黒山羊岬の灯台守

タカツキ

短編

 さざ波が聞こえる。


 海が波紋を広げて、魚たちがなげいているのが肌で分かる。今日はきっと、どこかの国で悪いことが起こったんだろう。誰かが海に流した心の痛みが私にも届いてくるようで、私の魂は酷く虚脱きょだつを鳴り響かせたから。


 それでも喉は泡立つほどに乾いていて、指先は春を迎えた時のように乾いていた。多分、心のどこかも乾き切っていて、虚脱感きょだつかんをあるがままに受け入れていた。


 私はきっと、脳神経のいくつかが擦り切れているんだろう。だから体中に巡りまわっている心という機能に思考が接続されてなくて、むなしいと思った感傷も悲しいと思えた感情も、心を動かすには不十分なんだ。


 きっと、大切だった感覚も、裏切られ、嘲笑あざわらわれ、痛めつけられることへの痛みも失ったのは、心が足りなかったからだ。

 心というものは私には理解できないほどに壮大そうだいで、本当に曲解きょっかいだ。だから、人の心が分からないと、異常いじょう異端いたんだと言われてきたんだろう。


 要するに、あの人たちが正しかったんだろう。


 なんて結論づけても、私は正義というものにあまりにも無関心だ。

 だから正義の一言だけにすがって価値基準を押し付ける世情に嫌気が差したんだろうし、この世界を上辺うわべだけの誰かの言葉で誤魔化して苦しむ、高潔こうけつな人間にうんざりしたんだろうから。


 存外にこの世界は私が生きるに向かなかった。あるいは、私の神経と性格はいわゆる正常ではなかった。

 それを恥じるつもりも腐るつもりもないけれど。だからこの灯台で灯台守をしているのだけれど。


 楽器を鳴らしても、日々にささやかな笑顔を見つけても、それを誰にも知られないことは、少しだけ退屈だった。この霧に囲まれた幻想的げんそうてきみさきの中で、私の肌は決して潤いを覚えることはなかった。


 こんな思考も、必要十分にいつものことだった。


『これが寝起きの思考ね...』

『めんどくさ!』


 酷い湿気のせいで蒸し切った布団を蹴り飛ばす。

 宙を舞い、軽質量らしくもないぎくしゃくとした挙動を見せた不憫ふびんな布団は、何にたなびかれるでもなく落ちていく。


 水を含んだ雑巾が重力に比重を傾けることを、私は大人になるまで知らなかった。ましてや水を吸い切った布地がそこそこにはた迷惑な凶器になることなんて、今この時まで知る由はなかったわけで。


 そんな無知で純粋な私をよそに布団は予想外の飛翔ひしょうを見せて、少し遠くに置いていたはずの花瓶にぶつかり共倒れを果たしてくれた。その鮮烈せんれつな人生講義を体を起こしながら私は眺める。


『...あーあ』

『思ったよりとんだなぁ』


 白枝しらえだみたいな指を長くて細やかな長髪の中に滑り込ませて、そのまま手を止めた。私には考え事をする時にそうやって手持ちぶさたを誤魔化す癖がある。


 余計なアピール癖、行き過ぎた配慮の象徴。そう呼んでしまえる神経質さを伴うのが私であり、私を作り出した世間という名の象徴主義なんだろう。

 偏屈へんくつ根暗ねくらな私の本性に相変わらずの嫌気が差して、相変わらずのため息を漏らす。


 とはいえこれも笑顔の練習のようなもの。人が笑うためには、少なくとも自分一人の中に自分を飼いならす必要があることを、無垢で無知な私は知っているのだ。


 そう、私は無垢でありながら無知。だから、きっとあの花瓶がこれまでよりも不憫な目にあっていようと、それは私の潔癖さの前に許されるべきこと。


 そう考えれば私の足はようやくベットの下に広がる地面についていた。


『さて、視界低いなぁ』

『お二人さまはどうなってらっしゃるか』


 石畳でできた秒読みお散歩コースを歩いて、朝っぱらからもつれあう不憫に歩み寄る。ただでさえ小さな背丈を押し縮ませて様子を覗き込んでみれば、存外にも世界は平和なようだった。


 加害者であり、同時に救世主となった布団のおかげで幸いにも、被害者である土器でできた花瓶にはヒビ一つない。ただ、花瓶に飾っていた極限まで枯れ萎んだお気に入りの花はくしゃくしゃに砕け散っていた。


 もう何年飾り続けているのかも、誰からもらったのかも思い出せない綺麗な花。花の名前も分からなくなった花だけど。でたらめまじりに決められた花言葉なんていう存在価値まで思い出せないような花だけど。


 私はそれでもこの花のことを忘れたくなくていつまでもこの花を飾り続けていた。そんな自分をとても高慢だと思う。そして同時に大切に思える何かがあることに高揚感と一種の理性を感じていた。


 それも、もう終わったのだが。


『ま、いっか』

『どうせ忘れられないしね』


 淡白な声色で、満足げに布団をめくる。花瓶は無事でも、中に溜め込まれていた新鮮な水は固まっていてはくれなかったらしい。


『あ~あ、布団びちゃびちゃ』

『洗濯はまぁ~...いっか!』

『最近暑いし』


 もはや私にとって防寒具でもぼろ雑巾でもなくなったそれは、既に私の興味のうちにない。


 例えば帝国を侵略した将軍が皇帝の首をったところで皇帝の首を放り捨てるように、現代史における社会が成長よりも利益を重視するように、私も退化こそ人の道であることを重々承知している。


 そんな彼ら彼女らと私に大きな違いがあるとすれば、今の私は自由だ。


 片手間につまんでいた布切れを放り捨てた私は自由な足取りでどたどたと階段を駆け上がった。石畳でできた灯台の二階から、三階分ほどあがって最上階、偏光機へんこうきのある見晴らし部屋に向かって。


『今日こそは霧、晴れてたりしないかなぁ』


 描いた未来とは、どこまでもフィクションだ。頭の中の世界はどこまでいっても想像。想像は妄想でしかなくて、妄想は必ず現実にはならない。


 いつの日か私が抱いた現実論で、この理論を打ち破る現実には未だ出会ったことがない。それでも私が未来を妄想し、存在しえたその未来たちを食い破るのは、きっと私がロマンチストだからだ。


 前を向いて期待に胸を躍らせる。楽し気に笑う未来を想像して、きしみの酷い椅子の上で指をくるくると回す。


 そんな毎日が積み重なっていくのは私が妄想家であるからで、現実の仕組みっていうものが夢を持つ人間には残酷に牙をむくようにできているからだ。


 それでも霧が晴れる日は来るかもしれない。


 もしかしたら、私が夢見た明日の中で笑う日は来るのかもしれない。


 灯台守として、嫌いな現実に目を背け続ければきっと。


 誰にも否定されないから夢は叶うかもしれない。誰にも期待しないで済むから、誰にも騙されないで済むから、夢は夢のまま終わってくれるかもしれない。そんな理想はどこまでいってもフィクションだ。


 だから、今日も霧は晴れていない。


『だから』

『私はここでひとりきり』


 息を切らしながら呟いたこの独り言だって、案外いつもどおりの相変わらず。今日も私は霧の海、隔絶かくぜつされた魔境まきょうに佇む灯台で、澪導みおつくしを守るために笑うみたいだ。


 そんな気の遠くなる毎日を、私は気に入っている。


 何故ならこれは私が望んだ生き方だから。自分で選んだんだから、わがままは許されない。満足げな顔をして、毎日が楽しくて幸せで仕方ないって顔をして、誰も彼もを不幸にせず生きていかないといけない。


 もう私を否定する人も、認める人も、誰一人いないっていうのに。


 私はまだ人間に囚われている。人という名の洪水に押し潰されて息をする。自由なはずなのに、息苦しい。


 偏光器を動かせば、深くて濃い真っ白な霧は光を乱反射させて輝いた。まるで水滴一粒一粒が照らし出されて、一人一人の人生が明るいものになったみたいに喜んでいる。幸せになった一粒が目についた一粒に光を繋げて、幸せな連鎖が一本の道を作り出していく。


 いつも、この灯台で光を管理する時はそんなことを考える。


 だから私はこの光を幸福そのものだと思っていて、この岬を包み込む蒸気たちは漂い繋がる人生そのものだと思っている。


 きっとどれだけ寂しくても灯台守の仕事を放棄しないのは、本当に私がこの仕事を大好きだと思っているからなんだろう。


 それでも。


『それでも、まあ』

『退屈なのは変えたいなぁ』


 結局のところ偏光器のすぐそばで、船を導く仕事は専念する必要がない。何故ならこの岬にはまず間違いなく船なんて訪れないから。


 例えば、例えばの話だけれど。


 今世に世界中を旅して回る旅客船か海賊船が存在したとして、そんな私以上のロマンチストがいたとしてだ。一年を通して霧に包まれた、侵入すればその先何に見舞われるかも分からない海域かいいきに、果たして足を踏み入れようと思うかな。


 もしかしたら踏み入れば二度とは外に出られない迷霧かもしれない。もしかしたらその先は海神かいしんが人目から離れてくつろぎ眠るおぼろかもしれない。


 そもそも悪天候そのものだ。そんな場所に踏み入る勇猛果敢ゆうもうかかん冒険心強したかな船は、現代には残念ながら存在していない。

 精々が難破船や迷い船が流れ着く程度で、それも私がこの灯台で灯台守を始めてから一度しか出会ったことはないわけで。


 正直なところ私は灯台守として正常な仕事をする必要はなかった。


 なので満足がいくまで偏光器をいじり回して、今日も幸せをたくさん振り撒いたと自らの肯定感を充填すれば、私は一階の玄関まで一気に階段を駆け降りる。


 なんとなく、今日は鐘が鳴る気がしていたから。


 そして、私が玄関前に辿り着いて、スピリチュアルな自分の感性に小馬鹿な笑いをあげていると。


 鐘が鳴った。


 私が玄関に取り付けている、呼び鈴替わりの小さな小さな鐘だ。私は鐘の音をとても気に入っている。理由は分からない。ただなんとなく、鐘の音が好きだった。


 だから正直なところ鐘の音であれば、玄関先の鐘じゃなくても何でも好きだ。それでも、あの鐘の音だけは特別な意味があるから特別好きではある。


 あの鐘の音が鳴る時は、半分くらいこの灯台唯一の来客が訪れる時だから。もう半分は風が鐘を揺り動かしただけなんだけど、それでもワクワクする。


 勢いよく扉を開いて、結局誰もいなかったなんて喪失感も、私の心に温かさをもたらしてくれるから。どちらなのか分からない焦燥しょうそうが、私にはとても心地の良いものだった。


 だから今日も胸の高鳴りに顔をほころばせて、胸に手を当てながら扉の前に立つ。

 今日は彼が来てくれたんだろうか。それともただ潮風しおかぜが私の期待を弄んだだけなんだろうか。


 少し息を整えれば、どちらでも楽しめるだけの覚悟が決まった。胸に当てていた手を扉に伸ばして、答えを確かめる。


 力を込めれば...


『...ふふ』

『やあ!久しぶりだね旅人くん!』

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黒山羊岬の灯台守 タカツキ @bless_hutaba

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