苦くて苦しくて

 あの日を境に先輩は変わった。いつもと変わらず仕事はテキパキとこなすし、周りに檄も飛ばすけれど、時たま柔らかな雰囲気を放つようになった。

「最近、時雨先輩なんか優しくなったよねー」

「わかる。この前もいつもみたいに注意はしてたんだけどさ、その後にフォローするみたいに笑ってくれて。その笑顔がめっちゃ下手くそでかわいかった」

「もしかして先輩って不器用なだけで怖い人じゃないのかな」

 予期した通りに、周囲の先輩への誤解は解けつつあった。それは喜ぶべきことのはずだった。

 それなのに、先輩を取り巻く状況が改善されるに従って私の胸の中は曇っていった。先輩があの日見せたような柔らかさを他の人に見せるたびに、昔に一口だけ飲んだビールみたいな苦さが全身を巡った。

 先輩は定期的に他のバイトの子と会話を交わすようになって、不器用ながらも一生懸命に言葉を綴る先輩がかわいらしくて、微笑ましい、なんて。

 そんな気持ちだけで終われればどれだけ良かったかと思う。

 推しのバンドがヒットしてしまったような気持ちとでも言えばいいのだろうか。私の方がもっと早くに魅力に気づいていたのに、みたいな。良いことのはずなのに素直に喜べないような気持ち。実際、私が先輩に抱いていた感情は推しとかそういった対象に向けるようなものが主であったように思う。

 でも仮にそうだとするのならば、今感じている苦しみはあまりにも大きすぎる。ただ推しているだけならば、どうしてこんなにも心が痛いのだろう。まるで自分の半身をもぎ取られたみたいに感じるのだろう。

 分からないけれど、何かが限界に達しそうだという予感があった。一度は目を逸らした感情が執拗に私を絡め取ろうとしてきた。その感情に身を委ねたいという甘くて醜い欲望が心に侵入して全身を巡るようだった。

 そして、その時は呆気なく訪れた。

 私はグラスの片付けをしていた。先輩は隣で発注の確認をしていた。そこに一人の女子が現れて先輩に声をかけた。

「先輩って家ここら辺なんですよね?」

「そうだけど」

「そしたら今度バイト終わりに飲みとか行きませんか?なんかずっと一緒に働いているのに先輩とそういうことしてないなと思って、なんなら今日にでも」

 無意識だった。無意識に言葉が口をついて出た。

「先輩、今日っていつもみたいに裏口で待ってればいいですよね?」

「え、うん」

 私の言葉に先輩は困惑の表情を浮かべながら反射的にといった感じで頷いた。

「あ、もしかして先約あった感じですか。それはごめんなさい。じゃあまた機会があればぜひ」

そう言って女の子は逃げるように自分の持ち場へと離れていった。

 先輩が疑問の視線で私を見つめていた。私はその視線をたぐって、先輩にだけ聞こえるように言った。

「話したいことがあるので、あがったら裏口で待ってますね」

 喉がひどく乾いていて声が掠れた。冷たい汗がじっとりと全身にまとわりついていた。

 先輩は私の言葉に静かに頷いた。

 その同意が救いでもあり、退路を立たれたということでもあった。

 もう後戻りはできないと思った。

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