先輩の裏側

 人間に向いていない。先輩の言葉が鼓膜の奥で響いていた。それに追随するように、先輩の独白が始まった。

「私、小さい頃からずっと人付き合いが苦手なの。なんだか感情をうまく表現できなくて、それが怖そうとかそういうふうに思われちゃうらしくて。今のバイト先だってそう。最初は頑張ろうと思ったの。ちょっとでも良い印象を持ってもらえるようにって。けれど仕事に集中していると愛想よくとかそういうのが頭から抜けちゃって、仕事中はいつも以上に人とうまく関われなくて、気づいたら今までよりももっと酷いことになっていた。みんなから怖がられて疎まれてそれでちょっとでも改善しようと思うたびに空回りして、気づいたらまた一人ぼっちだった。ミスが続いてた新人さんをバイト後に呼び出して慰めようとしたら、なぜか詰めているんだと勘違いされて泣かれて辞めちゃったなんてこともあった。そんなことの繰り返しで徐々にみんなに嫌われていった」

 先輩は拗ねたような表情で口の端を歪めた。

 私は無言で首を横に振った。先輩はそんな私の動作に目を見開いて、それから言葉を続けた。

「けどね、北山さんはみんなと違ったの。北山さんは私にもみんなと同じように普通に接してくれた。たまに、なんでもない雑談をしてくれた。それがすごく嬉しくて、だからそんな北山さんにならどうすればみんなと少しでも仲良くなれるのか教えてもらえる気がしたの」

 言葉を重ねるにつれて、先輩の頬はどんどんと赤らんでいって、呂律はだんだんと拙くなっていった。恐らくお酒を一気に飲んで酔いが回ってきたのだろう。その影響で先輩を包んでいた洗練さとか清廉さはみるみると剥がれ落ちていって、目の前には雛鳥のように不安げな表情で私を見つめる少女がいた。美しい死神の面影はどこにも無かった。

 そんな光景が柔らかに心臓の中心を撫でた。だから、私はそっと手を差し伸べるように優しい言葉を綴った。

「みんな先輩のことが嫌いなわけじゃないと思いますよ。ただ、先輩は仕事ができていつでも正しいから、畏怖しちゃっているというか。けれど、私はそんな先輩を尊敬していますし、それはみんなも同じだと思います」

「本当に?」

縋るような視線で先輩は呟く。

「本当です。だって仕事が完璧な上に、見た目も綺麗でかわいくてかっこよくて、そんな先輩が嫌われるわけないですから」

 私は真実を並べるように淡々とした口調で言った。しかし、そんな口調とは裏腹に胸の中を占めていたのは高揚だった。

 普段のキッチリとした先輩を知っている分、今の隙だらけの先輩がかわいくて仕方がなかった。

 しかも、そんな先輩の姿を知っているのは私だけなのだ。先輩が生涯で初めて悩みを吐露した相手が私なのだ。その事実が仄暗い欲望を煽るように胸の中で揺れていた。

 私がそんな思考に苛まれていると、先輩がポツリと呟くようにして尋ねた。

「私って綺麗でかわいいの?」

「もしかして自覚してないんですか?」

「自覚も何もそんなこと言われたことないし。それに背だってこんなにおっきくて、かわいいとか程遠い言葉だと思うけど」

「いやいや。先輩って正直なんでうちでバイトしてるだけなのかわからないくらい綺麗ですからね。そこらへんのモデル顔負けレベルで。よく街で芸能事務所とかから声かけられません?」

「そりゃかけられるけど。あれってみんなそうでしょ?」

 当たり前のようにそう言う先輩に私は頭を抱えた。正しさとか冷静さの薄皮を剥いだ先輩はなんだかふわふわとしていて、浮世離れしている。

「それは先輩が綺麗でかわいいからですよ。先輩が自分の容姿に自信が持てないなら代わりに私が保証します。先輩は最高に綺麗でかわいいです。

「ありがと」

 先輩は、語彙の乏しい私の力説に花が咲くように笑って舌っ足らずにそう言った。子供のように純朴な笑顔だった。

 そんな先輩の表情を私は初めて見た。

 今日は先輩に関しての初めてがいっぱいだった。そしてそのどれもが私の胸を喜びでくすぐった。

「もう一杯同じのちょうだい」

 先輩は空のグラスを示すようにマスターに声をかけた。

「あんたそんなに強くないんだからやめときなさいよ。さっきも変な飲み方して、今だって顔真っ赤になってるし」

「いいじゃん今日は飲みたい気分なんだから」

「私は知らないからねー。後輩ちゃんもどう?何かいる?」

急に回ってきた会話のお鉢に慌てて返事をする。

「私はまださっきのが残っているので、お気遣いどうもありがとうございます」

「あらやだ丁寧で良い子ね。なにか飲みたくなったらいつでも言ってね」

マスターはそう言いながらテキパキとカクテルを作り、こちらまで歩いてきて先輩の目の前にそれを差し出し、またカウンターへと戻っていった。

 先輩はまたそのカクテルをぐいっと飲んで、仕切り直しのように私に尋ねた。

「それでさ、結局どうしたらいいかな。どうしたらみんなともっと仲良くできるかな?」

 先輩は縋るような視線で私を見つめていた。いつもは凛と周囲を射抜く双眸が今はとろんと私にもたれかかっていた。

 そんな表情でいちいち心臓が跳ねた。

「もう少しだけ、普段から今の感じを心がけてみたらどうでしょうか。弱い部分も見せてみたらどうでしょうか。そしたらちょっとはみんなも怖がらないかも」

 私は言いながら、これは問題の解決策としては最も適したものだけれど、私が言いたいことではないような気がした。けれど正しさの権化のような先輩が必死に正しさを求めている手前、適当な答えを言うのも憚られて、その感情を深く考えることはやめた。

「わかった。北山さんが言うならそうしてみる」

従順に頷く先輩の言葉が私の違和感を少しだけ和らげてくれた。だから、それを無かったことにできた。できてしまった。

 その代償を後で払わされるとも知らずに。


 その後、先輩とはたわいもない話をしながら飲んだ。一気に距離が縮まってまるで友達のように先輩の愚痴だとか今までの人生の話だとかを聞いていた。「対義語ゲーム」なんて遊びを一緒にしたりもした。先輩は難しい言葉をたくさん知っていって、そんな知的な面はいつもの先輩らしかった。

 私たちは十二時を少し回る頃に店を出た。先輩は律儀に私を家まで送ってくれた。

 店にいる間も店を出てからも、先輩はずっと普段の先輩からは考えられないような言動をしていた。

 しっかりしている反面、意外とお茶目で抜けているのだと知った。孤高で一匹狼なように見えて、実は甘えたがり屋で寂しがりやなのだと知った。大人っぽさの裏側にはかわいらしい子供っぽさがあるのだと知った。

 先輩が見せてくれたあらゆる表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 私の家の前で別れる時、先輩は決意表明のように言った。

「今日はありがとう。北山さんのおかげでだいぶ楽になった。私、明日から北山さんが言ったように頑張るから。みんなともっと仲良くなれるように」

「はい!応援してます!また何かあったらいつでも言ってください」

私はいつものように、普通な態度で、笑顔を心がけてそう言った。けれどなぜか上手く笑えていないような気がした。先輩以上に下手くそな感情表現のような気がした。

 しかし、そんな私の言葉で先輩は笑った。「ファンテイク」で何度も浮かべたみたいな子供っぽい自然な笑みを浮かべた。まるで私に勇気付けられたみたいな表情だった。

 その笑顔に、正体不明の罪悪感が募った。

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