【14】灯る彩(2)


 ぐっと、寝台へ乗り上げてきた長に、伊砂那はその衝動を阻まれた。詰められた距離に、年老い、背が曲がっていただけで、伊砂那よりも体格が大きいことを知る。


「……だがもう、それもいらぬ。功績を積む必要はもうない。いくら〈まほろば〉に貢献しても、このよわいまで年老いてなお、あなたの血を許されなかった。けれどいまはあなたがこの手の内にいる。〈まほろば〉の神宮へ媚びへつらう必要は、もうない」


 生温い吐息が顔にかかる。固まった伊砂那の両足の上にまたがるように乗ってきた萎びた老躯ろうくはなお重く、濁った眼差しが嬲るように伊砂那の身体を品定めして上下した。


「なるほど、さすが月天女の祝福を受ける方。瑞々しく、お美しい。その血の恵みもいただきたいが……まずは別の恩恵を味わわせていただこう」

 枯れ木のような指が伊砂那の白い頬から首筋を撫でた。ぞわりと肌が粟立つとともに、得体の知れぬ怖さを抱いたとたん――伊砂那は腕を拘束されて、寝台に引き倒されていた。


『寝ている君を押さえ込んで拘束してきた。この場合、君はなにが起きてると思う?』

 なぜかふいに、最初の野宿の夜、篝が問いかけた言葉が、警鐘のように頭の内で響き渡った。


 あの時の篝の距離も、息が通いあうほど近かった。けれど、それは嫌ではなかった。むしろ彼の姿がそばにあることに、安堵すらしていた。それにあの時の篝も、指先ひとつ伸ばせば、伊砂那の頬にも首筋にも触れられた。けれど、しなかった。その意味が、理解できないままながらも、感じ取れた気がする。


(いやだ、これ……)

 腰からゆるりと足を撫でていった掌に、くしゃりと伊砂那は顔を歪めた。

 その時だ。


 そう遠くないところで爆発音が響きわたり、同時に間近の壁が耳をつんざく轟音とともに叩き割られた。炎に包まれた壁の破片が、がらがらと散花のごとく、無駄に華美な部屋に崩れ落ちる。


 と、ともに、飛び込んできた影が、一瞬にして寝台まで迫り、伊砂那にのしかかっていた長の脇腹を勢いよく蹴り飛ばした。

 寝台の天蓋の柱を叩き割って、長の身体が壁際まで吹っ飛ばされていく。崩れた天蓋が伊砂那に雪崩かかる前に、炎に灰と消えた。伊砂那を繋いでいた鎖が音をたてて焔にまかれ、千々に断ち切られる。


「……なにとは言わないけど、たった切るぞ、くそじじい」

 凄みをまじえた笑っていない笑みが、低く告げた。身を起こした伊砂那の目の前には、結い上げた長い黒髪。夜で染めたかのごとき黒の装束。そして、左手首に赤い勾玉。


「篝!」

 叫びも出来なかった乾いた伊砂那の喉の奥から、涙交じりの声が喜びに溶けた。


 あばらを何本かもっていかれた蹴りにむせび苦しみながら、老翁がかろうじて、壁に叩きつけられた体を持ち上げる。

「なぜ、ここに……貴様のような賊が、こんなにも早く?」


「連携の良さが俺たちの強みなもんで。森に火柱が見えたから急ぎ戻ってみたら、神宮の方々がいらぬ迎えにいらしたっていうじゃないか。ずいぶん手荒な真似をされたようだから、こちらも殴り込ませてもらったよ。俺たちとともにあるうちは、もう――彼女は殺させない」

 言いきる、その強くしなやかな語気に気圧されて、および腰になりながらも須万の長は忌々しげに吠えた。


「〈穢獣〉は……! 〈穢獣〉の群れはどうした!」

「あんな群れ程度、その気になれば一掃できる強い味方がいてね。そいつに任せてきた。苦しみ少なく、葬ってくれただろうさ」


 悠然と微笑み、いまだ痛みに這いつくばる長を篝は見下ろす。

 が、その腰に縋りついて回された腕に、一瞬目を見開くと、彼はたたえた皮肉を取り払って、その華奢な腕の主を振り返った。


「それでも君には遅い到着だったね。……ごめん。他に嫌なことはされてな、」

「篝! やっぱり私、寝るなら篝とがいい」

「うん。この子はこの状況でなんでその発言が飛び出てきちゃったのかなぁ? 絶対あらぬ誤解を招く!」

「なるほど、すでに貴様の手垢がついた使い古しか」

「ほら招いた! 致し方ない! とはいえ、その言い方は切り刻むぞ、くそじじい!」

 燦燦と輝く藍色の瞳の突拍子のなさに頭を抱えながら、鼻で笑って侮蔑する長へ、脅迫まがいの諫言かんげんを呈することは忘れない。


 忙しく声音を使い分ける篝だが、伊砂那には、いまひとつ彼の労は伝わりきっていないようだった。伊砂那としては、長とひとつの寝台にいた嫌悪と、篝と過ごした夜の安堵を引き比べ、当然に導き出された結論だったのだが――


(いまだってこんなに、篝が来ただけで、落ち着ける……)

 伝え方のどこを間違えてしまったのかはあとで聞くことにして、伊砂那は安心を吸い込むように、ぎゅっと篝に抱きつく力を強めた。


「くそ、衛兵どもはなにをしている……!」

「俺を追ってここまで来た〈穢獣〉とさっきの爆発とで、色ボケじじいの護衛どころじゃないんでしょ」

 苛立たしげにわめきたてる長へ、篝は冷たく言い捨てた。その手首に赤く勾玉が、炎を抱くように光っている。〈禍津影〉を寄せるその石の呪紋様は、〈穢獣〉にも効果があるのだろう。爆破を起こして陽動を行ってくれたのは、智景だろうか、笹羅だろうか。智登世や未朱ではないだろうが、ふたりもすでに大事ない状況にあるだろうことは、篝がここにいるというだけで察せられた。


(篝がいるなら……)

 大丈夫だと、思える。その心強さが寄り添っていてくれるだけで、伊砂那の中で確かな力になるものがある気がした。

 覚束ないまま掴めないで溶けていた思いが――なにをしたいと形を得ていくのも、そのおかげだろう。


「――篝、この神宮の地下に〈禍津影〉が捕らえられているんだ。それを……祓ってやりたい」

 その存在を聞いた時の震えは、心のうちに冷たく食い込んで癒えていない。

 喰われて喰われて喰われて。呪いの獣を産むために餌にされている憐れな不死の化け物。かつての――誰か。それに一時でも、安らぎを与えてやりたかった。


「地下に〈禍津影〉……? なるほど……真っ黒くろか、ここは」

 事と次第を理解して、篝は憤りの笑みを唇に引いた。


 長が口惜しげに睨み上げてくるも、そこに憎悪の猛りはあっても、もはや覇気はない。神宮内の騒乱の音もますます大きくこだましてきて、老翁に為すすべが残されていないことを突き付けてくるようだった。


「この場で憂き目をみせてやるのもいいけど、〈まほろば〉に露見した時の沙汰も楽しみだね」

 そう、篝が長へ柔らかに皮肉を突き刺してやった――その時。


「そうでしょうね」

 聞き覚えのない声がどこからともなく響き、篝はとっさに伊砂那を抱き寄せた。




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