【15】月下の恋



 訪れたこともないはずなのに、篝は勝手知ったる様で須万の神宮のうちを駆け抜け、瞬く間に、伊砂那は彼とともに神宮を囲む壁の外へと抜け出していた。


 壁の内で巻き起こった騒乱に人手を取られ、外にはほとんど神宮の者の姿はない。打って変わった静けさに草原が波打ち、月明かりにさざめいている。


 それでも、そこそこ神宮から離れてからようやく篝は速度をおとした。満足げに細められた赤い切れ長の双眸が、小さな光の瞬きとなった神宮を振り返る。


「〈禍津影〉は君のお父さまが祓ってくれたけど、俺がおびき寄せた〈穢獣〉はまだ暴れてるみたいだし、智景の陽動も尾を引いてるだろうから、しばらくは追ってこれないでしょ」

 風に心地よげになびく黒髪と横顔に月影が落ちる。伊砂那を抱き上げたまま、おろす素振りなく篝は続けた。


「合流場所に行こうか。智景はもうとっくに抜け出してるだろうし、斎八の方も片がついてるのは間違いない。俺たちが最後だ」

「行くのはいいのだけど……もう、歩けるよ?」


 伊砂那は小さく困って眉を寄せた。篝に息を切らせた様子はないが、長物を持った状態の伊砂那は、さぞ抱いて走りにくかっただろう。追手を気にする必要がないなら、もう速さは求められない。長い袴をさばきながら歩くのでも支障はないはずだ。

 だが、篝は申し訳なさそうな伊砂那に、「おろしてあげたいけど」と肩をすくめた。


「伊砂那、君、履物をはいてないでしょ。それじゃちょっと、歩かせられない」

「あ……」


 確かに、伊砂那は裸足だ。袴に覆われた足元を見やった伊砂那に、だから、と、篝の微笑みは重ねる。

「悪いけれど、もう少しこれで我慢してね」

 軽々と歩き出した揺れに、慌てて伊砂那は篝に身を寄せた。


(別に、いやではない、のだけれど……)

 腕の中から、そっと伊砂那は篝を見上げる。焔の瞳は、伊砂那の視線に気づいているのかいないのか、前を向いたままだ。でもあまりの近さに、そこに伊砂那の銀の髪が映り込んでいた。一方、篝の髪は、当たり前だが、月明かりに濡れてもなおその色に溶けぬ黒い髪。天女の祝福を受けた神子とは違う、ただ人の髪だ。


(……どうして月天女さまは、不死と安寧の祝福に、呪いを混ぜたのだろう……)

 ふと唐突に、そんな疑問が伊砂那のうちを過っていった。


 不死と安寧を与える、〈月花の神子〉の血。その血が、飲んだ者に苦しみまでも授けなければ――。〈禍津影〉へと身を変じさせなければ――。この世の人はとうにみな、不死と安寧を享受できていたのかもしれないのに。


(……この血の呪いは、恋の呪い……――)

 いつか聞いた母の言葉が蘇る。


『私の恋は、呪いを解けることはなかったけれど……もしいつか、あなたが恋を知るのなら……。あなたの落ちる運命は……呪いを解くものに、なるのかしら――?』


 銀色の髪を撫ぜた指先が、消え入りそうな微笑みとともに離れていく。見上げた母の髪も同じく、月下に楚々と煌めく銀色で――その声音に宿る諦観と愛おしさの意味が、いまなお伊砂那にはよく分からなかった。


 恋も同じだ。知りはしているが、どんなものなのか、あまりに覚束ない。けれど――


(恋……私の――)

 見上げる瞳に、篝が映る。月明かりに凛と照らされる横顔。寄せた身体ごしに伝わる体温。抱かれている揺れにあわせて、胸の奥が跳ねるのが心地よく、くすぐったい。


「……篝と一緒で、嬉しい」

 ふいに唇からほころび出た小さな声に、篝が思わず、目を瞠った。火灯りの瞳に、月明かりの中、淡く笑み結ぶ伊砂那の姿が溶け込む。


「――それは……光栄だね」

 微笑んだ、そのかすかな躊躇は柔らかく隠されて、伊砂那にはまだ読み取れなかった。

 だからただ、彼女は嬉しそうに身を寄せる。


 月の光が、ふたりの行く草原にひそやかにさざめいた。


 呪いを解く運命は、いまだ伊砂那のうちでまどろんだまま――。


 呪われた月のもと、銀色の髪先に、夜の黒纏う風が愛おしげに触れ、離れていった。



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月花の神子と運命の黒 かける @kakerururu

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