第6話 2003年4月18日

《2003年4月18日金曜》


「――それじゃあ、少し早いけど、今日の講義はここまでにします」


 中国語総合Ⅰの講義を担当する東海林しょうじのその言葉によって、講義室は徐々に喧騒けんそうを取り戻していく。

 かけるも同じ語学クラスの学友達と共に、この必修科目である二時限目の講義を受講していた。


「諸星、昼飯どうする?」


 翔にそう訊ねてきたのは、たまたま近くの座席にいた海野正孝だ。

 翔の記憶によれば、帝央大学に入学した後、初めて会話をしたクラスメートは彼のはずだった。


「今日は学食かな」

「じゃあ、一緒に行こうぜ」

「……ご一緒してよろしいか?」


 翔と海野が話していたところに慇懃いんぎんな風体で割って入ってきたのは、大柄なクラスメートの一人、丘崎大豊たいほうだ。

 翔は時間遡行そこうを体験してからこの一週間、海野とは比較的親しく接していたが、丘崎とはまだまともに会話をしたことがなかった。


「ああ。いいよな?」

「もちろん」


 海野に促され、翔も当然のように首肯した。


 キャンパスの東側、文化センターから見て南隣に、数百名を収容できるほどの大きな建物がある。

 大学生協が運営する食堂――帝央大学的場まとば食堂だ。

 この建物の一階は広々としたカフェテリアになっており、「いぶき」という名前がある。ただし、多くの的場生は大抵の場合、単に「学食」と呼んでいる。


「今日も混んでるなぁ」

「しょうがない」


 どの大学でも見られる光景だが、昼のピーク時の食堂は最も混雑するものだ。


 三人はカウンターから伸びる列の最後尾に並ぶ。

 翔と海野はそれぞれブリの照り煮とおろしロースカツのセットを頼んだのに対し、丘崎はカレーライスを注文した。


 その後、彼らはトレイを両手で持って移動し、なんとか三名全員が接近して座れるテーブル席を確保できた。


「「「いただきます」」」


 誰からともなく、律儀に手を合わせて食事を始める。



「……二人は、アルバイトってもうなんかやってる?」


 食事がある程度進んだところで、その話題を出したのは丘崎だ。カレーライスの量はもう半分以下になっていた。


「俺は家庭教師を始めたよ」


 と、答えたのは海野だ。

 これを聞いたのは、翔にとっても初めてのことだった。


 海野が言うには、彼は仲介を挟まずに知人の伝で生徒を紹介してもらったそうだ。

 時給は五千円。その額を聞いて、翔と丘崎は揃って羨望の声を上げた。


「諸星もバイトやってたよな?」

「うん。IT系の企業でバイトしてるよ」

「何それ? 詳しく」


 海野からの改めての問いかけに翔がそう答えたところ、丘崎が身を乗り出してきた。彼はもうカレーを食べ終えたようだ。


「企業でバイトしてるんだ? 確かに、それはちょっと気になるな」


 海野も丘崎に同調してきた。確かに翔は、アルバイトの内容についてこれまで誰かに詳しく話したことはなかった。


「――ハウディ? 日本のインターネットサービスの最大手じゃん!」

「……マジか。あそこってバイト募集してたんだ」


 翔がハウディ社の名前を出したところ、丘崎が大きく反応し、海野も控えめながら驚きを示した。

 それもそのはずで、ハウディといえばこの当時の日本のインターネット利用者のほとんどが使うサービスの名称でもあるからだ。

 親会社が母国アメリカでそうしたように、ハウディ社は検索エンジンやウェブメールなど、インターネット利用者の多くが必要とするサービスを他社に先駆けて積極的に展開することで、日本のインターネット業界の最大手の地位を確立した。


 ――ただし、ハウディ社は後年、徐々に現在の地位を失っていくことになるのだが、現時点でその未来を知る者は翔だけだ。


「バイトの面接ってどんな感じだったの?」

「それ気になる」


 海野と丘崎に問われ、翔はハウディ社での面接で体験した質疑応答についてかいつまんで話した。

 すると、二人は感心したような唸り声を上げた。


「……すげえな。俺はその面接、通る気しないよ」

「いやー、やっぱり諸星君は一味ひとあじ違うね! 情報の講義のときから思ってたけど」

「……そうかな?」


 二人の称賛の声を受け、翔は思わず頬を指で掻いた。

 単純に照れ臭く思う傍らで、二十年後の知識を以って「ズル」をしているという、後ろめたい気持ちもそこにあった。


「俺もそのバイトめっちゃ興味あるけど、さすがに受かる気がしないなー。……どんな勉強したらいいかな?」

「丘崎はプログラミングとかやってたんだっけ?」

「遊びでちょっとなら」

「それなら……本を読んで一通りやってみるのがいいかな。Javaがオススメ」

「ほうほう」


 特に丘崎はIT分野に対する興味・関心が高いようで、翔は会話の流れで彼にいくつかアドバイスをすることになった。



    †



 この日、翔が羽根木寮の自室に帰宅すると、時刻は二十時半を回っていた。


 金曜の夜だ。的場キャンパスの文化センターでは、舞踏研究会が新入生を勧誘するためのイベントとして、社交ダンスの講習会が行われていたことだろう。


 ――しかし、翔がそこを訪れることはなかった。


 既にハウディ社でのアルバイトの予定が入っていた、という理由もある。

 ただし、仮にアルバイトの日程をずらすことができたとしても、翔は現時点では舞踏研究会に入会する気はなかった。


 その理由の一つとして、まだ生活の基盤が整っていないという点が挙げられる。

 より大きな理由は、本来の――時間遡行前の――入会時期に対して、まだ一年の猶予があるからだ。


(別に、焦る必要もないしな。……ってか、むしろ今入ったらややこしいことになるし)


 よく知らない者から見れば綺羅びやかなイメージがある舞踏研究会だが、実態はむしろ体育会系寄りだ。そこでは年次による上下関係が厳しく定められており、一年の入会時期の違いは、人間関係に決定的な差異をもたらす。


 時間遡行を経験したことで、以前よりも物事に前向きに取り組めるようになった翔だが、その変化を積極的に受け入れてまで今すぐに舞踏研究会に入りたいか、と問われれば「否」となる。



 適当に荷物を下ろした翔は、財布類をしまおうと部屋に備え付けられたシステムデスクの引き出しを開く。


 そして、中にあった「ある物」の存在を思い出して、溜め息を吐く。


(――そうだった。そろそろコレ、どうするか考えないと……)


 そこにあった物とは、二十年後の未来から翔の記憶と共にこの時代にやって来たと考えられる唯一のアイテムだ。


『――……いいから持ってな! 今日一日乗り切ったら、返しにおいで』


 翔の脳裏で、時間遡行が発生する数時間前に〝彼女〟に言われた言葉がフラッシュバックする。


 そのアイテムとは例の事故の日、池袋の東側で出くわした謎の女占い師から、数珠と共に押し付けられたショップカードだ。翔が交通事故に遭ったのは、それから数時間後のことだった。


 翔はこの時代に逆行して三日目に、そのカードが自分の財布の中に入っていることに気づき、驚きの余り声を上げた。

 それは、この時代の自分が持っているはずのない物だったからだ。

 翔が何度見直しても、いくら考えても、二十年後の自身が持っていた物としか思えなかった。


〒一七〇−××××

東京都豊島区東池袋◯丁目□□番地の△△


 カードにはシンプルな地図と共に、占い店の所在を示す住所が記されていた。


「――行ってみるしかない、か……」


 翔の中で、この週末の予定の一つが確定した。

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中年男が青春時代に逆行して人生をやり直す話 卯月 幾哉 @uduki-ikuya

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