揺れる

 こんな日に限って客の引きがすこぶる順調で、締め作業はスムーズに終わりを告げた。

 私は業務報告書を作成する先輩を尻目に、そそくさと更衣室に逃げ込んで、周囲の人間に同情の視線を浴びせられながら着替えて、言われた通りに店の裏口の前で先輩を待っていた。薄暗い視界に無造作に振りまかれるスマホの明かりが目に悪くて、そんな空間が緊張を煽った。

 私何か怒らせるようなことしちゃったかな?とか。

 いやいや、先輩はみんなが思うような怖い人ではないはず。とか。

 様々な思考が頭を駆け巡って落ち着かなかった。そして、心の整理がつかないうちにその時は訪れた。

 裏口がゆっくりと開かれた。そこから、ピンと伸びた背筋に堂々とした態度で先輩が現れた。バイトの制服から黒いワンピースへと着替えた先輩はまるで美しい死神のようだった。氷のように冷たい双眸が私を見つめていた。

「待たせてごめんね。北山さんって家すぐ近くだったよね?」

 開口一番先輩は尋ねた。

「はい。ここから歩いてすぐです」

「ならさ、ちょっと付き合ってくれない?お金は出すから」

そう言って先輩はスタスタと歩き出した。私は慌てて先輩の後を追った。

「付き合うってどこへ?」

「すぐ近くだから」

 先輩はなぜか詳細を教えてくれない。そして、歩幅が広くて歩くのが速い。

 私は追い縋るので精一杯で、先輩の圧のようなものも感じて、それ以上何も言わずに必死で先輩を追いかけた。

 バイト先の店がある駅前の繁華街からどんどんと離れて、辺りの光度が一段階も二段階も下がっていった。周囲の人もまばらになって、たまに帰宅途中と思われる人や酔っ払った人とすれ違うだけになった。夜道に二人分の足音だけが響いていた。

 本当に、どこに向かっているんだろうと首を傾げていると、唐突に先輩は歩みを止めた。

 目の前には寂れた雰囲気のビルがあった。頼りなく薄暗い照明には小さな虫が集まっているのが見えた。入り口は剥き出しになっていて、その横にはアパートのように郵便受けが並んでいた。表札には個人名や会社の名前やお店の名前が無造作に書かれていた。そして奥には、錆びた鉄筋コンクリートの階段が、登られることを微塵も望んでないような佇まいで鎮座していた。

 先輩はそんな不気味な威圧感を気にも留めず、まるで当たり前のように階段を登り始めた。私は少々面食らいながらも、先輩の後を追いかけた。

 階段は二人分の歩みを一身に受け止めて、軋むような金属音をあげた。日焼けた肌みたいな錆が手すりや外壁の至る所に点在していた。蒸し暑い夏の夜にふさわしい色だと思った。階段を一段登るごとに汗が額から噴き出て、足取りが重くなった。

 そんな私とは対照的に先輩は軽い足取りで難なく階段を登って行った。黒いワンピースの裾がダンスを踊るみたいに揺れていた。

 三階にたどり着いたところで、先輩は方向転換をして歩みを止めた。目の前にはシックな雰囲気の木製のドアがあって控えめな文字でOPENと書かれていた。ドアの横の立て看板には「ファンテイク」と真っ白な文字で書かれていた。先輩はチラッとこちらを一瞥した後、ドアを厳かにゆっくりと開けた。

 店内は私たちのバイト先とは正反対の静かな雰囲気で、薄暗い照明にジャズミュージックが控えめな音量で流れていた。お客さんは一人もおらず、カウンターの中央では、ガタイの良い初老の男性が繊細な手つきでお皿を拭いていた。

「あら凛ちゃん。いらっしゃい。そちらのかわい子ちゃんは?」

 先輩の姿を認めたマスターが挨拶と一緒に尋ねた。

 スマートな見た目と裏腹に柔和な表情で、甲高い声から発せられた言葉には少しオネエが混ざっていた。

「バイト先の後輩」

 先輩はいつもと同じような態度で素気なく告げた。

「珍しいわねぇ。凛ちゃんがお友達を連れてくるなんて。ていうか、初めてかしら」

「余計なこと言わないでいいから。ごめんね、北山さん。マスターいつもこんなんだから。ほら、座って」

先輩はそう言って、カウンターと少し離れた位置にあるテーブル席の椅子を引いた。

 私は促されるままにそこに座った。まだ、慣れない雰囲気に気圧されていた。

 そんな私と対照的に先輩は、ここが我が家みたいにリラックスした動作で対面に座った。そして、そのままカウンターに声をかけた。

「ジントニック一つと、北山さんって未成年だっけ?」

「は、はい」

 私は反射的に答えた。もう少しで誕生日で二十歳になるけれど、今が未成年なことに変わりはない。

「じゃあノンアルコールで適当に美味しいのお願い」

先輩の声にカウンターから茶々が入れられる。

「あんまり未成年をこういうところに連れてくるものじゃないわよ」

「絶対飲ませないから。いいでしょ別に」

「飲ませないってそれもそうだけど......まあいいわ」

そんなやりとりで注文は完了したらしい。先輩はカウンターに向けていた身体をこちらに戻した。

 先輩は何を喋るでもなくて、私も何を話せばいいのかわからなくて、沈黙が場を包んだ。BGMのジャズがやけに大きく聞こえた。

 私は夢にもみていなかった状況と慣れない環境に浮き足立って慌てて口を開いた。

「マスターと仲良いんですか?」

「仲が良いというか、父方の叔父で小さい頃から面識があるの。ここにも頻繁に出入りしていたし」

「そうなんですね」

 それを聞いて色々と合点がいった。先輩のいつもより砕けた言葉遣いとかリラックスした表情の意味とかが。

「だから、北山さんもあんまり緊張しなくていいからね。リラックスして。元々私が騙し討ちみたいに連れてきたんだし」

「騙し討ちだなんてそんな」

 そう口では言ったけど、騙し討ちというのはある意味本当だった。いきなり呼び出されてどこに行くかも告げられず先輩の後を追いかけていたらいつのまにかここに辿り着いていた。

 そういえば、まだ先輩に一連の行動の理由を聞いていない。

 どうやってそれを確かめようか、頭を悩ませているとマスターがカウンターから出てきてドリンクを運んできた。

「ジントニックとシンデレラです。どうぞ」

 マスターはドリンクを置くと先ほどまでとは一転してすんなりとカウンターに戻って行った。ここら辺の距離の保ち方がなんだか絶妙で先輩と長い付き合いだというのも頷けるなと思った。

「じゃあとりあえず、乾杯」

 そう言って先輩はグラスをこちらにかざしてくる。私は控えめに先輩のグラスに自分のグラスをあわせた。こういうやりとりは初めてでなんだか大人になったような気がしてドキドキした。

 それから恐る恐る、グラスの中で黄金色に揺れる液体に口をつけた。味はよくわからないけれど、整った甘味が舌先に触れた。なんだか、この一瞬一瞬で大人の階段を数段飛ばしに登っているみたいだ。

 私は少し気が大きくなって、先ほどから頭に浮かんでいる疑問を先輩にぶつけてみた。

「今日はなんで誘ってくれたんですか?」

 私の質問に、先輩は一瞬たじろぐような表情を浮かべた。先輩のそういった表情は珍しかった。

 それから先輩は助走をつけるように目の前のグラスを掲げて、透明な液体を一気に喉に流し込んだ。奥のカウンターでマスターが呆れるように額に手を当てているのが見えた。

 そしてそのままの勢いで口を開いた。

「今日は相談がしたくて誘ったの。最近、というかずっとあることで悩んでて、北山さんなら話せるかもって思ったから。だから無理して連れてきちゃった。強引でごめんね」

「悩みってなんですか?」

 少し間が空いた後、先輩はポツリと呟いた。

「私、人間に向いていないの」

 目の前では液体を失った氷がグラスの中で頼りなさげに揺れていた。先輩の瞳も、揺れていた。

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