第5話 2003年4月15日(過去回想有り)
《2003年4月15日火曜》
――午前六時ごろ。
夢の中で、翔は時間
それは翔の体感では約十九年前――二〇〇四年四月の出来事だ。
†††
《2004年4月18日日曜》
「君、ひょっとして新入生?」
「いえ、二年です」
「……なんだ。二年か」
その日の午後、翔は帝央大学的場キャンパスの学生棟に来ていた。
キャンパスの中でも比較的古くからあるその建物は、様々な部活やサークルの活動拠点となっていた。
時間遡行を経験する前の翔は、大学に入学してからの一年間、部活やサークル活動には全く縁を持たなかった。
その種の活動をするための時間的、あるいは、金銭的な余裕がなかったわけではないが……その話はここでは割愛する。
ともあれ、学年が二年に上がったこのタイミングで翔は一念発起し、何らかの課外活動に取り組むべく、行動を起こしたのだ。
「……お。あったあった」
学生棟内のとあるラウンジで、翔はローテーブルの上に無造作に積み上げられたチラシの束を見つけた。
それは四月初めの新入生勧誘期間が終わり、不要になった部活・サークルの新メンバー勧誘のためのチラシだった。
それも、お
翔はソファに腰掛けると一つの束を手に取り、一枚につき二、三秒ほどのペースで高速に内容をチェックしていった。
当時、帝央大学の部活やサークルの数は、大学公認のものだけで約三百あった。その内、的場キャンパスで活動しているものはその約半分に上った。ただし、新歓活動をしていないサークルや、何らかの理由でその場にチラシが無いものもあったため、実際に翔が見たチラシの種類は百に達するかどうか、というところだった。
翔が一通りチラシを見終わったとき、彼が興味を持ったサークルとして数枚が脇にピックアウトされていた。
その内の二枚が社交ダンスに関するサークルだったのは、翔の男子学生らしい不純な動機によるものだった。
(――社交ダンスか……。こういうサークルにでも入れば、女性と接点が持てるかな……?)
当時、帝央大学の理系科(※帝央大学の一、二年次において、学生は「文系科」と「理系科」のコースに分かれる)に属していた翔は、日常で女性と接する機会がごく少なかった。
その一方で、翔は年頃の男子でもあったから、日々生活をしていれば、溜まるものもあった。
また、生まれてからその時まで「彼女」という関係性の相手がいなかった彼にとって、そういった関係は一種の憧れの対象でもあった。
社交ダンスサークルに関する二枚のチラシの内の一枚は『帝央大学舞踏研究会』のものだった。
それには、男女が手や肩を組んで踊る姿を描いたイラストと共に、次のように記されていた。
『パーティーステップ講習会 社交ダンスの基礎、教えます!
4月 月・金曜 17:00〜19:00 文化センター2A・2B』
(――とりあえず、明日、行ってみるか)
翔はピックアウトした数枚のチラシをリュックにしまうと、学生棟を後にした。
†
《2004年4月19日月曜》
明けて翌日の夕方、十七時過ぎ頃のことだ。
翔は単身、的場キャンパスの文化センターという建物を訪れていた。
防音室や広めのフローリングの部屋を複数抱えるこの施設は、主として芸能に関する講義の実習や、文化系サークルの活動のための場所として用いられていた。
翔が文化センターの東側の階段を上ると、ルーム2Aは目の前だった。
「こんにちは。新入生ですか?」
ルーム2Aの入口には、舞踏研究会のメンバーが待ち構えるようにして立っていた。
「いえ。二年生なんですけど……」
「そうなんですね。とりあえず、ちょっと踊って行きますか?」
「え? ……あっ、ハイ」
――ひょっとして、二年生は入会お断りだったりするのかな?
答えながら、ふとそんな懸念が脳裏を
意外なほどあっさりとドアの内側へと案内された翔は、いそいそと靴を脱いで、学年としては同級と思われる彼に従って室内に足を踏み入れた。
広いフロアでは、ビートの響くムーディーな音楽が流れ、多くの人が賑わいを見せていた。
キャンパスの中にこんな空間があったのか、と翔は驚いた。
ルーム2Aは、五十平米ほどのフローリングの部屋になっていた。一面が鏡張りになっており、なるほどダンスを踊るにはぴったりの部屋だと思われた。
「――じゃあ、一緒に『ルンバ』のステップをやってみようか」
「え?」
荷物を置いた後、キョロキョロと周囲を見回していた翔は、先ほど彼を案内した者とは別のサークル会員に担当を引き継がれていた。
その二年生の男性は新入部員候補の男子達を数人まとめて、基本のステップを教えているらしかった。
「ルンバ」という社交ダンスの種目の名前については、当時の翔にも聞き覚えがあった。翔は高校生の頃の一時期、あるテレビ番組のコーナーで芸能人が社交ダンスに挑戦するというシリーズをよく見ていたことがあったのだ。
「ツースリーフォーワン、ツースリーフォーワン……」
しかし、見るのとやるのとでは大違いだ。
運動が不得意で、優れたリズム感があるわけでもない翔は、サークル会員が実践するルンバのステップを必死で真似しながら、ぎこちないロボットのようなステップを刻んでいた。
「うん、覚えたね。じゃあ、そろそろ女の子と踊ってみようか」
「えぇっ?」
――え? こんなのでいいの?
それが、このときの翔の正直な気持ちだった。
しかし、サークル会員がそんな翔の内心に配慮してくれることはなかった。
翔を含む男子グループは、少し離れた場所で同じようにステップのレクチャーを行っていた女子グループと合流し、ペアを組んで踊ることになった。
「……じゃあ、君はこの子とね」
「よろしくお願いします!」
「よ、よろしく」
元気よく挨拶してくる新入生女子に対し、翔は慌てて頭を下げた。
「それじゃあ、男性は左手を前に出して、女性はその上に右手を置いて」
翔は、自分の心臓がドクドクと拍動するのを感じながら、左手の汗をズボンの裾でゴシゴシと拭ってから前に差し出した。
向き合っていた新入生女子は、
翔は左手で、ひんやりとした柔らかな彼女の手の感触を感じた。
「まずはゆっくり、カウントで」
サークル会員の
それはお世辞にもダンスと呼べるようなものではなかった。
それでも、二人が正しくカウント通りに動いている間は、衝突のような事故を起こすことなく踊りきることができた。
ベーシックのルーティーンを一周踊りきった翔は、学校の期末試験を終えたときのような達成感を感じていた。
「じゃあ、次は曲に合わせて踊ってみようか」
――もう勘弁してくれ。
翔は危うく、そう声に出してしまうところだった。
これが、翔が人生で初めて体験した社交ダンスだった。
†††
《2003年4月15日火曜》
――ジリリリリ!
羽根木寮B棟、一〇七号室。
目覚ましの音で起きた翔は、夢の内容を思い返して苦い顔をしていた。
当時、初めて参加したあのパーティーステップ講習会の後、上級生メンバーによる社交ダンスのデモンストレーションに魅了された翔は、すっかりその気になってしまった。
その日の夜、キャンパス付近の小さなレストランで開催された懇親会で、翔はその日の体験によって自分がどれだけ衝撃を受けたかを、講習会に一緒に参加した新入生や、舞踏研究会の先輩らに熱く語った。
そして翔は、あれよあれよという間に舞踏研究会への入会を決めた。
それから、彼がサークルを退会する三年弱ほどの間で、翔は数々の濃密な経験をすることになった。
それは稚拙で青々しく、思い出すと顔が火照ってしまうような、めくるめく青春の日々だった。
――別に、良いことばかりじゃなかった。
翔の頭の中では、当時の様々な失敗の記憶が泡となって、とりとめなく浮かんでは消えていく。
一方で、現在の翔は大学を卒業した後、丸十五年の社会人生活を経験し、それなりに精神的にも成長した。――少なくとも、翔自身はそう思っている。
(……今更やり直したって、何が得られるってわけでも無いかもしれない。でも――)
今なら、もっと上手くやれる。
翔の中には、そんな前向きな予感があった。
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