凛として

無銘

先輩について

 ぶつかり合うグラスがあげる金切り音。楽しげに響く人々の声。幾重にも折り重なった喧騒。その隙間を縫うように行われるホールスタッフの接客。

 そんな盛況の裏のドリンク場で、今日も時雨先輩は周囲に怒りを振りまいていた。

「1卓の宴会席、テーブル空になってるけどなんで?進行お願いしたよね?」

「さっき、ビール切れたけど、あなた今日のオープン作業だよね。確認しっかりしてよね」

「変にドリンクの手伝いしようとしないでいいから。それよりも、手が空いてるならさっき帰った5卓のバッシング行ってきて」

 先輩は波のように押し寄せてくるオーダーを捌きながら周囲に注意や指示や檄を飛ばす。その姿はさながら戦場に立つ指揮官のようだった。

 私は今日もキレキレだなぁと思いながら、ドリンク場と調理場とホールを行き来していた。まだこの店に入って二ヶ月と少しだったけれど、ピーク時のこんな光景もだんだん見慣れてきた。

 時雨凛先輩は現在大学の四回生で、一回生の頃からこの店で働くベテランスタッフだ。その仕事ぶりは迅速かつ丁寧で店長からも信頼を寄せられていて、店長が休みの日の店舗責任者を任されるくらいにはバイトの中心的な存在として君臨していた。

 しかし、バイトの、特に女の子たちは先輩のことを怖がっていた。それは先輩の隙のなさだったり、凛という名前通りのクールな佇まいだったり、氷のように冷たい声色だったり、その声から放たれる厳しい叱責の数々だったり、要因をあげればキリがなかった。だからバイトの子のほとんどは先輩のことを苦手にしていた。先輩についての愚痴を聞くことも何度もあった。

 けれど、私は先輩のことをそこまで苦手には思っていなかった。

 だって先輩の叱責は全て正論で、理不尽なことを言っているところを見たことはなかった。その語り口はいつだって冷静で、言葉こそキツいものの怒りに任せて怒っているところも見たことがなかった。

 それに、入ってすぐの頃に先輩から業務を教えてもらったけれど、その教え方はわかりやすくて丁寧で、飲食店に勤めるのが初めての私にはとてもありがたかった。分からないところも聞いたらなんでも答えてくれた。

 そして何よりも、先輩はビジュアルが良かった。

 聡明さを強調するようにおでこの出たロングヘアに猫を思わせる切長の目、高いところから伸びるスッキリとした鼻筋。170センチはありそうな身長に細くて長い手足、菜々緒みたいなスタイル。

 正直ドストライクだった。一目見た時から推せると思った。もしかしたらその整った容姿も威圧感を増すのに一役買っているのかもしれないけれど、私の目には魅力としてしか映らなかった。

 だから私は先輩を怖いと思ったことがなかった。もちろん厳しい人だなとは思う。けれどその厳しさの分先輩自身もしっかりしているから筋の通った生き方だし、素直に尊敬できる。

 別にだからといって、ほいほいと話しかけに行けたりするわけではないけれど、みんなみたいに遠巻きに見たり露骨に避けたりはしないで、普通に接していた。そしてその普通の中で、ごく稀に勇気が出た時だけ雑談をしたり、ちょっと踏み込んだ質問をしたりしてみた。私が緊張の中で放った素っ頓狂な質問にも先輩は全部ちゃんと答えてくれて、歪な先輩の情報だけが日に日に溜まっていっていた。

 例えば好きな色が白と黒なことだったり、好きな作家が太宰と川端なことだったり、好きなお酒がジンとウォッカなことだったり、

 知ったからどうということはない情報だけれど、先輩の一部に触れることができたみたいで何となくうれしかった。

 たまにいる、グループは違うし全然関わりもないけれどなんとなく仲良くしてみたい子。先輩に持っている感情はそれに近しかった。それと推しに向けるような感情が混ざり合っていた。

 だから先輩には不用意に距離を詰め過ぎないように、嫌われたりウザがられたり野次馬根性で近づいてくるバカと思われないように、細心の注意を払いながら接していた。一定の距離を保ちながらたまにちょっとだけ近づいて、浅瀬に潜ってまた水面に戻って、ちょっとずつ深くなるような絶妙な距離感を心がけていた。はずだった。

 それなのに、まさか先輩の方から近づいてくるなんて。それも一気に。

 先輩のことについて考えながら動き回っていたら、いつのまにかピークは過ぎて、残っているお客さんは数えるほどになっていた。

 私は、ドリンク場でグラスを片付けている子たちに混ざって同じ作業をしていた。先輩は隣の冷蔵庫の前でメモを片手に発注を調べていた。そうしたら急に、先輩がこちらに視線を向けて、まるで業務連絡をするみたいに言った。

「北山さんってこのあと時間ある?」

「あ、ありますけど」

「じゃあ、業務が終わったらお店の裏口で待ってて」

 私はいきなりのことで声を出すことができずコクコクと黙って頷いた。

ドリンク場一帯の空気が凍っていた。みんなが憐れむような目で私をみていた。

 そして、先輩が私の同意を確認して、発注をパソコンに打ち込むためにドリンク場を離れた瞬間、凝固した空気が一気に流れ出した。

「北山さん絶対やばいって。大丈夫?」

「私聞いたことあるよー。昔、業務終わった後に時雨先輩に呼び出された新人ちゃんが詰められて泣いてそのまま辞めちゃったって」

口々にみんな心配の声をあげた。

「多分大丈夫だと思いますけど......」

 私は控えめにそう言った。先輩に限ってそんなことはないと、思う。

 けれど胸中は確実に大丈夫ではなかった。恐怖と緊張と疑問にがんじがらめにされたように身体がこわばっていた。

 大丈夫だよね?

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る