ねた。

「なんでって、言った通りだよ?北山さんが言うなら私はそうするよ。だって北山さんが間違ったことを言うわけないもん。

 それはある種の刷り込みだった。先輩にとって私は初めて心の中を打ち明けた人で、それと真剣に向き合ってくれた人で、そんな初めてが先輩の首を縦に振らせたのだ。まるで、雛鳥が初めて見たものを親だと思い盲信的に依存するように。

「私は先輩だけを見ていますから。先輩も私だけを見ていてください」

「うん。わかった」

 執拗な私のお願いにも、先輩は当たり前のように首を縦に振った。

 私よりも遥かに綺麗で優秀で優れていて、周囲から畏敬の念を抱かれている先輩が、私の理不尽なお願いにも疑問を抱かず受け入れてくれる。私だけが先輩の特別。

 私が欲しいものはそういうことだった。先輩の初めてや特別、普段は見せない表情は全て私だけが知っていればいいと思った。真面目さから覗くお茶目なところとか、厳しさから覗く抜けているところとか、美しさから覗くかわいいところとか、そういう先輩の魅力的すぎるところを他の人には見せたくなかった。私だけがそれをずっと知っていたかった。

 その全てが今目の前にあった。先輩の全てが私のものだなんて、そんな風に思ってしまった。

 醜い独占欲の中でじっと息を潜めていた想いが、私ですら気づいていなかった想いが急速に真実の輪郭を纏って喉から溢れ落ちた。

「好きです先輩。私の恋人になってください」


 あなたはこれからも周りを寄せ付けないくらい、凛としていて。私だけがそんなあなたを見つけたから。私だけがそんなあなたを愛するから。

 だから、この言葉にも頷いて

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凛として 無銘 @caferatetoicigo

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