【14】灯る彩(1)
目覚めた時、伊砂那の目に飛び込んできたのは、大きな寝台の天蓋だった。透かし細工のある漆塗りの枠に金彩が散らしてある。四方に内側から絹の幕が垂れているが、一面だけ出入りのために引き上げられていた。
そこから部屋の様子を伺えば、まず螺鈿細工が敷き詰められた天井が飛び込んで来た。滑らかな白塗りの壁と細やかな細工窓の意匠、艶やかな石のごとく磨かれた木製の床は〈まほろば〉の神宮の作りと似ているが、並ぶ太い柱は彩色された彫刻で飾られ、いささかその鮮やかさが華美に過ぎた。品のない豪奢さだ。
死から戻った起き抜けの感覚はない。その証拠に、まだかすか頭が痛んだ。深い傷に意識を失ったが、それが致死となる前に、回復の力が勝ったのだろう。
そうなると、倒れてから時間はさほど経っていないはずだと動きかけて、伊砂那はその手が枷と鎖で縛められてことに気づいた。鎖の先は寝台の柱をこえて壁へ繋がっている。彫り込まれた複雑な紋様をみるに、呪紋封じの品のようだ。
見れば衣服も、すっかり着せ替えられていた。麻の簡素な白の男物から、すべらかな絹織物の女物へ。銀交じりの淡く薄い青紫の
〈まほろば〉でまとっていた装束に似ている。月明かりに近い色。血の色が映える、透き通った神子の色――。
お前は〈月花の神子〉なのだと、突きつけてくるようだ。
忘れていたわけではない。手離せていたわけでもない。けれど、一時薄らぐこともあった己が
ちょうどその時、遮るもののない窓の向こうから、月の光が部屋の中へと射しかかった。
俯いた顔へ流れていた黒髪が、銀色に染まり変わる。月の天女の祝福の色。――呪いの色。
そっと伊砂那は、頭に指先をやった。当然そこには、彩る飾りのひとつもない。あの惹かれた火灯りのきらめき宿す赤がない。そのまま月光に溶けゆきそうな銀色だけだ。
(……逃げ、なきゃ……)
弱々しく、それでも己が意思で、伊砂那は思った。赤の色彩が脳裏を焼いた。その一瞬、狂おしく胸が痛んで――ここにいたくないと、感じたのだ。
だが、手首の枷をどうしたらいいのか。伊砂那が頭を悩ませたと、同時に。扉の開く音がした。
両開きの黒漆の扉をくぐって現れたのは、白い衣を纏い、後ろに長く布の垂れた金色の帽子を被った高齢の男だった。高位の神官の衣服だ。おそらく、須万の神宮の長だろう。
後ろに控えていた者たちは、扉をくぐらず礼をして引き下がりゆき、部屋に歩みいったのは男だけだった。
「おや、ほどよくお目覚めになられたようで、なによりでございます」
言葉と仕草ばかりは恭しく、男は寝台の伊砂那のそばで膝を折り、頭を垂れた。
「……私とともにいた者たちが、どうなったのか、知りたい」
「はて、どうなったか……ですか。〈穢獣〉の群れのうちからあなた様をお救いしたとは聞いておりますが、他の報告は受けておりませぬな」
最敬礼を受けるよりも先にそう問うた伊砂那へ、男は白々しく笑う。伊砂那は不快に顔をしかめた。
「偽りはいらない。〈穢獣〉はあなたたちが放ったと聞いている。どうやってそんなことが出来るのかは、知らないけれど」
「いえいえ、簡単なことでございますよ。〈穢獣〉は〈禍津影〉を喰った獣が変じたもの。それが分かっていれば、容易く生み出せます。実はこの神宮の地下に〈禍津影〉を一体、悪さをしないよう封じておりましてな。やつらは呪紋や呪紋様の力でなくては消えませんから、一匹いれば十分に、獣たちの永久の餌になりますゆえ」
笑みに歪む唇に、伊砂那はすっと指先まで血の冷えるのを感じた。
〈禍津影〉は元は人間だったものだ。血の祝福を失い、永劫の苦しみに呻いている――呪われた人間だ。
その事実は、〈まほろば〉の神宮の一部の者たちだけに握られたものなので、たとえ須万の長であろうと、そのことを知らないのは分かる。だが例え知らなかったとしても――ただの化け物だと思っていたとしても、その身を縛め、蘇るのをいいことに、獣たちに喰わせ続けるなど、どうして平気な顔でできるのだろう。
終わりなく蘇り、苦しみ続ける姿に、憐みを覚えないのだろうか。生きた身を失い、半ば死体の腐れ朽ちた身体に変じゆく獣たちを、不憫と感じないのだろうか。
縛めて、殺して、殺して、殺して。何度も殺して。その血肉を得た、呪われたモノたちを増やしていく。呪いを、広げていく。
(――それは……まるで――〈まほろば〉だ……)
ふとかつての己が運命と、須万に囚われた〈禍津影〉に繋がることがあるのを悟って、伊砂那は愕然とした。
神子として〈まほろば〉にある時は、感じもしなかった。けれどいま確かに、この須万の神宮の所業には、拒絶と嫌悪と怒りを抱いた。
伊砂那は震えた息を静かに飲み込んだ。そっと顔上げ、神官の老人を睨み据える。
「そうして人為的に〈穢獣〉を造って、そしらぬ顔で放って、人々には討伐を行う、救い手の顔をしていたのか……。――もしかして、私がおじいさまといた時に遭った、あの〈穢獣〉の群れも……?」
はたと思い当たって問えば、老翁の皺の寄った目元は、さらに醜く垂れ下がった。
「あれはたまたまの幸運でした。〈まほろば〉へ報告する〈穢獣〉狩りの功績を積もうと思っていましたら、さらわれた神子さまがいらっしゃるではありませんか。あの時は我らに驚かれて姿を消してしまわれたようですが、供をしていた翁を残されましたから。こちらへまた、お戻りになることもあるかと注視していたのです」
空々しい建前を織り交ぜ、形ばかりは奏上の
「実はあの日、封じている〈禍津影〉や〈穢獣〉の動きが変わっておりましてな。なにかに引かれるように、いつになく騒々しく騒ぎ立て暴れるので難儀をしたのですが……そのあと、あなたが現れた。そしてここ数日、また同じ動きを奴らがしていたのですよ。それで、よもやと思いましてな。神子さまが翁をお探しになって赴かれそうな所へ手を回していたのです。それが功を奏しました」
数日前ということは、まだ須万に辿り着く前。そば近くにいた頃から、〈禍津影〉たちが神子たる伊砂那の気配を察し、寄せられていたことになる。十全にとはいかずとも、策を弄するに事足りる時間だ。篝たちも神宮近くということで注意を払ってはいたが、事前にそこまで準備を整えられていようとは、予想していなかったはずだ。
戻りたいと――伊砂那が願わなければ、篝たちを巻き込まずにすんだ。
苦く悔恨が胸の内からくゆり昇る。それでも、これだけは問わねばならぬと、伊砂那は噛みしめた唇を動かした。
「おじいさまがあのあとどうなったのか……あなたは知っているのか?」
あの日、月照らす草原はそれでもなお暗く、夜の闇に沈んでいた。吹き荒れる夜風に草葉は嵐の水面のごとくざわめき、討伐隊の松明の灯りが喧噪に揺れ、〈穢獣〉の金切り声が響きわたっていたのを、いまも生々しく覚えている。そして腐った血肉の身と鋭い爪と牙が、槍や剣と交錯して視界を乱し――「逃げろ」と伊砂那の背を押した淡竹の姿を飲み込んでしまったのだ。
あのあと淡竹が助かった、というのは、望みの薄い願望だとは分かっていた。けれど、たとえ裏切り者であっても、咎人であっても、神宮側の人間であり、〈まほろば〉の高官だ。その死を無下に扱ってはいないだろうと――どこかで伊砂那は、なお彼らを甘く見積もっていたらしい。
けれど、首を傾いだ長の言葉は、耳を疑うものだった。
「はて……? 群れに喰われて躯も分からぬ。咎人にふさわしい最期だったようですが、他のことは知りませぬな。足の先ぐらいは、まだあの草原に喰い残されているかもしれませんが。ああ……ですが、〈まほろば〉からは捕らえるようにと通達がありましたからな。その所在を示す必要が出た時に備えて、かの者の薙刀だけは置いてありますよ」
そう指し示されたのは、部屋の片隅。起きぬけに見通す余裕がなかった端の端に、無造作に見慣れた薙刀が立てかけられていた。
「生死は問われておりませんでしたが、できれば生かして……という意向のようでしたからな。報せるべき時期が訪れたあかつきには、近場で野垂死んでいたという体で、薙刀だけお納めしようかと、大事に我が部屋に秘しておいたのですよ」
死した者への哀悼も敬意もない。嘲弄する響きを隠しもしないしわがれた声に、伊砂那はばちりと頭の奥でなにかが爆ぜたような心地がした。指先が震える。身体の内から沸き起こるものを叩きつけたいままに持て余して、思わず叫びをあげそうになった。瞬間。
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