アウトサイダー・ミックス・シェイク

志村麦穂

アウトサイダー・ミックス・シェイク

 ある朝、目が覚めたら人類が滅んでいた。

 で、私だけが生き残った。

 なんの前触れもなく、天気予報が外れたみたいに人類は死んでしまったらしい。電気も水道も突然使えなくなるってわけじゃなかったし、ママはいつものように仕事帰りで寝ていると思った。SNSの不調なんて今に始まったことでもなし、なんか更新されないんですけどって具合だった。家を出るまでちっとも人類が滅んだことに気付かなかった。

 扉を開けたら道路に人が倒れている。車が交差点で正面衝突している。どこかで煙があがっている。けれども、やけに静かだった。

 慌てて家のなかに引き返してテレビをつけたけど、どこも放送をしていない。ソファに突っ伏したママは息をしていなかった。片っ端から知り合いに連絡したがつながらない。あまり帰ってこない父も、寮生の弟も。連絡先を交換したきりのヤツや、ほとんど絡みのないフォロワーにDMしたりもしたけど同じ無反応。警察に、消防もだ。

 こういうの、映画でみたことある。私がみたかった映画じゃないけれど、彼に付き合って観た。彼は映画が好きだった。私はそんなに好きじゃなかった。上映中、家でも映画館でも飲み食いすると怒られた。喋りかけると注意された。衣擦れひとつで睨まれた。私は彼の好きな映画が嫌いだった。デートはいつも映画とホテルの往復で、ちっとも喋らなかったから。

 嫌なこと思い出してしまった。

 本当に、なにもかもが突然だ。

 いつものように眉を描いて、ピアスつけて、イヤホンを耳にねじこんだ。強いて変わったことといえば、化粧のりが悪かったことぐらい。近頃気分の悪い出来事が多くて、食べられなかったり、便秘だったりで肌が荒れていたせい。それこそ夏の暑さみたいなもので、時期が来れば過ぎ去るのはわかっていたけれど、我慢できるほど大人でもなかった。私はずっと反抗期の延長戦を続けている。だからかもしれない。私ひとり、終わりからはじき出されて生き残ってしまったのは。

 スマホのカメラロールを開く。昨日撮られた、一番新しい写真をみる。被写体は車に乗り込もうとするスーツの男と、助手席に乗った私服の女子高生。即座にSNSに流してやったもの。反応からみるに、数時間の間にだいぶ拡散されていた。人類が滅亡しなけれりゃ、今日は朝っぱらからこの男の破滅を眺めることができたのに。

「いってきます」

 毎朝そうするように、ママに声を掛けて家を出た。いつだって返事はなかった。別に今日も同じだ。

 不便だと感じたのは電車が止まって動かないこと。脱線とかしているのかもと思ったけど、そもそも動いていなかった。

 電車は使えなかった代わりに、ひとつだけ、ずっとやってみたかったことをやった。

 ハードルを越えるみたいに、改札口を飛び越える。

 ドラマのワンシーンやミュージックビデオなんかでありそうなシチュエーション。割と憧れていたんだよな。私自身、不良だとかビッチだとか陰口を叩かれることはあるけど、改札ひとつ飛んだことない人間だったんだなと気付けた。

 なんだよ。私ってめっちゃマナーいいじゃんか。無賃乗車も食い逃げも、万引きさえしたことない。あるとすれば、駅前の試供品のゴム配りのバイトのとき、全部のゴムに穴を開けたこととか。初彼の初キスで、接着剤を塗りたくったグラビア写真に身代わりをさせたことぐらい。その場で私から別れを切り出し、彼はしばらく人前に出られなかった。ふった理由は忘れてしまったけど、簡単にヤれると思われたのが気に食わなかったのだろう。私はこれらを反抗期テロと呼んでいる。でも、マナー違反に比べればどれも可愛らしい。

 自転車通学の途中に死んでしまったらしい高校球児から、電動ママチャリを借りる。99年借用だから、あとで乗り捨てるつもり。持ち主はもう死んでいるから訴えられたりしない。そもそも日本の法律は今朝死んだ。

 崩壊した街を自転車で漕ぐ。車道のど真ん中を走っても、クラクションひとつ鳴らされない。なかなかいい気分だ。爽快ってきっと、静かなんだと思った。

 校門前は坂になっていて、朝練の生徒たちがバタバタと沢山倒れていた。死体が列になっている。死人も行列を作るのか。人間が死に向かって列をなして歩いていた、とか。そんなどうでもいいことを考える。さすがに自転車で進みにくいから、やっぱり乗り捨てる。そんで私は、死体の背中を飛んで渡る。だいぶ罰当たりだけど、罰を与える奴なんかもうどこにもいない。不謹慎八艘跳び。

 自分を顧みないクセに説教垂れる教師。国と法の味方しかしないポリ公。常識人ぶった大人のみなさん。みんな死んでしまった。倫理とか、道徳とか。あるいは法律とか、正しさとか。社会とか、らしさとか。神とか、お金もそうかも。みんな人類の妄想だったんだな。私を悩ませ、17年間苦しませ続けていたもの。そいつらは実はどこにも存在してなくて、誰も彼もがあると信じていたから存在していただけ。ニチアサの美少女戦士とか、仮面ヒーローと同じだ。

 みんなの心のなかに。

 人間の世界って、割かし非現実的な存在なのかも。

 人間がいなくなったせいで、ずいぶん物思いにふけるカンジだ。不快なことを考えなくてよくなったおかげか。雑音が消えたおかげか。なんか頭よくなったかも。

 校門を抜け、下駄箱に向かう道中。駐車場から校舎に向かおうとしていたらしい、教師の死体をみつけた。担任の川瀬だ。よほど慌てていたのか、ネクタイもろくに締めていない。死んでも頭皮の油はなくならないらしく、べたついた髪が目に入る。今朝はシャワーを浴びる余裕もなかったのだろう。いい気味だ。

 コイツの口癖は、まともになれ。この男が出会い系のアプリを使って、散々援交をしていることは割と有名だ。ウリをやっている子から聞いた話だ。

「まともはもう死んだ。これからは気を遣って建前をいう必要もないね」

 アリガト、センセ。

 あんたの授業、やっぱり役に立たなかったわ。

 教科書は燃やしてキャンプファイヤーにしよう。今、きめた。

 川瀬の左手薬指の指輪をみていたら、胸糞悪さが吹き上げてきた。遠慮なく顔面を踏んづけてやった。学校ではいつも外していたシルバーのリング。結婚しているなんて知らなかった、つい先週まで。

『勉強して、いい大学出て、まっとうな就職をして、結婚して、子供を産め』

 陰鬱で暗い映画の好きな男だった。殴りはしなかったけど、他人にまっとうさを説くのが大好きな男だった。

『今までなにもしてこなかった馬鹿なのに、正しい選択なんかできないだろ』

 ヤツのいう正しい命令に従うのは、気持ちが良かった。他人任せで何も考える必要がなかったから。命令するのが好きな男と、考えるのが億劫な女子高生。相性は悪くないんじゃないかって、思いこんでいた。

『どうせ、なにもわからないだろ』

 はじめて人間を殴った。死体だけど。馬乗りになって、体重を乗せて。三発ぐらい拳をあてたら、鼻が折れてヤンの。生きていたら鼻血噴き出したのかな。

「センセイ、さようなら」

 誕生日プレゼントにもらったピンキーリング。ぽっかり空いたままの口に落として捨てた。もう二度とそのツラをみることもない。

 すっきりして教室にいくと、驚いたことに机に向かう女生徒がひとり。壁掛けの時計は9時を30分過ぎたところ。一限には遅刻だったらしい。

 真面目腐った顔の女だ。嫌なことを思い出させる顔。昨日、川瀬の車の助手席に乗っていた、おおよそ私と同じ立場の女子高生。枝毛もないような黒髪ロングで、眼鏡の下には涼しい眦と尖った顎。絵に描いたような秀才で、色白、清楚、細身のデカ乳と男ウケ三拍子の揃った、理想的な女子高生。私とは全く正反対の要素をもった女。

 誰が呼んだか、腹黒秘め子。こういう子は男ウケに反して、女ウケは最悪だ。

 清楚なんて称号をもつ女子高生に、身綺麗な奴なんかいるはずがない。実際、川瀬の遊び相手のひとりだったわけで。それは私も同じわけで。

 女は二度と授業の始まらない教室で、ノートに向き合っている。大学受験を控えて、赤本を開き、ペンを走らせ問題を解く。彼女の熱心な自習が、教室いっぱいに筆跡を残す。微分したり、証明したり、長文を読み解いたり。そんな作業を飽きることなく続けている。

「意味なくない?」

「突然死んだから、突然生き返ることもあるかもしれない」

 腹黒こと、石黒姫子は顔をあげもせずに返事をする。思えば、石黒と会話したのはこれがはじめてだ。同じクラスで毎日、姿を見ていたはずなのに。属するグループが違うだけで、飼育されたケージごと別々に生活していたみたいだ。

「そうだね、一理ある。それじゃあ、死体が目を覚ます前に、派手にぱぁっと楽しいことしよ」

 ペンが止まる。黒くて丸いフレームが持ち上げられて、レンズ越しに私をみつめる。よくみりゃ、眼鏡の奥の瞳が大きいし、色が明るい。カラコンだ。指先も艶のある薄桃色でコーティングされている。耳に掛けるために持ち上げられた髪の束から覗いた、ビビットピンクのインナーカラー。一体いつの間に染めたんだ。

「それって、死体蹴りより楽しい?」

 ばっちり描かれた眉が持ち上げられる。瞳がビー玉みたいに光ってみえた。

 この女、準備万端だ。もしかすると、私よりも楽しんでいるんじゃないのか。

「もちろん。私たちは、なにやってもいい。誰もみちゃいない」

 遊ばれていた私たちが、遊んじゃいけない道理はない。


「石黒さん、車運転できたんだ」

「姫子でも、腹黒でも。気を遣わなくていいよ。私もナツメって呼ぶから」

「あだ名知ってたんだ」

「ううん。ずっと苗字だと思ってた」

 夏めぐみだから、ナツメ。ナツメグって呼ぶ子もいる。私のことは一応認識してくれていたみたい。他人のことなんて、まったく興味なさそうだったのに。

 高校の駐車場から乗り込んだ川瀬のセダンで、バイパスをのろのろ進む。道路には運転手が死んで、ぶつかり合った車が多く邪魔臭い。姫子の方もペーパーらしく、車幅を見誤って何度も側面を擦りつける。信号でも一時停止して、座席から体を浮かして左右確認する有様なんか、見ていて心配になる。飛び出す人も、対向車もあるはずないのに、律儀な女だ。

「車は……いつか、川瀬殺したら、北海道をキャンピングカーで逃げ回ろうと、思って。二ヶ月前に取った」

「いつからあの男と?」

「半年ぐらい? 川瀬の前は、母親をぶっ殺したかったし、その前は母親の元カレかな。なんにせよ、免許取って、どっか行きたかったのは変らなかった」

「怒ってないの? 昨日のSNSにアップした写真、姫子も写ってた」

「終わったことよ。見た奴は全員死んだ。案外、呪いの画像だったのかも?」

 渋滞区画を抜けて、死んだ車が減って道が空き始めた。姫子は次第にアクセルを踏み込む。

 姫子はカーステレオにスマホを繋いだ。音量を最大にして流し始めたのは、音楽というより衝撃波といった方がふさわしいクラブミュージック。ヤンキーの車から低音が漏れ出すヤツだ。

「好きだった?」

 私の問い掛けは音の波に隠された。あまりにも馬鹿々々しい質問。聞こえなくてよかったのかも。でも、姫子には私の聞きたいことなんて御見通しだったらしい。

 ふたりして顔を見合わせて、こみ上げてきた笑いにクラクションを鳴らす。

 爆音に髪を振り乱して。跳び跳ねて車を縦に揺らす。無意味に蛇行する。

 別に誰もみちゃいない。

 私たちがはしゃぎたいだけだ。

 やってきたのは郊外の大型ショッピングモール。数年前にできたばかりで、近場で買い物といえばここ。

「全品百パーセントオフだ」

 人生で一度はやってみたかったこと。ブランドアパレルからジュエリーショップまで、こっちの棚から、あっちの棚まで全部が私たちのもの。着た先から脱ぎ散らかして、更衣室なんか使わずに中央のどでかい通路でファッションショーを行った。お互いをコーディネートしたあとは、ショッピングカートに乗って競争した。

 幸いショッピングモールは開店前で、店員や清掃員の死体がちらほら転がっている他は閑散としていた。食べ物だけはどうにもならなかったので、ファストフード店でバイトしていた私が世界最後のバーガーを作ってあげた。カロリーを気にせず、パティ三枚のせのレタストマト抜き。食料品売り場から大袋のスナックを取ってきて、家具売り場のベッドの上で食い散らかす。着倒れ、食い倒れ。

「さっき、見つけちゃったんだよね」

 食べてすぐに横になって、起きるでも寝るでもない微睡にいると、ふと姫子が呟いた。

「なにを?」

「アイツにもらったブランドの財布。よく見たらロゴが違った。左右反転してやんの。偽物だったんだなぁって……ほんっとーに、馬鹿だよね。あんなもので満たされようとしてたなんて」

「あ……それ、私ももらったかも」

「なんだよそれぇ。自分だけ大切にされてるとか自惚れて。うちら、マジで間抜けじゃん?」

 姫子は手の甲で目元を覆った。こみ上げて来た笑いを口元から吐き出して。私たちは馬鹿な私たちふたりを笑い合ったんだ。あいつが私たちに与えてくれたもののちっぽけさに虚しくなった。

「姫子はどうして川瀬なんかと?」

 ひとしきり笑い終えて咳込んだあと、目元を拭って聞いてみた。

「私んち、参考書も買えないぐらい貧乏なの。父親はいないし、母親は酷くてね。家を出たくてもどうすればいいかもわからなかった。そんなときに、熱心に相談に乗ってくれる先生がいて、去年のものだけどって参考書もくれた。教習所のお金も出してくれて、時々プレゼントもくれた。境遇を恨んで、周りの人間すべてが敵に見えていた絶海孤独の女の子に、与えてくれる人間が現れた。転ばない方がおかしいと思わない? 私は体を差し出していたけど、それが愛故だと勘違いしちゃったわけ」

 笑っていいのよ、と姫子はすっきりした顔で言い切った。

 寝っ転がった売り物のベッドの上で、彼女と肩が触れ合った。昨日まで一言もしゃべったことのない者同士だったのに、今は息がかかるほど近くに感じる。きっと、人類が私たちふたりだけになってしまったからだ。人類が滅びなければ、袖すり合う縁もなかったに違いない。

「そっちは?」

「一言でいえば、私を見てくれた……私だけを見てくれていると思ったから、かな」

 私は期待されない子だった。別に不幸だったとも、貧しかったわけでもない。ただ周りより少しだけ要領が悪かった。凡才で、賢くなく、運動ができたわけでもない。どこにでもいそうな普通の、平均値を下回るだけの人間だ。私の両親がそれに納得できなかっただけの話だ。親を失望させる姉の背を見て育った長男が優秀で、私が可愛がられなくなっただけ。

「ただ寂しかっただけなのかも。劣等感塗れで、誰からも相手にされない私を、私のままで誰かに愛して欲しかった。私だけを見て欲しかった。変わる努力をしたわけじゃないけれど、みじめな私でもいいって誰かに言って甘やかして欲しかった。別に愛してくれるなら誰でもよかった……のかも」

「私でも?」

 姫子は意味深な目線で問い掛けた。

「だってしょうがないじゃん。もう、ふたりっきりなんだし。それにアイツより与えられる自信あるよ。幸いにも似た者同士だから。お互いの求めているものが分かる、みたいなね。川瀬のターゲットが、私たちみたいなちょっとだけ不幸で孤立した女の子だっただけかもだけど。狙いやすいのよ、たぶん」

「嫌じゃないの? 援交とはいえ、浮気相手だよ」

「今になって思えば、愛じゃなかったし、たぶん好きでもなかった。縁切れてすっきりよ。だから、一晩で思い切ってピアスも開けて、髪も染めた。やってみたかったことを一つずつ叶えていったの、自分の力でね。思ったより簡単だった。私が臆病だっただけで、いろんなことが簡単だったの」

 姫子は手を伸ばす。私の手を握って、指を絡めた。

「触れたいと思えば、温もりが欲しければ手を伸ばすこともできる。ナツメにだって、こんな簡単に触れることができる」

 私は躊躇いがちに握り返した。発電所でトラブルがあったのか、人間がいないとこんなものなのか、モール内の照明が落ちて停電する。

 暗闇に目が慣れるまでじっと目をつぶっていた。

 次に目を開いた時、鼻が触れる距離に姫子の顔があった。

「私たち、ふたりなんだよ。大勢の中で孤独になることも、誰にも見られずに寂しさに埋もれることもない。私たちが、私たちだけをみていれる。そうしていればいい」

 自然と潜められた声。息遣いまでもつぶさに感じ取れた。

 世界でぽっかり取り残されたふたり。ベッドの上で身を寄せ合って。

「ふたりだから、寂しくないよ」

 ふたりで映画をみた。あの男とみたことのある映画だ。家電売り場からバッテリーの残っているプレイヤーを持って来て、偶然売っていたブルーレイを差し込んで。ふたりでみる映画はやっぱり退屈で、面白さなんてちっともわからなくて、気付けばふたりとも寝入ってしまった。

 欠片も夢をみない、今までで一番満ち足りた眠りだった。


「これからどうする?」

 ガソリンの切れた車を乗り継ぎながら、何となく東を目指して国道を進んでいた私たち。座席にはモールから持ち出した食料品や使えそうな家電に防災グッズを満載していた。

「やっぱり爆発よ、爆発。一度建築爆破とかしてみたかったのよね」

 運転も次第にこなれてきた姫子が風を浴びながらいう。

「爆弾とか作れんの?」

「本で読めばなんとかなるんじゃない? 大きな図書館にいけば、爆弾の作り方のひとつやふたつ書いてあるでしょ。なんのために化学や物理の勉強をしてきたと思っているの? 自衛隊の駐屯地に行ってみるのもいいかも」

「少なくとも街を爆破するためじゃない……けど、やるならタワーやろ。スカイツリー」

「それじゃ、やっぱ取りあえず上京しなくっちゃね。ナビよろしく。アナログ地図しかないけど」

 目的地が決まって軌道に乗り始めた二人旅。あっけらかんとして、世界が終わった絶望感なんて微塵もなくて、お祭りの準備をしているような期待が沸き上がっていた。不安なんか感じている暇もないくらい。私たちは紛れもなく楽しんでいた。

「ちょっと待って。なにかいる」

 前方の放置された車の陰から何かが現れる。犬とか、猪とかの野生生物だと思ったら、そいつは二本足で立ち上がり、前足を交差させて頭上に掲げた。交差させては開く、その仕草を繰り返す。私たちに存在を主張するように、そいつは鳴き声まであげてみせた。

「おーい、君たちも生き残りか?」

 そいつは私たちの知っている日本語で話しかけてきた。

 運転席の姫子を見やると、いぶかし気に眉をひそめた。私たち乗るファミリーカーはそいつに減速しながら近づく、そいつもにこやかな笑顔で道路中央まで歩み出てきた。距離が十メートルほどまで近づいた時、姫子はアクセルを思いっきり踏み込み急加速した。そいつは驚きで硬直してしまい、避ける間もなくバンパーに突き飛ばされ、倒れた所をタイヤに踏みつぶされた。

 乗り超えた際のアップダウンで、私は舌を噛んだ。

「姫子、今の人だったよ? いたんだ、私たち以外にも生き残りが」

 振り返って轢かれた男をみた。ぴくりともせず、アスファルトの上に物体が転がっている。人から肉に変ってしまった。ほかの人間達と同じように。血のタイヤ痕を残しながら、私たちは遠ざかる。

「ナツメ、聞いて」

 姫子はアクセルを緩めることなく、ハンドルから手を離すこともない。

「人類は滅んだ。私たちふたりを除いて。生き残りは私たち、たったふたりだけ。そのほかはナシ」

「でも、今のは……」

「人が滅んだ世界で動き回るものはなんだと思う? あれはゾンビだ。人間じゃない。人の形をして、人の声を出して、人っぽい行動を取ることもあるけれど、やつらは徘徊する屍。わかる? 私たちはたったふたりの世界を守らなくちゃいけないの。これからふたりで生きていくって、もう決めたの」

 私は姫子の強い覚悟に驚き、それ以上にふたりを尊重してくれていることが嬉しかった。彼女は私とふたりの関係を大事に思ってくれているんだ。私が考えたよりもずっと重く。私にはそれが、どうしようもなく嬉しいのだ。

「そっか、ゾンビか。ならしょうがないな」

 私は地図を広げて、新しい目的地を探しだす。

「次の交差点を右に曲がって」

「何処に行くの? 東海道から外れちゃうよ」

「ホームセンター。きっと役に立つものがあるよ。この世界にゾンビが徘徊しているなら、私たちも相応の準備を整えなきゃ。タワー爆破より先にやるべきことが出来たんじゃないかと」

「私、想像したことあるわ。もし、ゾンビパニックになったら、どこに立て籠もるのが生存率をあげるのか。その点ホームセンターは生存に向いている。武器もある、ある程度保存食もある、服もある。隣に園芸館があれば、野菜の栽培もできる」

「評価は?」

「星四個半」

「決まりだ」

 私たちはハンドルを切った。

 人類が滅亡した世界で、ふたりだけの生活を謳歌するために。

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