産月記

押田桧凪

第1話

「プラスチック、うんこの匂いがする」とそいつが言って、「ああ、たしかに」と俺が頷いた時、それまで仲が良くなかった俺たちは友だちになった。


 柔道でペアになった時、投げ飛ばした後に毎回手を差し伸べて起こしてくれるところがなぜか憎めなくて、「一生同じメニューしか食べられないなら何を選ぶか」と問われて「日替わり定食」と答えるような卑怯さとかそういうところが嫌いだったのに、なんでよりによって、プラスチックの匂いという一点のみで俺たちが結びついてしまったのか疑問だったが、たぶん感性が似てたんだと思う。絶対にそう。あれはまじでうんこだった。


 それから、十年が経った。


 歯医者の待合室で『ウォーリーをさがせ!』に一人で取り組んでいたら、隣から指をさされて「こいつ。砂浜にいる、サングラスの。これウォーリーな」と言われた。サングラスは変装として反則だろ、と思いつつ聞き覚えのある声の方に「もしやルイヤか……?」とかぶりを振ると、そこにそいつはいた。俺たちは、ウォーリー友だちになった。


 たとえ地元が同じでも俺がルイヤと会うことはもうないと思っていた。俺たちは大人になったからだ。だけど、喜ぶべきでないような再会は奇しくもやってきた。


「夕方四時にひがこうに集合な」と会計を済ませるために立ち上がると、ルイヤは俺にだけ聞こえる声でそう言った。東公園のことを「ひがこう」と呼ぶノリが当時と何ら変わってなくて、俺だけ子供時代に戻ったのではないかと一瞬、錯覚した。とっさの発言に俺は表情を失い、反応できなかった。ルイヤは待合室からいなくなった。


 どうせ、口約束だった。行かなくてもよかったはずなのに体内時計がセットされたかのように予定時刻に足を向けた俺は正直おかしかった。特に嬉しいわけでもなかった数年ぶりの再会。憎たらしいなじみの顔。選ぶのはいつも俺の方だった。


 ルイヤの言う、東公園──通称「ひがこう」は神社の境内に隣接した遊具の少ない公園だが、雑木林の続く長い遊歩道は夏の間でも涼しくて、犬の散歩などに利用されている。砂場の近くに顔を埋めて寝そべるような体勢をして、そこにルイヤはいた。


「何してるん? フンコロガシでもいた?」と訊くと、「おっ来たのか」とか「まさか本当に来るとはな……、ヘッ」みたいな王道の受け答えがあるわけでもなく、「ウスバカゲロウ」とただ一言呟いた。要は、アリジゴクの幼虫のことだった。


 その視線の先に目をやると、割り箸の片方を一本立ててお墓のようなものを作っていた。近くにはすり鉢のような巣がいくつかある。


「これが目印。枝の代わりにする」


 箸につかまったウスバカゲロウは翅を固くして、羽化しようとしていた。ことん、と何かが落ちた。茶色い丸くてくびれのある物体だった。はじめてのフンだ、とルイヤは嬉々とした表情を見せた。幼虫時代から体に溜めていたフンを体外に出す初めての瞬間なのだと言う。それを見れて興奮しているのが伝わってきた。まだ、こいつはうんこにご執心なのかと思うと俺は呆れて乾いた声が出た。俺は久しぶりに喉の奥から声を出した気がした。これを見せるためだけに俺を呼んだのも、その全部が笑えてきた。大人になっても糞に夢中なのか、と。


 このウスバカゲロウはもう間もなく、交尾相手を探すために空に飛び立つのだろう。


「羨ましかったりする?」

「何が?」

「何でもない」


 その経験が、ないことだけは確かだった。だけど、いのちが生まれる瞬間を前にして、そういう話をするのは自然に対する冒涜な気がして何となくやめた。俺はただ、純粋に羨ましかった。


 どちらから誘うわけでもなく、そのままの流れで俺はルイヤの家に連れてこられた。部屋に上がってすぐに目が留まった、7月のままのカレンダーを見て、「時間が止まってるな」と言うと、「7と8は数字の形が似ているから変えるのを忘れていた」と言われた。


 そうだった。こいつの感性は死んでいて、おそらく俺と同様にこれまでの人生においてモテるはずがなかった。そこだけは共通していた。うんこ友だちとして。


「ピザでも頼むか」と冷蔵庫からコーラを二本取り出しながらルイヤは訊いた。だが、そのタイミングでインターホンが鳴る。魚眼レンズから覗いて姿を確認すると、あー忘れてたわとルイヤが言って、女が入ってきた。つくられた女だった。俺にはそれが誰か分かっていた。「なんだデリヘルか?」と俺がからかうと「俺が、みにくいか?」といたって真面目な顔でルイヤは言った。まるで月の光に照らされてけものに戻ったかのような痛切さを持った響きが俺には愛しく感じた。


 かろうじて大人にはなれたものの、童心に返ろうとして身体だけは追いつけないようなアンバランスさを持った俺たち童貞は社会に弾かれているという一点のみで相変わらず噛み合っていた。


 献血促進サービスとして訪問販売員を装って現れた女は、自らを『シナモン』と名乗った。「きれいめの血液が欲しいのです。だから、ルイヤさんはこれ以上にないほど適格です」と女は言った。当然、それが子孫を残すための手段ではないことを俺は知っていた。発火しやすいセルロイドの皮膚は今やどこの製造工場に行っても見ることはできない。女は旧式の機械人形オートマタだから仕方ない、と思った。


「その先の尖った爪を持つ親指で私を蹴ってください」と女はルイヤにお願いした。『蹴る』『踏む』以外にも『伸ばす』『揉む』といった血行を良くするコマンドもあるようだった。ルイヤはボランティアだった。同時にもちろん彼女も血液の提供者ドナーにご奉仕するプログラムでしかなかった。俺はそれを傍から見ているだけだった。途中で「一緒にやる?」と言われたので、「いや、いい」とだけ返した。お楽しみを邪魔するのは良くない気がしたし、家に来ない方が良かったのではないかと今更ながらに後悔した。


 その後、ストレッチが終わると女はポーチから針を取り出してルイヤから血を抜いてすぐに帰った。それ以上の接触はなかった。


「生きるために食べているだけで、もし食べなくても生活できる体だったら食べることを選んでいなかったかもしれない」と何の脈絡もなくルイヤは静かに言った。


 例えば、それは深夜にジャンクフードを貪ってカロリーを気にするような正常さとは程遠い感覚だった。


「感性がないって言うの代わりがきくってことだよ」

「それが献血をする理由?」


 さっきまで触れることができなかった話を切り出す。

「わからない」とルイヤは答えた。


 性的交渉を持たない弱者男性をカモにするサービスとして、安全安心を掲げるオートマタは半世紀前に世間から非難を浴びたが、廃業になることはなかった。「デリバリーヘルス」の字の如く、女はルイヤに健康を届けていたし、誰かを助けているのは確かであったからだろう。


 一方で、社会にとっては国に守られている保安林くらいの扱いでしかなかったし、女が日焼けを嫌うのと同じくらいの理由で、ルイヤのような人間に目が向けられることはなかった。それは俺も同じだった。


 それがどうにも不整合で許せなくて、クソが、と腹に力を込めると唐突に便意がこみ上げてきて、トイレを借りた。


 用を済ませ、開けたドアから放たれた俺の匂いを嗅いでルイヤは「これこれ」と言って笑った。その満足そうな顔を見るだけで俺はこいつと友だちになって良かったのかもしれないと少しだけ思った。


 窓の外を見ると、白くとがった月が出ていた。


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