【14】灯る彩(3)
とたん、ふたりと長の間を割るように、床下から天井を突き破って土砂が竜巻のように吹き上がる。
がらがらと瓦解する長の居室の中、晴れていく土煙のうちに現れたのは、ひとりの男性だった。注がれる愕然と驚愕をものともせず、泰然と佇んでいる。
細身の四十にさしかかろうかという年のころの男だった。金色よりも濃く深い黄色の長い髪。それに灰色をかけたような双眸は、視線がどこか曖昧と結ばれない。見えていないのかもしれなかった。纏う白い衣服は須万の長と似た形状の神官のもの。だが品よくその袖口や裾を彩る金銀の刺繍がより細かく、長でさえ届かぬ高位の存在だと知らしめていた。そしてなにより、その額。そこには、鮮やかな黄色の痣が紋様を描いていた。
「……父さま……」
茫然と開いた伊砂那の口から、小さくその呼び名はこぼれでた。
鬼神官を束ねる長。〈まほろば〉の《ツクヨミ》の頂点。〈黄〉の鬼神官だ。
「なぜ……
「ここしばらく、須万のよくない話を耳にしていましたからね。様子を伺おうと赴いてみただけのことなのですが……どうした騒ぎなのでしょうね」
慄く長へ、侑砂の形を捉えぬ双眸は、しかし過たずしっかりと向けられた。穏やかな深い声だが、すっと聞く者の背筋を凍えさせる。
「宮の地下に、〈禍津影〉を捕らえていたようなので、祓っておきました。あれも憐れな生きものです。安らけくあるように……それが、我らが〈まほろば〉の祈りですから。呪紋様の武具は十分にそろっているようですが……なぜ祓えずにいたのか、申し開きはのちほど伺いましょう」
そこに〈禍津影〉が封じられていたのだろう。己が貫き開けた大穴の下へ、冷たい横顔はかすか哀悼をたたえた。しかし淡々とした声音は、震える長を静かに、冷ややかに断罪する。
「あなたにはこの騒ぎの次第も詳らかにしていただきたいところですが、そちらも後に回しましょう。いまは……伊砂那――あなたと話さねばなりません」
篝に抱き寄せられた伊砂那へ振り向く面差しは、その中性的な柔らかさがどこか似通っている。それなのに、侑砂には、相対する者を強張らせる空気があった。
「淡竹と〈まほろば〉を出て、なにをしているのかと案じていたのです。さほど離れぬ須万の地にいるとは思っていませんでしたが……。私とともに、〈まほろば〉へ戻る気はありませんか? 〈まほろば〉にいれば知らずに済んだものを、もう十分に、味わってしまったでしょう」
伊砂那は、小さく息を詰めた。父の言わんとしているものがなんなのかは、わかる。それは、淡竹との常永久の別れであったり、先に須万の長から与えられた、身の芯を凍らす嫌悪であったり――。ざらつきをもって、胸の奥の柔らかなところを容赦なく突き刺すなにかだ。けれど――
「行かない」
自分でも思いがけないほどはっきりと、伊砂那は言い切っていた。
「私は、戻りたくない」
そうしたい理由の先は、伊砂那にもまだよく掴めていなかった。ただ、味わわなくてよいものもあったが、反対に、外に出なければ得られなかったものも、あったのだ。
伊砂那は無意識のうちに、抱かれた篝の胸元へ、寄り添うように身を寄せていた。合わせるように抱き寄せる肩にこもった力に、この意思は誤りでないと支えられる。
彼と出会って知ったものは、心もとない夜に灯る火灯りのようにあたたかく、そのなにかを――己はきっと、手放したくないのだ。
「――……なるほど」
侑砂は微笑とも落胆ともつかぬ曖昧な色を口元へ浮かべた。
「いいでしょう。目的もなくただ彷徨われるのでは、〈まほろば〉にあった方がはるかに意義がありますが、いささか、あなたの事情も淡竹と出た時と異なってきたようです。いずれあなたも、〈月花の神子〉の務めを果たす身。己が統べる世への見聞を広めるのも、悪くはありません」
壊れた天井から注ぎこぼれる月明かりが、伊砂那の髪を銀に色づける。それを映す侑砂の双眸は光を掴めなくとも、確かにその月天女の祝福の色を捉えているようだった。
「……いまは知り始めたそれが、宝物のように思えるかもしれませんが、いつかそのままならなさに、手離してしまいたくなる時を知るはずです。〈まほろば〉の外は――美しいものほど保ちにくい」
静謐に夜風を纏う穏やかな声音は、どこか寂しげに翳った。
そこに不遜に響く声が、強気に笑んで重なる。
「そんな悠長にこちらに預けていただけるとは光栄だ。あとで娘さんが戻らないからって、悲しまないでくださいよ、お父さま」
挑みかかるを隠さない語調。それにようやく――侑砂は篝へと意識を向けたらしかった。
「残念ながら、そうはなりませんよ。いずれ来るべき時が来たのなら、迎えの意味を、帰らねばならぬ
落ち着き払った涼しい態度を欠片も崩さぬまま、平坦な音色は面白みもなく告げた。
それと同時に、その足元から砂塵が巻き起こる。月光に煌めく砂の礫があたり一帯を覆って吹き荒れた。堪らず伊砂那と篝は目をつぶる。
それがおさまった気配に再び瞼をあげた時には、そこにはもう、侑砂の姿も、へたり込んでいた須万の長の姿も消え果てていた。
「え……? なに、消えたの?」
「お父さまは、よく分からないけど、突然消えたり、現れたりなさるから……。たぶん、長の人も連れて、〈まほろば〉に帰ったんだと思う」
「こっわ。なにそれ。〈黄〉の鬼神官ともなると、そんなもう一段階人から離れた技も使えるの? 鬼神官の
事もなげに言う伊砂那に驚きをにじませつつ、篝は大きなため息をついた。張り詰めていた力を抜いて、座り込む。
「まぁ……とりあえずいまはそこのところはいいや。なんか厄介ごとは片付けていってくれたみたいだし、若干引っかかる物言いだったけど、君を連れていかれなかったし……」
「うん。……よかった」
そう、伊砂那ははにかんだ。藍色の瞳が蕩けるように甘くくずれる。その近さに、まだ腕のうちに抱ける距離でいたと思い出させられた。
薄絹越しの細い肩。儚い白い肌。澄みとおった銀の髪。溶け消えそうな月色の衣を身に纏う彼女は、けれど――色鮮やかな笑みを灯していた。
あの夜死を見つめていた時の、褪せた瞳とは違う色。
思わず目を瞠り、篝はしばし逡巡したあと、おもむろに懐の内から髪飾りを取り出した。
「――これ、落ちてたから、一応拾っといたよ。未朱から聞いて、仕込まれてた呪紋様は引っぺがしておいた。たぶん奴らのせいで、ちょっと細工が曲がって不格好になってるところがあるけ、ど、」
「いい、全然いい」
ぱっと顔を輝かせた指先が、みなまで言う前に嬉しそうに髪飾りを受け取った。
「ありがとう……」
愛しげに髪飾りへ落ちる藍色の眼差しに、ふっと春先の咲き初める花の息吹が彩られる。
(ああ……これは、どうにも――……)
目が逸らせないことに気づいて、篝は口端で小さく苦笑した。
氷に沈み眠るような、静謐で無色な瞳。それが淡々と死を見つめていたあの夜が、忘れられなかった。だから、ちょっとした憐憫で、ちょっとした償いで――いつか色づくさまを見てみたいとは思いはしていたが――
(――これは、どうにも、よく、ないな……)
別の柔らかく甘い、けれど苦く疼き続ける――振りほどきようのない手傷を負った心地だ。
(雛鳥が親鳥を追いかけるようなもんだよ……)
斎八に告げた言葉を縛めのように繰り返す。特別だからじゃない。たまたまだ。彼女の置かれた状況を、少しでも考えれば分かること。うぬぼれてはいけない。
(……立ってる場所が、違うんだ)
予言の指し示したものを思えば、それは歴然と突きつけられている。いまはただ偶然、一番隣にいるだけで、いずれもっと彼女の意思が花開き、己が道を見定めだしたなら――
(――この手を引くのは、俺じゃない)
運命の相手は、他にいる。
だから、胸刺した痛みの理由を――深追いしてはいけない。
ちょうどその時、騒ぐ人々の声と足音が近づいてきた。先ほどの砂塵に、遅ればせながら駆けつけてきた衛兵たちだろう。
「……さて、もう行こうか」
幸いなきっかけとばかりに、花ほころぶ笑みから視線をかろうじて離すと、篝は腰を上げた。
かすか残ってしまったその声の強張りに気づかないまま、彼を追いかけて伊砂那も立ち上がる。
「篝、あの薙刀、おじいさまのなんだ。持っていって……いいかな?」
部屋の片隅にあったおかげで、騒ぎに飲まれず残った薙刀を伊砂那は指さした。
「駄目と答える理由がないね。むしろ淡竹殿のだっていうんなら、ここにあるより断然、君が持ってるべきじゃない?」
もういつもの調子で、篝は微笑んだ。
長い袴の裾を引いて薙刀へ歩み寄ろうとした伊砂那の手を引き止め、ごめんね、と両腕に抱き上げる。
「急いだほうがよさそうだ」
武具の音が耳障りなほど、駆けつける兵たちの気配は迫ってきていた。動きにくい衣服で、悠長に逃げ出す暇はなさそうだ。
そのまま地を蹴り、走り出しざま薙刀を器用にとって渡して、篝は伊砂那とともに、壊れ尽くした長の部屋を後にした。
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