月を飛ぶ蝶のように

豆腐数

花と蝶が萌ゆる

 「人間が潰した生き物たちの中で、最も優雅に宙を舞うのは蝶なのよ」


 一足先に逝った、豊かな土色の瞳と髪を持った彼女の言葉を思い出しながら、僕は宇宙を進む。


「種類にもよるみたいだけれど、『ひらひら』って薄いものが風になびくように飛ぶのが、昔地球にいた蝶という虫なの。映像でしか見られない花から花へ気ままに移り住んで、蜜を吸って、いつか羽ばたくのを止めて大地に還って、ささやかな養分になるの」


 手のひらサイズの端末から蝶のデータを検索しながら言う彼女は、星一つ作り変える栄養をその身に蓄えているというのに、ちっぽけな養分にしかならない蝶こそが至高だと言わんばかりだった。


 僕達は、『人類の希望の天使』。正しく言えば、人間の立てた移住プロジェクトの名前なのだけれど。地球を過剰な資源採掘、戦争、環境破壊で汚しつくした人類は、自ら急速に人口を減らし、住処を狭めていった。そんな彼らの頭の良い科学者達が産み出したのが僕達。地球の親しい友であり、身近な存在である月を、僕らを使ってテラフォーミングして、移住しちゃおうという計画だ。地球を元に戻そうという計画もあったらしいけれど、疲弊した人類は地球がどうなろうと頭上で輝き続ける月に、希望を見出したらしい。


 最初に送り出されたファーストが、月世界に灯りを、

 セカンドが大気と水、

 そしてサード──蝶に憧れた彼女の識別番号名だ──が、土壌を。


 それぞれが一人ずつ送り出され、月に至ると身体の中の全生命エネルギーを放出し、朽ち果てていった。僕たちは人間が願う通りの、ご奉仕精神あふれる心優しき天使というわけ。


 僕達が生成される時、時が来れば飛んで行って使命を果たすよう、遺伝子に組み込まれているから、特に怖いなんて事はない。見た目が愛らしい子どもの格好をしているものだから、同い年くらいの息子がいるという女の研究者に、同情の目で見られたりもしたけれど、同情というのがまずよくわからないというのが正直な感想だ。


 だって僕は、ファーストとセカンドはもちろん、使命が来るそれまでの時間、一番良く話す仲だったサードが旅立った日でさえ、涙の一つも零れなかった。それは、月にたどり着くまでの間、こうして彼女の記憶を再生している時だってそうだ。


「わたしは蝶にはなれないね。翼はあるけど翅はないし、蝶になるには大きすぎて、地味過ぎるもの」


 彼女は残念そうに、鮮やかな土色の髪のひと房をつまんで、簡素な布を合わせただけの服の裾を引っ張る。背中の白く透き通った羽が、何も知らない琥珀を包むおくるみのようだ。


 檻のような、研究所の白い個室の格子付きの窓から、いずれ旅立つ月を見上げて、サードは言った。

 


「代わりにわたし、月を飛ぶ蝶のようになるね。土くれに還る前に、本当の太陽を浴びてキラキラ輝くあの場所で、一人でひらひら飛んで、その時だけはきっと、月の花の上で舞うちょうちょになれるわ」


 彼女の語る夢のような光景を浮かべる為、僕は目を閉じ、白い個室を遮断した。宇宙。そこはファーストの灯りがあるから明るいだろう。輝くまだ荒廃した月の大地の上で、彼女は飛ぶ。端末の中の蝶を真似て、ひらひらと。クレーターを移り住む花の代わりに、その白く頼りない足先をバネに飛びあがり、宇宙で独り、踊る天使。


「月の土壌を整えて、朽ちて死んだら。豊かになった月世界で蝶になるわ。あなたの撒いた植物の咲かせる花の蜜を吸って生きる、ちょうちょに生まれ変わるの」


 楽しいイタズラを思いついた顔で、彼女は僕の植物と同じ緑色の瞳を覗き込み。若草の色をした短髪を梳いてくれた。


 人工天使の力で照らされた月は明るく、降り立つ大地は栄養を誇示するようにふんわりと僕を受け止める。まるで彼女に抱き止められたようだった。僕が何もしなくても、今にも植物が萌え広がりそうな大地は、彼女がもうこの世にいない事を表している。


 タイムリミットが来れば、僕の意志に関係なく、エネルギー放出が始まる作りになっているが、そこまで待つ意味もないので、最期の仕事を終えてしまう事にした。



 サードが言ったように、僕──フォースに課せられた使命は、種蒔き。虫や人がいなくても自家受粉して、いずれここにやって来る人間達を、まず豊かな緑で、目で楽しませる役割。食料とか燃料とかの現実的な問題もあるそうだけれど。


 ねえ、サード。君は「わたしは蝶になれない」って言ってたけど。実は僕達が作られる時、データサンプルとして遺されていた蝶の遺伝子が混ぜられていたらしいんだ。女の研究者が教えてくれた。「月まで優雅に飛んでいけるように」って事で、プロジェクトの人間の一人が混ぜ込んだらしいんだ。なんとも人間らしい、ロマンに富んだ裏話だと思わないかい? だから君は、蝶だと胸を張っていいんだ。おめでとう。君が蝶に憧れたのも、先祖返りとか、本能だったのかもしれないね。


 ああ、でも。君の生まれ変わり達が、僕の植えた植物達の花の上を舞う世界は面白い光景だと思うよ。植物が揺れ、蝶だけが舞う世界。綺麗だろうね。僕が今もこうして月の表面いっぱいに植えている種の中に、蝶の種子も混じっていればいいのに。ゴメン、蝶は種を撒いて生えてくるものじゃないんだっけね。君に減点喰らっちゃうなぁ──。


 〇


 『人類の希望の天使』プロジェクトは無事完了し、人間達の移住が始まった。


 最初は順調だった。しかし月一面に広がる植物は、そうと気づかないくらいの速度で、ゆっくりと、静かに人間を蝕む巧妙な毒で、疲弊した人類を絶えさせていった。爬虫類が冷えた水につけられ煮られるように、徐々に同胞が倒れていくのに人々が気づいた時にはもう遅い。

 

 移植予定にないはずの、色彩豊かな蝶達が舞う月世界で、人類はついに絶滅を果たしてしまった。


 真綿で首を徐々に締めるように人間達を蝕んだ植物達は、共に移り住んだ蝶を害する事はなく。

 

 誰もいない、人工の灯りと大気が見守る世界で。

 植物は蝶達を喜ばせるように咲き乱れ、蝶は自分達の為だけに咲く花達の上を踊るように飛び続け、


 二つの生き物達は、互いしかいない場所で、永遠の栄華に浸り続けている。

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