コンプリート・アイ(獣人小説・BL)
@mino25
第1話
秋の涼しい風が吹く、こんな気持ちの良い夜に。
蒲団を頭から被って、荒く呼吸をする自分がいる。
ここに存在することが苦しくて仕方なくて。
眠れない夜に思い出すことと言えば。
魚を釣って見せた、はにかんだ君の笑顔。
今度出逢った時に君は、私に、何を言うだろう。
出来れば言葉ではなく、君のその歌で。
また、私を出迎えて欲しい。
[December,2010 winter Tokyo]
毎日の仕事を終えて、家に帰る。
家に帰った後はすぐにシャワーを浴び、蒲団に横になる。
そして眠る。最低10時間はたっぷりと。
冬に活動的に過ごすことは、熊人の私にとってあまり得意ではない。
出来ることならば、冬のこの時期は、何も考えずに眠っていたい。
しかし、そうは言っても働かなければ生きていけない。
ともかく眠いのだ。
毎日、毎日眠気と闘っている。
けれども、たまに眠れない日もやって来る。
そんな時、私は色々なことを考える。仕事のこと、将来のこと、今はもう遠くに行ってしまった両親のこと、友達のこと、そして……君のこともだ。
春の沖縄で出逢った君のことを、私は今でも忘れずに覚えているのだ。
沖縄に行って、また君に逢えるのであれば、私は貯金を全て叩くし、例え仕事を失っても構わない。君だけを頼りにして沖縄へと向かうだろう。
君は私のことを覚えてくれているのだろうか? そのことを考えると胸を締め付けられるような強い不安が私に襲い掛かる。
「君に忘れられてしまった自分ならば……」
必要がない……そこまでは口にしなかった。
「……眠たい……」
激しい眠気に襲われながら、私は店のメガネを拭いていた。毎朝の日課である。
「ウェイトンさん眠そうですね」
隣で同じく開店準備をしている狐人のロッグが私に話し掛ける。私の2年後輩のロッグはしかしながら、私よりも仕事が出来る。
「……ロッグ、私はすこぶる眠いよ。加工室で仮眠を取ってきても良いかな?」
「駄・目・で・す」
ロッグはメガネをディスプレイする手は止めずに、強い口調で私に言った。
「ロッグ……ひょっとしてこの前のことまだ根に持っているのかい?」
「根に持っているも何も……」
ロッグは呆れたような顔で続ける。
「午後の一番忙しい時にトイレ休憩に行って、そのまま個室トイレで寝ているなんて、信じられませんよ。おかげでこっちは仕事をひとりでやったんですからね」
「悪かった、悪かったロッグ。冬は熊人の習性で眠たくてね。埋め合わせはきちんとするから」
「期待せずに待っていますけどね。ともかく仕事なんだから、きっちりやって下さいね、きっちり」
「分かったよ、ロッグ。心を入れ替えて頑張るから」
私は在庫棚から新商品を取り出し並べる。ふむふむ……今月の新フレームは格好良いのが多そうじゃないか。売上が伸びると良いのだが……。
「そろそろ私も新しいメガネを買おうかな……」
私が愛用している銀縁メガネも少しくたびれて来ている。そろそろ買い替え時だな、と私は思った。社員割引だといくらぐらい安かっただろう?
獣人専門のメガネ店というのがあって、私はそこで働いている。人間と違って頭の形がそれぞれに異なる獣人においては、人間用のメガネではサイズがないといったことが頻繁に起きていた。また、パソコンが普及して近視に悩む獣人が増えたことも、獣人専門のメガネ店が誕生した大きな要因になっているのだろう。それに加えて最近はファッションとして獣人の間でメガネが密かに流行っているとも聞く。
まあ、そんな背景があり、獣人のためのメガネ店が出来たという訳である。仕事は大変だが、お客さんとの一対一の接客も出来るし、メガネを作る仕事も出来るし、色々なことをやってみたいという自分にとってこの仕事は向いているように感じた。
「今日はまずまず忙しかったですね」
ロッグがレジ点検をしながら、私に言う。
「確かに、そうだな。メガネの調整が難しいお客様もいたし。忙しかったかな」
「レジの誤差はありませんね。売上もまあまあかな」
ロッグにレシートを手渡され、私は電話をかける。本部に売上の報告をする必要があるのだ。
「もしもし、コンプリート・アイ、東京店のウェイトン・ダースですが、売上の報告をお願いします…………」
売上の報告が終わり、私は受話器を置いた。ふと視線をずらすと、几帳面なロッグの字で書かれたメモが受話器の横のデスクに貼ってあった。
『本部より 沖縄店新規オープンに伴い、東京店、北海道店からそれぞれ1人応援、新規オープンの立ち上げ業務、日程、12月27日から1月3日の8日間、詳細は後日のFAXにて』
沖縄……その言葉を目にして私の胸の鼓動は高鳴る。
君のことを、仕事中なのに考えてしまいそうになる。
「それは駄目だ……」
私は頭を切り替えて、ロッグに声をかけた。
「ロッグ」
「なんです」
「このメモは何かな?」
ロッグは一瞬メモを見て、それから私の顔を見て言った。
「見ての通りですよ。沖縄に新店がオープンするので、それの応援部隊です。各店から1人ずつ沖縄に出張という形ですね」
「それで?」
「それで、というのは?」
「ウチの店からは誰が行くのかな?」
「ああ、そのことですか。それはもう決まっています。沖縄に行くのはウェイトンさんです」
「……なんでもう決まっている訳?」
「その電話昨日あったんですよ、昨日ウェイトンさん休みだったので、皆で多数決にして決めちゃいました。ウェイトンさん、元旦は暇だ、と言っていたので」
「…………」
「まずかったですか?」
「否、それでいい……」
……沖縄……君と出逢って、そして別れた場所。あの春の想い出……1日たりとも忘れたことなどなかった。
「どうしたんですか、何か複雑な顔をして?」
ロッグが私の顔を覗き込む。
「なんでもない」
私は即答した。
8日間の沖縄出張。
あそこにまた、もう一度自分が行くなんて思ってもみなかった。
考えたことはあったが、何故か一歩を踏み出せずにいたのだ。
しかし、本当は、心の奥では。
私は沖縄で君と再会出来ることを、強く強く願っていたのだった。
1Kの自分の家に帰り着いた時に、自分の心がどうしようもなく波打っていることに気づいた。期待と不安、緊張と弛緩、様々な感情がせめぎあっている。
上着を脱いで、ネクタイを外す。息苦しさも少しだけほどける。
そのまま、シャワーを浴びる。ここは獣人専用のアパートなので、風呂やトイレは人間用よりも少し大きく作られている。
シャワーを浴びながら、やはり君のことを考えてしまった。君の顔が浮かび、君の歌が耳に響く。少し高めのビブラートが、いつものように私を高揚させる。高鳴る気持ちを押さえることが出来ない。
シャワーを浴び終えると、私は万年床になりつつある蒲団の上にあぐらをかいて座った。それでようやく少し落ち着くことが出来た。
「ヴァル……」
もし、ひとつ願いが叶うなら、やはり君に逢いたい。君に逢って君の声が聞きたい。君の歌が聴きたい。君の笑った顔が見たい。
3年前から止まってしまった想いが再び歩き出していることに気づく。沖縄に行って、仕事帰りに那覇の街を歩く。そして君に巡り逢う。そんな都合の良いストーリーを自分自身が作り出している。
「そんなこと、ある訳がないか……」
しかし、想像はどんどん膨らんでいく。想いが、止まらないのだ。この状況はまずい、と自分で感じ、蒲団にもぐりこんだ。
「早く寝なきゃな」
しかし、その言葉とは裏腹に、私は蒲団を出て旅行鞄を押入れから引っ張り出してしまった。カレンダーを見る。今日は12月18日、後1週間と少しで、私はまた沖縄に足を踏み入れる。
「仕事なんだから……仕事で行くんだ」
独り言が多い時は、頭の中で考えがまとまっていない証拠だと分かっている。分かっているから独り言は止まらない。
「……ヴァルがもう沖縄にいるかも分からないんだ」
ヴァルが写し出された想い出の写真。棚の上に飾ってある。君の……ヴァルらしい人懐っこい笑顔で、アイスクリームを頬張っている。
君は自分を「犬人らしい犬人だ」と表現した。確かにそうなのかもしれない。私は君の人懐っこさや、君の仕草、君の茶目っ気たっぷりの性格に心打たれてしまった。
そしてその瞬間から、私はもう何処にも行けなくなってしまった。沖縄で君と別れてから、私は生きる道に戸惑った。今までに感じたことのない不安に、私の体は晒された。
けれど……。
「それで良かった」
その不安は私に幸福感をもたらした。君の顔を頭の中で想い描くだけで、君の声を胸の中で響かせるだけで私は幸せな気持ちになることが出来た。不安は苦しかったが、それを許せるほどの見返りがあったのだ。
「ヴァル……君に逢いたい……」
私は知りたかった。たった3日足らずしか、同じ時を過ごしたことのない君が、こんなにもたくさんの感情を私に与えてくれた。君ともっと同じ時を過ごせたならば、私の体は……私の心はどうなってしまうのだろう、と。
やはり君のことを考えると、私は感傷的になってしまうのだ。
外からトラックの走る音が聞こえてくる。ここはあまり環境が良くない。
「沖縄に行きたい……」
私は旅行鞄に荷物を詰め込み、少しでも時が早く過ぎるようにと願いを込めて、蒲団にもう一度もぐりこんだ。
沖縄で君に逢えるとは思っていなかった。けれど、万が一の可能性というものを私は確信していたのだ。
万が一の一が、沖縄で必ず起こる、と。
沖縄のような柔らかい風が、一瞬だけ懐かしい匂いを帯びて、東京の1Kの部屋を吹き抜けた。
[newpage]
[December,2010 winter Okinawa]
飛行機が那覇の空港に到着し、沖縄の風を感じた時に、「ああ、私は沖縄にやって来たんだ」と強く実感した。春の沖縄と冬の沖縄では、風景も風も異なる部分があるだろうが、どんな形であれ、これが私の想い出の地、沖縄なのだ。
コンプリート・アイの新規店舗は国際通りの少し外れの方にあった。それでも観光客も含めてなかなかの集客力が期待出来ると、データがはじき出している。けれど、新規出店にはリスクも伴う。
私は空港から連絡通路を歩き、モノレールに乗り込んだ。新店の最寄り駅である牧志までは約16分、その間、3年前に使っていた沖縄旅行のガイドブックを取り出し、目を通した。3年間で変わってしまったもの、そして変わらないものがあるのだろう。私は君が「変わらないもの」の中に属していてくれれば良いと強く願った。
オフピークとは言え、モノレールの乗客にはカップルや家族連れの観光客が多くいた。3年前の私は暗い顔をしてこのモノレールに乗っていたのだ。そして、その日の夜に、私は君と出逢った。それは運命の出逢いと言っても差し支えないものだった。
モノレールが牧志駅に到着する。国際通りに近いので、何人かの乗客が私と一緒にモノレールを降りて行った。
新店に行くまでの間、沖縄店が成功しますように、と願いながら歩いた。そしてそれ以上にヴァルに出逢える奇跡を心の中で強く願った。……程なくして国際通りの外れに着く。
コンプリート・アイ沖縄店は丸太小屋を店舗に改造したような、カントリーな雰囲気を演出していた。店の中に入ると、店長、社員、アルバイト、従業員の皆が私を迎えてくれた。
メガネの入荷、品出し、検品、ディスプレイの構築、確認、清掃、プライス付け、パソコンの初期化に必要ソフトのインストール、機材の運び込み、アルバイトの接客マナー講習、やることはたくさんあった。
私は深夜まで、メガネと格闘していた。ホテルに帰り着いたのは深夜の1時だった。
「さすがに疲れたな……」
ビジネスホテルの小さなベッドに横たわり、私は目を閉じ、耳を澄ました。
君が今日もどこかで歌っているならば、私はこの耳でその歌声を捕えよう。ヴァル、君は今沖縄にいるのか? いるとしたら何処だ?
「ヴァル……」
体は疲れていたが、私は部屋を飛び出した。ヴァルを探したい。例えそれが徒労に終わったとしても、私にはこの沖縄で積極的に行動することが必要だった。それが使命のようにさえ思った。
私は深夜の那覇市を歩き回った。ヴァルと訪れた場所にも足を伸ばした。けれど、ヴァルは見つからなかった。当然と言えば当然の話だった。
明日も朝が早い。私は仕方なくホテルに帰って眠ることにした。
……ヴァルに逢いたい……。
ヴァルが歌っていた。国際通り、あの居酒屋のステージでヴァルは歌っていたのだ。
私は最初、ステージには目もくれず、酒を浴びるように飲んでいた。とても不機嫌な顔をしていたのだと思う。陽気な観光客に混じって、ひとり不機嫌な顔で酒を飲む。その行為がとても惨めなことだと私は分かっていた。けれどそれを止める事は出来なかった。
そんな時に、客席から歓声が上がった。私はその時に初めてステージを見た。小柄な獣人の少年……多分犬人だろう……三線を片手にステージに上がっていた。
「おいらはここで歌を歌わせてもらっている、ヴァルと言います。歌をこよなく愛する獣人です。皆さん、今日は、おいらの歌で少しでも沖縄のことを好きになって下さい」
ヴァルはそう言って、自己紹介をした。
照明がヴァルに向けられる。三線を鳴らして、ヴァルが歌を歌う。
「あっ…………」
最初のワンフレーズを聴いた時に、胸の中が色々な感情で一杯になった。知らずに鳥肌が立つ。
力強くありながら、それでいて優しい声。何か大きなものを丁寧に丸く包みこむような、柔らかさを持った歌声。
私はヴァルの歌の世界に入り込んでいた。その歌は、焦ることなくのんびりと自分を探して行こう、という内容の歌だった。
私は、当時、仕事で大きな失敗をして、自分にも、そしてこれからの未来にも希望が持てなかった。自分には何の価値もないのだと信じていた。
けれど、君の歌声を聴いて。
君が奏でるメロディを感じて。
私は、もう一度全てをやり直そうと、静かに決意したのだった。
「ヴァル……」
私は複雑な気持ちで目覚めを迎えた。
ヴァルの夢を見たのは久々なことだった。私は夢の中の感触に溺れて、まどろみから抜け出したくなかった。けれど、私には仕事が待っている。私は行かなくてはならなかった。
ワイシャツを着て、スラックスを穿く。今日はマスタード色のネクタイを選ぶ。自分のお気に入りのネクタイだ。
バッグを片手に、新店へと急ぐ。とは言え、歩いて20分程の場所のホテルに泊まっているから、東京でのラッシュ通勤とは比べられない程の楽さだ。やっぱり沖縄は良い。私は大きく伸びをした。このまま新店に異動になれば良いのに、と一瞬考えて、それは違うだろう、と訂正した。
新店では、昨日とさほど変わらない仕事をこなした。新店のメンバーは総勢12人、アルバイトの子達もなかなか一生懸命に頑張ってくれているようだ、社員ももちろん、それに負けない、それ以上の頑張りを見せている。私は彼らが羨ましかった。彼らは自分達の仕事に誇りを持って働いている。それが真正面から伝わってくる。
「私は……」
いつの頃からだろう、仕事に意味を持てなくなった。そこで得る賃金にも。表面上は確かに、普通に仕事をしているように仲間には見えるだろう。しかし、どこか私は満たされない思いで仕事を行っていた。
本当のことを言えば、生きることが苦しかった。
仕事にも目標を持つことが出来ない。毎日の生活はメリーゴーランドのようだ。何処にも行けず、新しい風景を見ることもなく、同じ場所をただぐるぐると回っている。未来の希望もない。
このままくたびれて、年を取り死んでしまうのならば、いっそ一花咲かせて、ぱっと散りたい……。
「いけない、いけない……」
なぜ私はこんなことを考えているのだろう。仕事に集中するんだ。
「……ウェイトンさん、ウェイトンさん」
我に返り、呼ばれて振り返る。アルバイトで私と同じ熊人のデューが少し神妙な顔をして、私を見つめていた。
「どうしたんだい、デュー?」
私はデューに声を掛けた。デューは20歳の学生アルバイトだ。少し小柄な熊人の彼は、真面目な性格で人当たりも良いが、どうにも不器用な所があり、目が離せない所がある。デューはメガネが昔から好きで、この店に入ったのだと言う。私はデューに、不器用だった昔の自分自身を重ねていた。アルバイトスタッフでは一番気になる存在だった。
「……実はウェイトンさんにご相談したいことがあるんです」
そうデューは切り出した。
「相談したいこと? ああ、いいよ、私で良ければ」
デューにそう答えると、デューは神妙な顔を少し崩して、笑顔を見せた。
「良かった……」
「それで、相談というのは? ここでは話しにくいことかな?」
今、私とデューはメガネに値札とタグを付けている所だった。同じ作業をしている従業員はおらず、他の従業員はそれぞれに異なった仕事をしていた。
「ここだとちょっと……少し長い話になるかもしれないんです」
デューは周りを見渡し、小声でそう言った。
「そうか……それじゃあ、もうすぐ昼休みだし、私と一緒に食事でも行こうか?」
「……いいんですか?」
申し訳なさそうな顔をするデュー。……デューはまだ分かっていないのかもしれない。私のような者にとって、人から相談されるということは迷惑ではない、むしろ嬉しいことなのだ。何も持たない私は、人の役に立つことでようやく自分自身の価値を認める。私には価値がない。私はいつもそんなぽっかりとした感情を心の中に隠しながら生きているのだ。
だから……だから、私は、私にたくさんの価値を与えてくれたヴァルを今でも神様のように思っている。私はまた、自分自身の価値を取り戻すことが出来るのだろうか……?
いつの日か、君を取り戻して、私は私のことをもっと許してやりたい。そして、君をもう一度、愛したい……。
沖縄に来たなら、美味しい沖縄料理が食べたい。
私がそう言うと、デューは少し考えて、国際通りの一軒の店に私を案内してくれた。
「ここはチャンプルーが美味しいんですよ」
そう言われて入ったお店は、大衆食堂といった感じで活気のある店だった。私はその雰囲気を好ましく思った。
私は、そこでフーチャンプルーという料理を初めて口にした。ゴーヤチャンプルは食べたことがあったが、他にもチャンプルーと名のつくものがあることは知らなかった。3年前の沖縄では、ヴァルに会うまでは何を食べても砂のような味しかしなかった。もしかしたらその時にフーチャンプルーを食べていたのかもしれない。けれど、その光景、その味は思い出せなかった。
麩を使ったこの料理は麩のもちもちとした食感と味がとても素晴らしかった。
「今度家に帰ったら作ってみるよ」
私がそう言うと、デューは笑顔で頷いた。そして、その後に寂しそうな顔をした。少しの沈黙の後、デューは言葉を口にした。
「ウェイトンさんは良いですね。そうやっていつも楽しそうで、落ち着いていて」
「……そうかな、デューにはそういう風に見えるかい?」
私が楽しそう? 私が落ち着いている? 私は予想もつかなかったデューの言葉に戸惑いながらも、何か、デューの言いたいことが少し分かったような気がして、あえて、ゆっくりと落ち着いて返答を返した。
「ウェイトンさんは、仕事も出来るし、いつも笑っているし、怒っているところも落ち込んでいる所も見せない。そんな人に僕には見えるんです」
「おいおい、デュー。私と君とは昨日から仕事を始めたばかりじゃないか。私を買いかぶりすぎているよ」
私は苦笑して言った。
「すみません……」
「否、謝ることはないんだ。ただ、私だって毎日のように落ち込むし、元気のない日の方が元気のある日よりも多いくらいで、自分のことがつくづく嫌になるよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。東京店では仕事の面でも後輩に追い越されて大変なんだ。もう必死でやっているよ。プライベートでは恋人もいないし、友達も少ないし、寂しい毎日だよ」
私は再び苦笑した。
「ウェイトンさんみたいな人でもそんなことがあるんですね……」
「ああ、もちろん」
私は頷いた。
「僕は……僕が相談したかったことは、仕事のことなんです」
デューはその言葉を口にして更に早口で続けた。
「仕事を辞めようと思っているんです」
「仕事を辞める……」
あまり軽い話ではないというのが、デューの様子からも分かった。だから私は慎重に会話をしようと思った。
「仕事を辞めたい……か。まだたったの2日目だけれど、もう辛くなってしまったのかい?」
しばらく沈黙があった。私はデューの返答をじっくりと待った。
デューが私の目を見た。真剣に、今にでも泣き出しそうに。
「……面接に受かって、昨日店に来た時から、僕なんかじゃ駄目なんじゃないかって、そう思ってました。周りは皆仕事が出来そうな人達で、格好良くて、僕は要領も悪いし、アルバイトの経験もほとんどないし、人付き合いも苦手で……」
「そうか……君も色々と悩みを抱えているんだね」
私は目の前のデューを見た。椅子に座り小さく縮こまっているデューの姿。それがかつての自分自身と重なるように思えた。私はデューにどんな言葉を掛けてやればよいか、考えた。
「……デュー、私は君のことをまだ1日と半分しか見ていない。だから、君の辛さも分からなければ、君の可能性だって分からない」
「はい……」
「メガネ屋は接客業だ。君はまだお客さんと関係さえ持っていない。周りと自分を比べるのは当然だが、誰もが自分を良く見せようと、心の中では必死にあがいていたりするものさ。君と同じ悩みを抱えて、心の奥底では縮こまっているスタッフもいるかもしれない」
「そうでしょうか……?」
自分の言葉がデューに届いているのか? 自問自答しながら私は言葉を続ける。
「君はもう少し、図々しくやってごらん。そうするのは難しいかもしれないけれど、自分のペースで仕事をして行けばいい。まだ開店前だ。まだ失敗さえしていない。何か大きな失敗をして、何か重大なことが起こって、それからでも考えるのは遅くないだろう? 何かが起こるまではマイペースでいいんだ。自分のペースで」
「自分のペースで……」
「そうだ。君は仕事が出来ないことを気にしているのかもしれない。対人関係にも悩んでいるのかもしれない。でも、君には良い所があるかもしれない。可能性を捨てては駄目だ。たった1日や2日で人の可能性は計れない。同じ熊人として、そして……上手くは言えないが私は君に好感を持っている。君の可能性も信じられるような気がするんだよ」
「可能性……」
「そう、せっかく縁が合ってこうして仕事を見つけたんだ。何もする前から、何も起きる前から諦めてしまっては勿体無いじゃないか。私も君に協力する、仕事のことでなら1週間だけだがフォローも出来る。私に頼ってくれていいんだ。アルバイトスタッフが2日で辞めたとなったら社員の私も困ってしまうさ。同じ熊人としても残念に思ってしまうぞ。アルバイトで熊人は君だけだからな」
私は笑顔で言った。デューもその言葉にようやく笑顔を見せてくれた。
「明日はタコライスが食べてみたいな。良い店紹介してくれるかな? 明日も一緒に食事に行こう。そして愚痴でもなんでも私に話してくれ。仕事の話でもなんでもいいから」
「はい、ありがとうございます!」
デューは深々と頭を下げた。真面目な子だ……。私はデューにやはり好感を持っているのだろう。
可能性がある……か。デューには可能性がある。ならば私にはどんな可能性があるのだろう? 何もないとは思いたくなかった。けれど何かあるのだとも思えなかった。
自分の言葉を自分自身に向けてみる。その言葉は何だか嘘っぽくも思えた。デューには別の言葉を掛けた方が良かったのだろうか。私は私自身を諦めている。もう何も可能性など残っていないのだ。今すぐにだって仕事を辞めてしまいたい。生きることさえ諦めてしまっても、良い。私はきっとデューより臆病で、そして……弱い。
私は全てを無くしてしまった。私は全てを放棄してしまった。
今の私は抜け殻だ。
ヴァルに逢って、私が持っていた何かを取り戻したい。不安で苦しくて眠れない時間はもう欲しくない。そして強い眠気にも負けないような、高鳴る胸の鼓動を取り戻したい。勝手な想いなのは、十分分かっている。けれど……。
店から外に出ると、雨が、降っていた。
……ヴァルも雨が好きだった。私は心の中で呟いた。
[newpage]
[December,2010 winter Okinawa]
沖縄出張での4日間が過ぎた。今日は12月30日。新店オープンまで後2日だ。
朝起きて沖縄店に出勤し、追い込みの仕事を行う。昼休みにはデューと一緒に食事を食べる。そして仕事終わりにはヴァルを見つけるために那覇市をくまなく歩いて探す。
それが沖縄での行動のパターンになっていた。
……けれど、成果は上がらなかった。
私は半ば諦めかけていた。ヴァルに逢うことはもう出来ないのではないかと。
「ヴァルに逢うことはもう出来ない」
言葉にすると、心の中が凍らされたように冷たくなる。
このままヴァルに逢えずにいたら、東京に戻った私は、酷い精神症状に悩まされることだろう。
あの日のヴァルの笑顔。それだけを支えにして私は生きてきた。
もしも、それが無くなってしまったら……。
私が私である意味は無くなってしまうのだろう。
「ヴァルに逢いたい」
主要な民謡居酒屋やライブハウスを回ったがヴァルの歌声は見つからなかった。
その内に、心の中で寂しさが募ってくるのが自分でも分かった。
ずっとずっとひとりで暮らしてきた。だから私はひとりぼっちが当たり前のことだと思っていた。けれどヴァルに出逢って、1人よりも2人の方が楽しいということを知った。
「逢いたい」
道で空に語りかけるように呟いた。
ヴァルに対する「逢いたい」を何度も何度も繰り返した。
結局昨日までと同じようにヴァルを見つけることは出来なかった。
私は落胆してホテルに戻った。
ホテルに戻ると、ロビーのソファに見知った顔があった。
少し小柄な熊人がソファに縮こまって座っていた。
デューだった。
「デューじゃないか。どうしたんだ、こんな所で?」
デューは私の顔を見て、一瞬緊張の表情を見せた。しかしすぐにいつもの調子に戻ったようだった。少し神妙な顔をして、少し遠慮がちに私を見る。
「ウェイトンさん、こんな時間までお仕事なさっていたんですか?」
「うん……まあ色々と。沖縄の街を歩いていたんだ」
嘘をつくのはあまり上手ではない。口がどうしても早くなってしまう。
「でも会えて良かった。ウェイトンさん今日お誕生日でしたよね。これ沖縄店の皆からのプレゼントです」
そう言うとデューは手に持っていたバスケットを私に差し出した。誕生日……私はその事実をすっかり忘れていた。私は28歳になったのだ。
「中を見てみて下さい」
バスケットの中には赤ワインが入っていた。高そうなワインだな、とすぐに分かった。しかし私がワイン好きだと誰が知っていたのだろう? 誰にもそんなこと話した記憶はないし……。
「驚きましたか?」
デューはそう言うと、少し遠慮がちに笑って見せた。……ヴァルの笑顔とは違うが、素敵な笑顔だな、と私は思った。
「実は昨日、東京店のロッグさんから電話があったんです。それで今日がウェイトンさんの誕生日で、ワインでもあげたら喜ぶだろうって、教えてくれたんです」
「そうだったのか……」
ロッグの奴、余計なことするなあ、と思いながらも、口元がほころんでしまう。私は大のワイン好きだ。
「今日、本当は仕事が終わってから直ぐに渡すはずだったんですが、忙しくて皆うっかりしていたんです。それで、僕が届けることに。でもウェイトンさんこんな時間まで街を歩いていたんですか? 観光ですか?」
自分より若い獣人から真っ直ぐな質問をぶつけられたら、こちらも真っ直ぐに答えたくなってしまう。私にはそんな所がある。
「人を探しているんだ」
「人を?」
「そうなんだ。良かったらその話も含めて、私の部屋で少しワインでも飲まないか? 待ってもらったお詫びも含めて」
「……ウェイトンさんが宜しければご一緒したいです。本当にいいんですか?」
「もちろん」
私とデューはホテルの部屋へと向かった。カギを空け、デューを部屋の中へ招き入れた。
「いよいよ後2日でオープンですね」
ビジネスホテルの安いグラスにワインを注ぎながら、デューは言った。私はデューを小さな椅子に座らせ、自分はベッドの端に座った。
「そうだな、考えるとあっという間だった。これからはもっと忙しくなるかなあ」
私は笑って乾杯をした。少し甘めのワインが喉を心地よく通り抜ける。
「お誕生日おめでとうございます」
デューはワインを一口飲み、私に言葉を掛けてくれた。
誰かと一緒に誕生日を迎えるなんて、随分久々な気がする……。くすぐったいような照れ臭いような、そんな感覚があった。
「ありがとう」
私は笑って答えた。
「私はもう今日で28だよ。もうすっかりおじさんだな」
「そんなことないですよ」
デューは真面目な顔で私に言った。デューらしい真面目な語り口で私はつい笑ってしまった。
話は仕事の話になった。
「デューも大分仕事が出来るようになってきたじゃないか、私が心配する必要はなかったのかもしれないな」
「……そんなことないです。ウェイトンさんがいなかったら、僕はここまで頑張れなかったです」
「そうか……嬉しいことを言ってくれるね」
デューは少しずつその可能性を広げていた。デューはきっとオープンしてからも良い仕事が出来る、私はデューと4日間を過ごして、直感的にそう感じていた。
「お客さんと接するのはやはり緊張しそうかい?」
私は初めて店に立った頃のことを思い出しながらデューに尋ねた。
「やっぱり緊張します。僕、アドリブとかきかなくて、調光レンズとかカラーレンズのこととか、色んな説明もマニュアル通りにしか出来なくて……」
「それは慣れていけば何とかなるものさ。確かに難しいお客様はいらっしゃるけれどね。意外と何とかなるものなんだよ。経験をつめば、相手に合わせた接客が出来る。今のデューに必要なのは経験の積み重ねかな」
「はい、僕もそう思います。色々経験して、お客様に満足してもらえるように頑張りたいです!」
デューは真っ直ぐな眼差しで私を見つめてくる。その視線に一瞬どきりとした。
ヴァルの、眼差しを思い出したからだ。
デューとは対照的なリラックスした眼差し。対照的だからこそ、くっきりと鮮やかに思い出した。何故だろう……涙が滲んでくる。
「どうかしましたか……?」
「否……なんでもない」
沈黙が流れた。私はそっと涙をぬぐった。デューにヴァルのことを話そうと思ったが、上手く話せそうになかった。だから、その輪郭だけをなぞるような言葉になった。
「人を探しているんだ」
「……そう言ってましたよね」
「3年前に、沖縄に1人で旅行に来たんだ。その時に会った犬人なんだ」
「知り合いですか?」
「否、その時に初めて会った。3日間だけ、友達として一緒に過ごしてくれたんだよ」
「友達ですか」
……友達……? そんなはずはない。ヴァルと私は友達とは違う何かで結び合っていた。その関係を何故だろう、言葉では上手く言い表せない。私の思い込みではない、そう信じたかった。ヴァルと私には何か特別な……絆のようなものがあったのだ。否、絆という言葉も正確な言葉ではないのかもしれない。
だから私は嘘をついた。
「大切な友達なんだ」
「……そうなんですか……。でも何か手がかりとかあるんですか?」
デューは勘の強い子だ。私の様子を見て深入りを避けてくれたのだろう。私もその流れに乗ろうと思った。
「手がかりは何もなくてね。沖縄にいるかどうかも分からないんだよ」
私は苦笑した。
「その人に会えるといいですね。可能性は低いかもしれないけれど、会えるといいですよね」
「ありがとう。偶然をね、万が一の偶然を私は信じているんだよ。まだ諦めていないんだ。後4日、残っているからね」
諦めていない……。まだヴァルに逢うことを諦めていない? 感情がいくつも、その瞬間ごとに変わっている? 今日の帰り道、私はヴァルに会うことを半ば諦めていたのに。
今はヴァルに執着している。ヴァルにすがりつきたい。ヴァルの小さな体に顔を埋めて子どものように泣きじゃくってしまいたい。私にとって、本当に、ヴァルという存在は何を意味しているのだろう。
ヴァルのことを考え始めてから、1人でその想いにふけりたくなってしまった。正直に言えばデューのことが邪魔になった。
だから、私はデューに告げた。
「そろそろ時間は大丈夫かな? 私になんか付き合わせてしまって悪かったね。プレゼント、デューの気持ち、本当に嬉しかったよ。ありがとう」
私はずるくて、卑怯で、自分勝手な獣人だ。
「いいえ、こちらこそ、何か押しかけてしまったみたいですみませんでした。ワインとっても美味しかったです。普段はお酒は飲まないんですけどね」
デューははにかむように笑った。そして席を立った。
「お誕生日、本当におめでとうございます」
私は本当に自分勝手な獣人だ。
「それでは失礼します」
デューが去り、ドアが閉まると同時に、私はヴァルとの記憶に心を委ねた。
……誕生日も、ワインも、仕事も、本当は何もいらない。
ただヴァルと触れ合えれば、それだけで、いい。
[newpage]
[March,2007 spring Okinawa]
南風に吹かれて、ヴァルの毛が揺らされた。ヴァルは真っ青な海に顔を埋めて、顔を洗った。そしてぶるぶると頭を振った。水飛沫が私に降り注ぐ。私は飛沫を浴びて声を立てて笑った。ヴァルも笑っていた。
「夏の海とは違うけど、春の海もいいと思っているんだ、おいら。何かさ、涼しくて気持ちいいしさ」
ヴァルは器用に犬掻きをして、少し先の方まで泳いで行った。
「ウェイトンさんも来なよ! 気持ちいいよ~!」
大声を上げて、手を振り呼びかける。私はヴァルとは違い水着を用意していなかった。半袖のシャツにジーンズ、とても泳げる格好ではない。
「ここなら足が着くからその格好でも大丈夫だよ! 早く来てウェイトンさん!!」
けれどヴァルは私に呼びかける。私は苦笑して、靴と靴下を脱ぎ捨てた。ヴァルの声に導かれるように私は海の中に入っていった。今日は春にしてはとても暖かい。水温も私が思っていたよりも低くはなかった。
「……うん、何か、いい……」
私はヴァルに近付きながら呟いた。その声がヴァルに届いたかどうかは分からない。
気持ち良い……。そう感じている? この私が? そんな感覚を私はいつの頃から忘れていたのだろう。ずっとずっと遠い昔に忘れた感覚のようだった気がした。私の感情は子どもの頃からずっと平板だった。嬉しさも楽しさ、気持ち良さも、どこか遠い存在のように感じていたのだ。そこには奥行きというものがなかった。歳を重ねてもその平板さはほとんど変わることがなかった。
皆が楽しそうだから、笑う。
皆が悲しそうだから、泣く。
感情を他人に任せていた。他人に委ねていた。
そして独りになると、心には何も、全てがなかった。私はそんな時間の大半を眠ることで費やした。眠ると何も考えない、何も感じない自分が正当化される。そんな風に考えていた。
思えば沖縄に来てから何かが少しずつ変わっていたのだ。私は沖縄で不機嫌という感情を自分のものにした。苛立ちを自分のものにした。それは決して喜ばしい感情ではない。けれど何かの感情を自分のものにする、獲得する、そのことが今まではなかったのだ。全くなかったのだ。
そして……。
そして、私はヴァルに出逢った。
ヴァルの笑顔を見て、ヴァルの歌声を聴いて、私の中に感情が生まれた。どこまでも広がって行きそうな、大声を上げてしまいそうな……強くて静かで、けれど、どこか猛々しい感情が生まれた。
私は涙を流した。
静かに涙が流れた。
私にも「何か」があったのだ。何かとは分からない何か。「何か」が、私の中にもあったのだ。
私は、居酒屋のステージが終わると同時に、ヴァルに話し掛けた。興奮もしていたのだと思う。その一方でこの獣人と絶対に話をしなければならない、そう理知的にも感じていた。
ヴァルは私を、近くの海に誘った。「明日は暇だから遊ぶのなんてどうかなあ」……まるで、同じ年代の親しい友人に誘いかけるような口調で。
「ああ……」
私は自然と返事を返していた。
2人とも車の運転が出来なかった。だから、那覇市内の近くのビーチにヴァルは私を誘った。
そして私の新しい、感情を持った熊人としての生活が始まったのだった。
沖まで来た私に、ヴァルは水をかけ続ける。ヴァルは「はははっ」と笑う。私も笑う。私はヴァルの小柄な体を掴まえた。体格差はかなりある。私はヴァルを持ち上げて、海に投げるような素振りを見せた。
「ウェイトンさん、止めてよ~!」
言葉ではそう言っていても、ヴァルに私の行動を拒むような、そんな響きは感じられない。私はヴァルを高々と持ち上げて、海の中に投げ込んだ。ヴァルが海に沈む。今度は私が「はははっ」と笑った。
「やったな!」
今度はヴァルが私の足を掴み、私を倒した。2人で海に潜る格好になる。私はヴァルと一緒に、海の中で笑いあった。言葉を交わさなくても、伝わる感情というものがあるのだと知った。
私とヴァルは海で戯れあった。まるで幼い子どものように。
やがて、春の夕焼けが2人を包んだ。
私とヴァルはいつまでもいつまでもじゃれあっていた。
くすぐったいような、自然と笑みがこぼれてしまうような、そんな感覚だった。時間がこのまま止まってくれればいいと願った。
いつまでも。
いつまでも。
いつまでも……。
私はこの自由に開放された心と体で。
ヴァルといつまでも遊んでいたかった。
ヴァルの眼差しを感じていたかった。
ただ、ヴァルと一緒にいたかった。
広がっていく世界、夕焼けの赤い空。春の海、青い風。
そんな全ての風景を追い風にして、私はどこかに落としてしまった私を、最初から何もなかった私を。
まだ何も分からないけれど、ヴァルと共に時間を共有することによって。
ヴァルと何かを……形のない何かを、創り上げよう、と。
心に誓った。
「明日も遊ぼう」
私はヴァルに告げた。深く息を吸い込み、吐き出した。
「いいよ……おいらもウェイトンさんといると楽しいし」
ヴァルと私は笑顔で頷きあった。
浜辺で2人、並んで座った。
「何だ、ヴァル、魚を捕まえたのかい?」
ヴァルの手に小さな青い魚が握られていた。東京では見たことのないような、不思議な色の魚だ。虹のようにきらきらと、色々な色が揺れては光る。
「捕まえたんじゃないよ、おいらが釣ったんだ」
「釣り道具なんか持っていなかったじゃないか」
「あるよ、おいらの釣り道具」
「どこに?」
「ここにさ」
ヴァルは自分の尻尾を振って見せた。
「尻尾で魚をおびき寄せるんだ。おいらにしか出来ない。得意技さ」
「……凄いな、どんな風に尻尾を揺らすんだい」
ヴァルは立ち上がった。
「こうさ」
ヴァルは器用に、上下左右に尻尾を揺り動かした。ゆっくりと流れるように。
私はそんなヴァルの姿をどこかぼんやりと、けれども真剣に見つめていた。
春の暖かい風が2人を包むように通り過ぎた。
ヴァルの尻尾がヴァルの意思と、ヴァルの意図しない春の風によって、複雑に滑らかに、そして……いとおしく揺れる。
「……こうやっておいらは魚を釣るんだ。こうやってみるとちょっと恥ずかしいけどね」
ヴァルははにかんで笑った。
嬉しそうなくすぐったそうなその笑顔。
はにかんだ、少し恥ずかしそうな、少し嬉しそうな、照れたような笑顔というものは、何故、こんなにも素敵なのだろう。
「素敵だ。……何て綺麗なんだ……」
「ウェイトンさん?」
「ヴァル!」
私はヴァルを、この手で、熊人のこの大きな両腕で、抱きしめた。
そしてヴァルの頭を何度も撫でた。
ヴァルの頭を撫でることによって、私は自分の頭も撫でてやった。ヴァルを自分の分身のように感じた。
そんな体験は、生まれて初めてだった。
「ヴァル……すまない……」
私は震えた声で言った。……声を……震わさずにはいられなかった。
「私のことはウェイトンと呼んでくれないか」
「……ウェイトン……」
ヴァルははにかみ、微笑んで私の名前を呼んでくれた。
「それでいい……。それが……いいんだ」
私はヴァルをもう一度強く抱きしめた。
「痛いよ、ウェイトンさん……じゃないね……ウェイトン」
ヴァルに名前を呼んでもらって、私は本当の私を取り戻したような気がした。ウェイトン・ダースという熊人が確かにここに存在しているとヴァルに証明してもらった。
太陽が沈み、闇が少しずつ訪れる。いつか世界はまた、暗闇に覆われてしまうのかもしれない。けれど、そんな暗い闇を跳ね返すような、小さな奇跡が。小さな小さな奇跡が。沖縄の、那覇のビーチで、小さく小さく……降り注いだ。
小柄な犬人に想いを託して。
[newpage]
[December,2010 winter Okinawa]
いよいよ、明日はコンプリート・アイ沖縄店のオープン日だ。元旦から大々的に初売りをする。明日の新聞には大量のチラシが投入されることになっている。チラシのデザインは社員が中心となって考えた。私はキャッチコピーを考えた。「クリアで完璧な視界を約束します。獣人だけにしか持ち得ない、ファッション性。野性的、理知的、全てのニーズに対応します。ぜひご来店して、コンプリート・アイのメガネをどうぞ心ゆくまでお試しください」
価格設定も元旦から1月3日までは値引きを行うこと、カラーレンズのオプション加工の値段を無料にすることが、会議で決められた。
元旦からの3日間が沖縄店の勝負だ。私達はそう考えていた。
今日はアルバイトの接客マナーの最終チェックを行った。メガネ屋の接客はなかなかに難しい。あまりお客様に声を掛けすぎると、お客様にとってメガネ選びがしづらくなってしまう。そうかと言って、どのメガネにしようかと悩んでいるお客様に適切なアドバイスを行わなければ購入の機会を失ってしまう。そこには間、タイミングが非常に重要なポイントになってくる。アルバイトには二人一組になってもらって、それぞれ店員の立場、お客様の立場を体験してもらうことにした。
「自分にどのメガネが似合うのか分からないお客様には、何本か掛け比べを行ってもらって、段々とそのお客様の好みを店員が把握していくことが大事になってきます。それとお客様の頭の形、獣毛の色とフレームの形状、カラーには似合いやすい色、似合いやすい形がある程度存在します。接客マニュアルを今日の夜にもう一度確認しておいてください…………」
私は講習を行いながら、デューの様子をちらりと見た。一生懸命に頑張っている。アルバイトの中でも最も年下で経験のないデューは、それでも、自分の知識をフル回転させて店員役を務めている。
(頑張れ……)
私は心の中で、呟いた。
デューを見ていると何故だか私は昔の自分を思い出す。不器用で、けれども一生懸命だった自分自身の姿。
それは今の私にはないものだった。
今の私が放棄してしまったことだった。
デューは以前言った。「ウェイトンさんは落ち着いている」と。
確かにそうかもしれない。私は感情の波を押さえて仕事をしていた。仕事を敢えて平坦に行った。そこには熱い情熱というものがなくなっていた。歳を取っていくということは情熱を失っていくということなのだろうか。それとも私だけがそうなのだろうか。
ヴァルに出逢って私はたくさんの感情を手に入れた。けれどその感情は仕事には活きていなかった。私は自分をごまかすように仕事を行っていたのだった。
ヴァルに出逢って私は、仕事より、何よりも大事なものを見つけてしまった。ヴァルは幼いが、何か言い表せぬ包容力のようなものがある。それに包まれてしまうのであれば、私は他には何もいらない。
……本当に何もいらなかった。
「ウェイトンさん、どうかしましたか」
我に返り、目の前に座っているデューを見た。
「ソーキそば、伸びちゃいますよ」
そうだ私はデューと食事をしていたのだ。上の空になっていた。ヴァルのことをまた考えてしまったせいだ
「仕事に少し疲れてしまったのかな。空想していたよ」
「……この間話していた犬人さんのことですか」
デューの鋭い勘は、今日は遠慮することなく私に向けられた。
私は少し迷ったが答えた。
「そうだよ。彼のことを考えていたんだ。彼が私にとってどれほど大切な存在だったのかを考えていたんだよ」
「でも、まだ、会えていないんですよね」
「ああ……」
「会える可能性、本当にあるんですか?」
何故かデューは少し怒ったような口調で私に言葉を向けた。
いつものデューとは少し違う気がする……。私にはそんな風に思えた。
「会えると……思う。私はそう信じている」
実際にはヴァルと出逢う可能性は絶望的だった。それでも私は諦めていなかった。
「ウェイトンさんはその人に会ってどうするつもりなんですか?」
「分からない。大切な友人だからね。会って話をしたい。ただそれだけなんだよ」
「本当にそれだけ……ですか?」
最初は強く、言葉の最後はデューのいつもの遠慮がちな口調で。
「……それだけ……だよ」
私はまた嘘をついた。
「嘘でしょう」
切り替えされた。デューは私を真剣に見つめて言った。怒っている……? 否違う。デューは寂しそうな顔をしている。
「ウェイトンさんはその人を愛してしまったんじゃないんですか?」
「デュー……」
「僕は……僕には分かります。ウェイトンさんがどれほどその人のことを想っているかどうかが」
「デュー……私は」
「なんで、自分の気持ちを隠すんですか。もっと……もっと正直になれば良いじゃないですか。そうすれば僕だって……」
デューは息を大きく吸い、吐き出した。
どこかで見た光景。
どこかで感じた呼吸。
どこだっただろう……。
デューは一度口をきつく結んだ。何かを決意した表情。熊人の厳かな表情がデューにも備わっていた。
「僕は、ウェイトンさんのことが好きです。仕事の先輩としてではなく、熊人として、好きになっています。恋をして、います」
デューが何を言っているのかしばらく理解出来なかった。
「今のウェイトンさんは逃げているだけです。その想い出に。僕は今でもウェイトンさんの側に寄り添うことが出来ます。それではいけませんか?」
感情的になっていた。あのデューが、私に対して感情的になっている。
私は、何も言葉を返すことが出来なかった。デューの言葉を嬉しいとも、嬉しくないとも感じられなかった。
感情が昂ぶっているのがデュー自身にも分かったのだろう。少し声を落として、呼吸を整えて、またいつもの調子に戻そうと必死になっている。
「すみません……こんな形で想いを伝えてしまって。本当にすみません」
私にはまだデューにかける言葉が見つけられなかった。
「僕にとっても時間がなかったんです。ウェイトンさんは後3日で沖縄からいなくなってしまう。それは僕にとって本当に苦しいことなんです」
デューは真っ直ぐに私を見た。
「願いが叶うなんて思っていません。ただウェイトンさんに僕の気持ちを伝えたかったんです。迷惑だということは本当に分かっています。……すみません。でも……伝えられずにはいられなかったんです」
……分かるよ……私もヴァルに対して伝えたかったことはそれだから。たったひとつそれだけだったから。でも今はその気持ちをデューに伝えることが出来ない。
ヴァルのはにかんだ笑顔がぱっと頭に浮かんだ。桜の花びらが風によって散らされてしまう一瞬のような、そんな儚げで、けれど力強い記憶達。
考えが……変わった。……伝えよう。
「……ヴァルに好きだと伝えたかった。私はヴァルのことを愛していたんだよ。たった3日でも、それが永遠に感じられる瞬間もある。私はただヴァルに愛していると伝えたかった。その胸に顔を埋めて、何もかも許して欲しかった」
デューはしばらくの間黙っていた。私も黙っていた。
昼休みはそんなに長くない。それが良い事なのか悪いことなのかは分からない。
「……ウェイトンさんの本当の気持ちが聞けて良かった。それだけでも、僕は、本当に、満足です」
デューは一言一言を区切るように言った。
「今日のことは忘れてください。……そしてウェイトンさんはその彼のことを絶対に見つけ出してください。そして想いを伝えてください。それが僕の願いです」
デューは小さく笑顔を見せた。デューの力強い言葉が私に響く。
「……ヴァルを必ず見つける。約束する。私に言えるのは、今はそれだけだから」
「……ウェイトンさん、最後にひとつだけ」
デューは小さく自分を納得させるように言葉を発した。
「僕はまだまだ若造ですけど、運命の出逢いというのは本当に何かのタイミングで、本当に小さな小さな確率で起こるものだと思うんです。その機会を逃しちゃ駄目だと思うんです……逃さないで下さい。僕はウェイトンさんが好きです。そしてその想いは今日で終わります。僕の言葉をそれだけ覚えていて欲しいんです」
デューは深々と頭を下げた。
「生意気なことを言ってすみませんでした。後3日、仕事の先輩として、僕に付き合ってくれたら嬉しいです。本当に……すみませんでした」
デューは席を立った。私はデューに言葉を掛けることはしなかった。
私は……。
私は……。
デューの気持ちに応えることはきっと出来ない。
ヴァルに想いを伝えなければならない。自分の感情からもう逃げるわけにはいかない。
……ヴァル、君は何処にいる?……。
何処で何をしている? 何を感じながら生きている? あのはにかんだ笑顔を、私にとって永遠の笑顔を君はまだ持っているのか?
私は私の感情に決着をつけなければいけない。
必ずヴァルを……探し出す。
[newpage]
[March,2007 spring Okinawa]
ヴァルと出逢って海で過ごした沖縄の2日目の夜、ヴァルと別れてから私は夜のコンビニで使い捨てのカメラを購入した。デジタルカメラは持ってきていなかった。沖縄の風景を撮影する気がそもそもなかった。けれど今は違う。ヴァルとの想い出を心の中だけではない。形として残しておきたかった。
紫の紅芋のアイスを頬張った、弾けるばかりの君の笑顔。そこから、沖縄旅行の最後の日が始まる。
「おいら、寒い日に食べるアイスが好きなんだ。今日は雨が降っているから、絶好のアイス日和!」
ヴァルは上機嫌にそう言った。
私は小糠雨を体に受けながら、苦笑した。今日は昨日と違って少し寒い。私は薄手の長袖パーカーを着ていた。ヴァルはアロハシャツに半ズボンといういたってラフな格好だ。
「おいら、暑いのも好きだけど、寒さにも強いんだ。だから今日も雨が降っていたって平気、平気」
私とヴァルは傘を差さなかった。ヴァルはこんな細かい雨を体に受けるのが好きだと言う。私もそんなヴァルの感覚を一緒になって味わいたいと思った。だから傘はバッグの中にしまっておいた。
「ヴァル、こっちを向いて」
頬張った紅芋アイスクリーム、絶好のシャッターチャンス。ヴァルは一瞬きょとんとした顔をして、それから満面の笑顔を見せて笑った。カメラに向かって斜めに体をよじらせた。
「……うん、多分良い写真が撮れた」
「ウェイトンはデジカメ持ってないの? 今時珍しいなあ。フラッシュのランプが昔って感じだよね」
「デジカメくらい持っているさ。ただ沖縄には持ってきていないんだ」
「そうなんだ」
国際通りで、私とヴァルは色々な話をした。子どもの頃の話、今流行の音楽について、ヴァルの生活について、沖縄のこと、私の生い立ち、たくさんの話をした。
「ウェイトンは今日の夜で東京に帰るんでしょ。だったら沖縄土産でも買っていったらどう?」
「そうだな、お土産のことなんて何も考えていなかったよ。誰にも言わずに沖縄に来たからね。配る相手もいないし」
「そうじゃなくてさ、自分へのお土産だよ。おいら、良い店知っているんだ。良かったらウェイトンに紹介したいな」
「ああ……じゃあ連れて行ってくれ。ヴァルの推薦する店なんて楽しみだな」
「ここから近いんだ。すぐ着くから」
私とヴァルは国際通りから一本、道を外れた。程なくして店に着く。
「ここは獣人サイズの沖縄テイストの洋服が揃っている。唯一の店なんだ。小柄な犬人からウェイトンみたいに大柄な熊人まで、どんなサイズも取り扱っていることが売りなんだ」
私とヴァルは店の中に入った。私は普段服装に気を使わない。少し恥ずかしかったが、私はヴァルに告げた。
「良かったら、私に似合った服を見立ててくれないか?」
ヴァルは笑顔で頷いた。
「もちろん!」
ヴァルは店員さんと親しげに話をして、服をいくつか選んでくれた。雨に濡れていた私は少し申し訳なさを覚えながらも、試着室に入ってファッションモデルのように何回も何回も着替えをした。店員の狼人は嫌な顔ひとつせず、私とヴァルの買い物に付き合ってくれた。仕事以外で友達とも違う獣人と話すなんて随分久し振りのような気がして、私は何だかそのことを嬉しく思った。ヴァルを介して新しいコミュニケーションが生まれている。ヴァルと共に過ごして新しい可能性を発見している? 何だかくすぐったい気持ちだ。
「ありがとうございました。また沖縄に来たらご来店をお待ちしています。良い旅を!」
店員の言葉に見送られて私達は店を出た。
「ヴァルのおかげで素敵なお土産が買えたよ。本当にありがとう」
「おいら、人に洋服を見立てるのが好きなんだ。その人が普段着ないような服を提案したりさ。やっぱりほら、服とか見た目とかって大切だから」
「確かにウコン柄のアロハシャツなんて自分では選ばないからなあ。でも、色使いがシンプルだから東京でもこれからの季節使えると思うし。本当、良い買い物をしたよ。それに……」
ヴァルと私は顔を見合わせて笑った。
「勝負下着、だね」
「恥ずかしかったんだぞ。下着を買うなんて。トランクスだから恥ずかしさなんて考えなくてもいいのかもしれないけど」
シーサーの刺繍が施されたトランクスを買ったのだ。厳かなシーサーが色とりどりの色で豪華に刺繍されている。下着にしては結構な値段だった。それをヴァルが「勝負下着にいいんじゃない」なんて、大声で言ったのだ。恥ずかしくてたまらなかった。でもそれを楽しいとも感じている自分に不思議さも感じていた。
「いいじゃない、勝負下着。一点豪華主義、なんちゃって」
朝から続いていた雨はいつの間にか上がっていた。沖縄の曇り空が少しずつ晴れに変わっていく。晴れ渡る空はとても綺麗だ。東京では見ることが出来ない。
ヴァルがいなかったら、私は空を見上げていられただろうか……。
「そろそろお腹がすいたね。ご飯でも食べに行こうよ!」
ヴァルは元気一杯に言う。私にも力がみなぎって来る。ずっと空っぽだった脳のエネルギーが今充填されているのだ。ずっとからっぽだった自分。満たされていく自分。このエネルギーを、永遠に感じていたい。
にぎやかな市場にやって来た。ここは国際通りから少し外れた第一牧志公設市場。ヴァルと私は「昼ご飯が食べられるよ~」と声を掛けてくる少々強引なおばちゃんたちと会話をしながら新鮮な沖縄の魚を選んでいた。ヴァルはさすがに手馴れたものだ。「もっと安くしておくれよ」「おばちゃんたらかなわないなあ」「このグルクンいくらでいける?」「海ぶどうお土産に買っていく?」「サーターアンダギー、おやつに食べようよ」私は人見知りなところがあるので、ヴァルの屈託のない言葉や表情にちょっとばかりの羨ましさを感じてしまった。
1階で買った食材は、2階の食堂で有料だが調理してもらえる。私が気になっていた食材はハリセンボンだった。「ハリセンボンってあのハリセンボンかい? 食べることなんて出来るのかい?」私は驚きながら言った。「食べられるよ~、から揚げにしたりアバサー汁にしたり。結構美味しいんだよ。ハリセンボンも買っていく?」
「ああ、食べてみたい」
私は好奇心から舌なめずりをした。
2階の食堂でまずヴァルと私はビールを注文した。
「おいおい、未成年がビールなんて飲んでいいのかい?」
私は小声で言った。
「大丈夫、おいらはお酒はしょっちゅう飲んでいるんだ。悪酔いもしないし、迷惑掛けることはないから1杯だけ」
茶目っ気たっぷりに笑う。そんなものなのかな、と納得している自分自身がいる。
ビールを注文した後は待てど暮らせど料理はやってこない。
「ここは魚をさばいたりしてるから、普通の店よりも時間がかかるんだ」
ヴァルはそう言ってビールのジョッキを空にした。
「もう1杯ビール飲もうかな~」
「こらこら」
「分かったよ。じゃあオレンジジュース……おねえさ~ん、オレンジジュースひとつ!」
ヴァルは声を張り上げた。
程なくして、料理が順番に運ばれてきた。単品で頼んだ海ぶどう、プチプチとした食感が新鮮だった。そしてグルクンのから揚げ、イワシに似ているが、衣の中ではお腹に赤い色が乗っている。色鮮やかなのが沖縄らしい。頭からがぶっとかぶりつく。とても美味しい。そして私が待ち望んでいたハリセンボン……。
「……何だ……針がないじゃないか」
私の呟きに、ヴァルはきょとんとした顔で言った。
「それはそうだよ、針なんて硬くて食べられないよ。皮を剥いで食べるんだ。ウェイトンは丸ごと食べると思ったの?」
私は口ごもった。
「……ああ、ばりばりポテトチップスみたいに食べるのかと思っていた」
ヴァルは、ははっ、と笑った。
「それいいかもしれない。ハリセンボンの針付き丸揚げ、試してみようかな~」
「そんなに笑わなくたっていいじゃないか」
「だって面白いんだもんウェイトン。どっか抜けててさ」
「これでも仕事はちゃんとやっているんだぞ。あんまり料理をしないだけで」
「おいらはするよ、ひとりで料理」
そう言えば、ヴァルに聞きそびれていたことがあった。
「ヴァルは沖縄にひとりで住んでいるのかい?」
「ああ、おいら半年前に沖縄に来たばっかりなんだ。内地で色々あってね。だからまだ沖縄の方言を使うのも上手く出来なくて。偉そうに観光案内しているけど、おいらも沖縄初心者なんだ」
ペロっと口を出すヴァル。何か含みのある発言のように私は思った。
「三線はいつ習ったんだい? 歌だってあんなに上手に……」
「歌はもともと好きだったんだけど、沖縄民謡を聞いてビビっと来てさ。三線は沖縄で知り合った友達に教えてもらって特訓したんだ。そしてオリジナルの曲を作るようになったんだ。路上でやっていたら目に止まってね。おいらは本当にラッキーな犬人だよ」
「……少し話を戻していいかな。言いたくなかったらいいのだけれど、ヴァルみたいな若い獣人が両親から離れて、ひとりで沖縄に来るなんて凄いことじゃないのかい」
「ああ……」
ヴァルは一瞬目を伏せた。しかしすぐにいつもの明るい表情に戻った。
「父ちゃんも母ちゃんも事故で死んじゃってさ、身よりもなかったから、一番興味のある沖縄に住もうって決めたんだ。ひとりで生きてくって何か格好良くない?」
ヴァルが無理をしているようには見えない。けれども私はヴァルのその境遇に何て言葉を返したらいいか分からなかった。小柄な犬人が一瞬だけもう一回り小柄に見えたような気がした。
私の両親は健在だ。長野の雪の多い町に住んでいる。私は大学入学と同時に東京に上京した。そしてそのままコンプリート・アイに就職をして、長野に戻ることはなかった。家族とはあまり仲が良くなかった。だから故郷に帰るのは1年に1回あるかないか……。
家族の話は止めようと思った。何か話題を探そうと考えていたその時、
「歌を歌うよ」
ヴァルは唐突に言った。
「今即興で考えた歌。家族の歌。ちょっとどこかで三線借りてくるね~」
笑顔でそう言って1階に走り去ってしまった。
……私は大きな思い違いをしていた。ヴァルのあの笑顔は本物だ。あんなに無垢な笑顔は、神様からの贈り物といっても差し支えがない。けれどその神様はヴァルの両親に残酷な仕打ちをした。それを乗り越えたから、ヴァルの笑顔は神様の笑顔よりも、きっと、尊い。
私はそう思った。あの小さな体でヴァルが抱えているものとは何だろう?
私はヴァルの全てを知ってしまいたい。私の中にそんな感情が生まれている。
ヴァルが意外と早く戻ってきた。どこかの商店から頼み込んで借りてきたらしい。
「じゃあ歌うよ。営業妨害にならないように少し小さな声でね。でも想いは込めるから……」
照れ笑いをひとつ。
「少し暗い歌になっちゃうかもしれないけど」
ヴァルはペロっと舌を出した。
食堂の客の何人かがこちらを向いた。
ヴァルはこほん、とひとつ咳払いをして、三線を構えた。
「曲名は『家族』です」
三線がゆっくりと鳴らされる。スローテンポのメロディが流れる。その横顔に私は吸い込まれる。ヴァルが息を吸い、声を出す。少し高めのあの時のビブラート。ヴァルと私を出逢わせてくれた、ヴァルの歌。
ゆっくりと語りかけるようにヴァルは歌い始めた。
ひとりきりでいきること、それは寂しげな憧憬
ふたりでいきていくこと、それは2匹のハリネズミ
さんにんでいきていくこと、それは折れてしまった3本の矢
よにんでいきていくこと、それは割り切られてしまう数
家族とは互いを愛し合うことではないのかもしれない。
自分を愛し合うことが家族の愛に繋がるのでしょう。
憎しみが心を凍らせるとき、火山が噴火するとき。
おいらは毛布に包まって息を吐きます。
そんな時おいらは自分のからだを抱きしめます
そこに家族の愛が生まれるのです
やわらかな光が生まれるのを期待しているのです。
それがもしかしたら誰かとの繋がりになるのかもしれない。
それはだれにもわからないのです
けれどおいらは自分のからだを抱きしめつづけます
家族をじぶんのなかにもっともっとふやしたいから
たくさんの家族にありがとうとつたえたいから
少し高めのビブラート。食堂の雑音すらかき消してしまうようなヴァルの歌声。ヴァルの歌声には人をひきつける何かがある。抗えない強制的な力のように。真綿に包まれた柔らかい部屋に招き入れる優しい住人のように。
私はヴァルの歌の一節が心に刺さった。
『けれどおいらは自分のからだを抱きしめつづけます』
けれど私は自分のからだを抱きしめつづけます。
「私も……そうだ」
私は東京の1Kのアパートを思い描いた。
「ヴァル」
私はヴァルに話し掛けた。
「私も自分自身を抱きしめてやることがあるんだ。寂しい時だけじゃなくて嬉しい時も。そこに何か柔らかいものが生まれる。自分が、何人も生まれるんだ。それは生意気な奴だったり、とっても愛しい奴だったりする。いつも私の邪魔をしたり、私の力になってくれたりする。何人も、いつでも、どんな時でも……それがヴァルにとっての家族? ……違うかい……?」
ヴァルはしばらく黙っていた。そしていつもの調子で言った。
「半分は当たってるけど、半分は外れかな。おいらの言う家族はおいらに寂しさしか最近与えてくれないんだよね。……おねえさ~んオレンジジュース追加ね!」
手を上げて、元気よく注文するヴァル。
「ひとりだったんだ、おいら。でも歌を歌うことによってそこに繋がりが生まれた。だからウェイトンとも出逢えた。それってとっても素敵なことじゃないかなって思う。今は家族について歌ったんだけど、おいらにはおいらにしか分からない大事な家族がいて……」
「私はヴァルの家族の一員になりたいよ。自分を抱きしめて私のことを想ってもらいたい。君とこうして話をして遊んでいると凄く楽しい。私は君に会って救われた。昨日のビーチを覚えているかい? 子どもの頃に帰ったように遊んだよ。あんなに楽しい時間を過ごしたのは生まれて初めてだった」
生まれて初めて……。そうだ、あんな思いをしたことは今まで1度もなかった。生まれて初めての喜びは、言葉でいくら説明しても説明したりないくらいだ。だから……。
「君と出逢えて本当に良かった。私は君が好きだ。三線を鳴らしているヴァルや、ビーチで遊ぶヴァル。ヴァルのひとつひとつの表情が私に勇気をくれた。本当に……ありがとう」
ヴァルははにかんだ。
「おいらは……おいらにはそれしか出来ないから。もっとウェイトンと遊んでいたいけど。おいらは人と長い関係を築くことが今は出来ないから……」
「どうして……?」とは、聞けなかった。私が聞くべきことではないのかもしれないと思った。そんな空気がヴァルの全身から立ち込めているように思えた。
「だから今は楽しく遊ぼうよ。観光の最後に首里城に行こうよ。今首里城は夜ライトアップされているんだ。とっても幻想的で綺麗なんだ」
「……ああ、行こう」
「飛行機はぎりぎりになっちゃうけど。でも間に合わせるから安心してね」
「……帰らなくたっていいんだぞ」
私は自分でも意図しない言葉を発した。
「……駄目なんだ、おいらは。おいらは人と繋がれない。家族をたくさん増やしたいけど、今はまだ駄目なんだ」
横顔に瞳を潤ませた犬人がいた。何故……泣いている?
私はまた、ヴァルを抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
でも……今は、どうしても、出来なかった。
[newpage]
[January,2011 winter Okinawa]
コンプリート・アイ沖縄店は元旦に無事オープンした。
お客の入りもなかなかで売上も期待出来そうだった。やはり国際通りの集客力は凄い。チラシも効果的だったのだろうか。
前日の一件からデューとは少し距離を置いていた。その方がいいのではないかと私は思ったからだ。店が忙しいというのもひとつの理由ではあったが。
「こちらのメガネの度数はどうされますか? 視力測定をされますか?」
デューが接客をしている。大柄な中年の獅子人がデューと話している。
「今のメガネと同じでいいよ。それで……今日中にメガネは出来るの? 時間どれくらいかかるの?」
少し横柄なタイプの獣人で、デューが苦手なタイプではないかと私は思った。
「今、お度数を調べてまいります。少々お待ちいただけますか……」
「早くしてくれよな、他にも買い物があるんだ」
「……はい、かしこまりました」
デューが慣れない手つきでメガネの度数を調べている。焦っている。
(焦るな、ゆっくり確実でいいんだ)
私は心の言葉をデューに投げかけた。
「……このお度数ですが、少し強いようでして、こちらのセットのレンズではなく二段階薄いレンズを使用された方が良いかと思います。フレームとレンズのバランスからして」
デューがレンズのサンプルを見せながら獅子人に説明している。
「そうすると、結局値段はいくらになるの?」
「ええと……基本のレンズ代金にプラス9350円で、フレームの値段と合わせて、ええと……3万と350円になります」
私は店の全体を見渡すように指示を与えられていたが、気になるのはデューのことだけだった。デューは初日ということもあって緊張していた。当然だ。私も最初お客様と接した時は怖くて怖くて仕方がなかった。
獅子人はデューに突っかかってきた。
「そんなにかかるの? 随分高いな。安いと聞いて来たんだけどな」
「申し訳ありません……」
「それで結局いつ出来るの? 急いでるんだけどな。30分くらいで出来る?」
「いえ、ええと……」
デューが言葉に詰まった。
「在庫のレンズを調べてまいります」
(調べなくても分かる。そのレンズは発注で3日かかる。緊張して忘れているのだろうか)
獅子人は明らかにイライラしていた。
私はタイミングを見計らって、カウンターに立った。デューに目配せをする。
「お客様、申し訳ございません、こちらのレンズは特別なレンズですので、レンズを発注してから、出来上がりまでに3日ほどお時間を頂いているのです」
「ああ、そうなの。じゃあ買えないな。明日には沖縄を出て行くから」
「申し訳ございません」
「在庫のレンズくらい用意しとけよ。観光で来てるんだ。3日なんて待てるわけないだろ」
私も嫌いなタイプの獣人だった。しかしお客様には平等に接しなくてはならない。
「申し訳ございませんでした。これからは在庫のレンズの幅を広げるように、努力いたしますので」
私が接客をすると、獅子人はしぶしぶ納得した。
「まあいいや、時間を無駄にしたな」
獅子人は舌打ちをして帰っていった。
デューが私に近付いてくる。
「ウェイトンさん申し訳ありませんでした」
今日まともにデューと話すのは初めてかもしれない。バックヤードでデューに声を掛けた。
「ああいうお客さんもいる。仕様が無いんだ。私たち上の人間の責任なんだよ。確かに先程のお客様が仰っていたことも一理あるんだ。観光地の沖縄でメガネの製作に3日もかかるとなったら、買えないお客様も出てくるからね。上司に報告しておくよ。レンズのストックを増やしてみたらどうかと。デューのおかげでそのことに気づけて良かったよ」
私は笑顔で言った。
「大丈夫、大丈夫。さあ気持ちを切り替えて!」
私はデューの背中を押してやった。
デューと私のぎこちなさが幾分薄れたような気がした。
デューは深々と頭を下げて、仕事に戻った。
残業を終えて、私は本気でヴァルを探していた。民謡居酒屋やライブハウスで、聞き込みをした。自分から積極的にヴァルの写真を差し出して、行方を探した。深夜まで、ヴァルを探し続けた。ヴァルの笑顔をもう一度見たかった。ヴァルの胸の中で、子どものように泣きじゃくってしまいたかった。その想いは今も変わっていない。
ヴァルにはもう逢えないのだろうか……。私は沖縄に来てヴァルと出逢って、何を伝えたかったのだろう?
否、何も伝えることなどないのだろう。ヴァルとは今でも言葉を交わさなくても、伝わる。確信があった。
私は徹夜の体を引きずって、店に向かった。体力はないが、今はみなぎるほどの精神力がある。
オープン2日目のコンプリート・アイ。相変わらずお客の入りは好調だった。デューはまだ私に遠慮している感じだったが、仕事は昨日よりも丁寧に行っているような印象を受けた。
(少しずつ、少しずつでいいんだ……)
デューの成長は私にとってとても嬉しい。デューの存在が私の中で大きくなっている?
ヴァルとは違う感覚。静かに、見守ってやりたい。少し年上の兄が弟を見ているようなそんな感覚だと気づいた。
メガネの加工室から続々とメガネが完成されてくる。お客様のフィッティングをするのも私の重要な仕事だった。私はフィッティングの技術には自信がある。お客様の頭部の形に合わせてフレームを工具を使って調整する。センスが必要なのだ。運がいいことに私はそのセンスを持っているようだった。今日も何人ものお客様のフィッティングを行った。
フィッティングは楽しい。そのお客様だけのメガネが私のフィッティングを持って完成される。自分が作り上げたメガネ、そんな満足感が心地よい。
少し時間に余裕が出来た時に、完成されて後はフィッティングを待つだけのメガネを、箱から取り出して眺めた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。
凍りついた。
「ヴァル・ティルグ」
お買上明細票。お客様のデータが書かれた紙。そこにヴァルの名前があった。
最初は何かの冗談だと思った。そんなことがあり得るはずがないと思った。
私は明細票を凝視した。獣人の種別には犬人と書いてある。年齢もヴァルの年齢と一緒。3年前から当然3年分歳を取っている。年齢19歳。
間違いない。
間違いない。
間違いない。
明細票には「1月3日来店予定」とメモ書きされている。昨日来店した時刻は14時20分。丁度私が休憩に出ていた頃だ。明細票には電話番号も載っていた。私はこっそりその電話番号をメモした。
昼休みにいても立ってもいられずに、電話をかけた。けれど何度コールしてもヴァルには繋がらなかった。
……それでも。
ヴァルに会える。
本当に会える?
私はメガネの加工室でひとり涙を流した。静かで、温かな涙だった。ヴァルとまた繋がることが出来る。一生分の運を使い切っても構わない。ヴァルに会えるのなら死んだって構わない。
ヴァルに会える。
奇跡だ……奇跡が起り始めた。
明日私は何があってもヴァルに出逢う。ヴァルの声を聞く。ヴァルと話をする。1日店でヴァルを待っている。誰にも邪魔はさせない。
「ヴァル、君は沖縄にいたんだな。本当に、本当にいたんだな。本当に、本当に……」
私はトイレの中で声を堪えながら涙を流した。
沖縄に来て良かった。
生きていて……良かった……。
[newpage]
[March,2007 spring Okinawa]
夜空が眩しい。そんな景色を私たちは見ていた。
「ウェイトンは最初の日に首里城には来たんだよね」
「ああ、何だか首里城って沖縄の象徴みたいな気がするじゃないか。それで私は一番にここに来たんだよ」
「世界遺産にもなったくらいだからね。色々回ったの?」
「ああ、一通りは。やっぱり守礼門を始めに通った時は、首里城に来たんだなあと思った。それに大きな広場みたいな所に大きな門があって……正殿と言うのかな、何だか凄いなあと思ったよ。後はお金を払って中に入って……でもその後は駄目だったかな。感情が上手くまとめられなくて……。集中出来なかった。一昨日のことなのに良く思い出せないんだ」
「思い出せなくたっていいんだよ」
ヴァルは静かに言った。そこには何かしらの重みがあった。
「なんでも覚えていなきゃいけないなんておいらは思わないよ。忘れてしまうことも大切なんだよ」
首里城が煌いている。ヴァルと私は道の角に立って、少し遠くからライトアップされた首里城を眺めていた。
「おいらさ」
ヴァルはガードレールに座り直し、昼間国際通りで買った帽子を目深にかぶり直した。
「父ちゃんと母ちゃんが死んだって実感今でもまだないんだよね。……人が死ぬってどういうことなのかまだ分からなくて。おいら、父ちゃんや母ちゃんの顔、上手く思い出せないんだ。父ちゃんや母ちゃんが笑ったり泣いたりしている顔はくっきりと思い出せるんだけど、父ちゃんや母ちゃんが普段していた普通の顔がどうしても思い出せないんだ」
ガードレールをスニーカーで小さく蹴った。
「おいら、その顔を思い出したくて思い出したくて仕様が無いんだけど、仕方がないのかなって、そういう風に忘れていくのかなって。生きてくためにはさ。必要なのかな、忘れるってことは」
もう一度、今度は優しく撫でるようにガードレールに足をぶつける。
「なんでこんな話ウェイトンにしてるんだろう? ウェイトンには関係ないのに」
「……そんなこと言わないでくれよ」
私はうめくように言った。
「ヴァルの力になりたいんだ」
ヴァルはガードレールを規則的に蹴りつづける。リズムを刻むように。
「おいら、ウェイトンに3日間頼りっぱなしだった。おいらの歌を聞いてくれて、おいらと話してくれて、おいらと遊んでくれて、とっても……楽しかった」
「私もだよ。ヴァルと一緒に遊べて本当に、楽しかった」
嘘偽りのない言葉だった。
「今日でおいら達別れ別れになっちゃうね」
「私は……」
ヴァルの側にいられるのなら帰らなくてもいい。全てを失ってしまっても構わない。
「私はヴァルの側にいるよ」
「駄目だよ」
ヴァルはきっぱりと言った。
「おいらは人と長い関係を築くことが出来ないんだ。行きずりの関係だけしか持てない。無くなるのが怖いんだ。ひとりになっちゃってから、おいらは……おいらは。どうしようもなく怖くなって、離れていくもの全部怖くて」
私はヴァルの肩を抱いた。そうすることしか出来なかった。
ヴァルは肩を振るわせた。
私はもう一度強くヴァルの肩を抱いた。
「笑顔のヴァルも好きだけど、今のヴァルも好きだよ」
ヴァルは私に視線を向けない。
「私に夢を見させてくれてありがとう。現実の夢を。本当に嬉しかったよ」
私は静かな言葉を口にした。
「うん……」
ヴァルは頷いた。
「行きずりの関係しか持てないから」
ぽつりとヴァルは言った。
「おいらは弱っちいから。行きずりの関係しか持てないから」
ヴァルは繰り返した。
ガードレールからゆっくりとした動作で離れた。
「だからおいらはいつだって笑っていようってそう決心したんだ。……でも今日は泣いちゃった。泣くとおいらは凄く辛くなるんだ。泣いてすっきりするなんてありえない。泣くと頭の中が空っぽになる。明日からどうしていいか分からなくなる。だから、涙は嫌いだ、おいら。だから、人に、深入り出来ない」
へへっと笑った。私はヴァルにどんな言葉もかけることが出来なかった。
ヴァルがゆっくりと去っていく。首里城の光を浴びて。
お別れもなく。
最後の笑顔もなく。
どうしてだ……。どうして離れて行ってしまう?
どうして……?
想いとは裏腹に私はヴァルの背中をただ見つめることしか出来なかった。
……心の中でカメラのシャッターが鳴った……。
今にして思えば。
今にして思えばだが。
私はヴァルと首里城を見ていたあの瞬間だけ、ヴァルの気持ちや想いが完璧に伝わってしまっていたのだろう。私とヴァルはその時点だけ、その瞬間だけ、永遠を手に入れたのだ。だから、私は、ヴァルの全てを受け入れた。連絡先も、「また、会おう」の一言も交わさなかった。
その永遠が……その永遠が本当に永遠に続けば良かったのに。
そうすれば私は前を向いて歩き出せることが出来た。ヴァルの存在を勇気に変えて生きていくことが出来た。
けれどその永遠は長くは続かなかった。
帰りの飛行機で私はヴァルのことをぼんやりと考えていた。そしてヴァルと再会出来ないこと、きちんとした別れを持てなかったことを後悔した。否……後悔なんて気持ちではない。その選択を選ばざるを得なかった自分に恐怖した。
首里城を離れて、飛行機に乗り込んで……たった3時間の永遠だった。
私はブランケットで顔を覆い、激しく泣いた。乗客が私に注目するのも構わず激しく泣いた。泣いて泣いて、泣きじゃくった。
ヴァルに会いたい。連絡先を聞けば良かった。「また、会おう」と一言言えば良かった。ヴァルの家に押しかければ良かった。ヴァルを東京に連れてしまえば良かった。ヴァルの話をもっと聞いてやればよかった。ヴァルと口付けを交わしたい。
私は本当に愚かで、弱くて、幼稚な獣人だ。
私は東京に帰ってきた。
そして、私のヴァルを求める人生が始まった。
……ヴァルを求めるだけの、他には何も無い、人生が始まった……。
コンプリート・アイ沖縄店で私はヴァルを待っていた。
昨日の夜は眠れなかった。けれど、体中には力がみなぎっていた。
私はフロア担当として店に立っていた。
ヴァルが来たら私に回すようにと、明細書にはメモしておいた。それでも心配だったから、今日はフロアを1日見ていたい、と上司には告げていた。メガネの加工や視力測定に入ってしまえばヴァルとすれ違う可能性が出てくる。それは避けなければならなかった。
朝のうちは異常な高揚感があった。何をしても何を考えていても、それが全て幸福感に繋がる。不思議な感覚で、自分自身初めて感じる感覚だった。
昼になり、今度は酷い不安に襲われた。あれは人違いではないか……。何かの間違いではないか……。ヴァルがもし今日来なかったら……。明細票の電話番号を担当者が聞き間違えていたら……。無数の「もしも」が私を苦しませる。それでも、私はヴァルに逢えるのならばどんな感情でも引き受けようと思った。
昼の休憩は取らなかった。
ヴァルを待ち続けた。
時間を見計らって、ヴァルのために作られたメガネを見た。
黒ぶちの、少し大き目のスクエアタイプのセルフレーム。縦幅もあるので、クールで男性的なイメージのメガネだ。テンプルもコンプリート・アイの商品にしては珍しく、特殊なデザインや加工が施されていない、至ってシンプルな、否、シンプル過ぎるメガネだ。
ヴァルに会えることに夢中になっていて、メガネをちゃんと観察していなかった。しかし良く見てみると……良く見ていると、何故だろう、妙な違和感が心の中に沸き立ってくる。
それが何かに気づいた時、ぶるっと心が震えた。
訂正しようとした。思い込みだ、気にするな、と。
しかし私の直感は、こういう時だけ、当たる。
2つの可能性があった。どちらも普通ならば当たり前のことで、それが私の直感を確信に変えた。
ヴァルが年を重ねて、あの頃のヴァルとは何かが変わってしまったか……。
ヴァルを変えさせるような、何か強い出来事がこの3年の間に起こったか……。
……このメガネは私と出逢った頃のヴァルであれば、絶対に選ばない。
シャープで知的で男性的な部分を強調したシェイプで。テンプルにもフロントの部分にも全く遊び心がなくて……。
ヴァルとメガネの話などしたことはないが、このメガネを見れば分かる。
ヴァルの個性に、このメガネはどんな役割をも果たさない。これはヴァルの個性を消し去るメガネだ。
あの頃のヴァルを消し去ってしまおうとするメガネだ。
動悸が早くなる。
頭の鈍い痛みが響く。
店の扉が開いた。分厚い木製の扉がゆっくりと開いた。
犬人の2人連れが入って来た。
ひとりは見たことのない褐色の毛並みの犬人、ヴァルより年上で大柄で、目元に力があった。
その犬人に寄り添う小柄なヴァルは。
そうヴァルがそこにはいた。私とかつて同じ時を過ごした、ヴァル・ティルグがそこにはいた。
けれど、それは間違いなく、私がかつて知っていた「ヴァル」ではなかった。
私だけの神様は異世界へと飛び去ってしまった。
もうこの地球上の何処にも存在しない。
「ヴァル・ティルグ様ですね。お待ちしておりました」
私は、ヴァルに声を掛けた。カウンター越しに対面したヴァルが、私を見る。そして驚いたように、息を漏らした。私を見てぎこちなく笑う。ヴァルは私のことを覚えてくれていた。二人の間に何か言い表せない空気が流れた。ただの気まずい沈黙、そうではないことだけは分かった。
「こちらがお客様のメガネになります。ただいま調整を行いますので、あちらのソファで少々お待ちください」
目を伏せたヴァルに対して私は自分の言葉にどんな感情を込めれば良いのか分からなかった。
けれど自然と私の声はかすれ、震えた。そこにどんな感情が潜んでいるか必死に探り当てようとした。
ヴァルの隣にいる大柄な犬人は、おそらくヴァルの恋人だろう。私にだってそれくらいは分かる。ヴァルは先程からこちらを気にしている。恋人の冗談に付き合って笑う時もどこか遠慮がちに笑う。そこに私の知っている屈託のないヴァルの笑顔はなかった。
私はヴァルのメガネを取り出した。黒ぶちのフレーム、シンプルなフレーム。先程見た時とはまた感想が変わっている。今のヴァルにとても似合うメガネなのかもしれない……。皮肉などではなく素直にそう思った。大人に近付いた犬人には、こんなシンプルな余計な飾りのないメガネが似合うのかもしれない。
私はヴァルの元にゆっくりと歩み寄った。ヴァルが私を見る。少し怯えたようにも見える。何故だ……何故そんな顔をする?
「お掛け頂いた感じを確認させていただきます。それからメガネを調整していきますので……」
私の声はまたもかすれ、震えた。その感情を再び探り当てようとする。
「失礼致します」
私はヴァルの顔にメガネをかけた。その時にヴァルの頬の獣毛が私の手に触れた。その瞬間、私の心の中にヴァルと触れ合った想い出が次々と鮮やかに浮かび上がってきた。
メガネをかけたヴァルの正面と耳の辺りを確認する。ヴァルの頭を立体的に捉える。そうか大きくなったんだなあ……と私は思った。ビーチで遊んだヴァル、食堂で一緒にご飯を食べたヴァル、お土産を選んでくれたヴァル、首里城のヴァル、それは皆、3年前の……もう想い出としか呼べない記憶になってしまったのだ。
ヴァルは体を硬くさせている。私はそんなヴァルの姿をも指先で捉えた。何か言葉を掛けたかったが言葉は出てこなかった。ヴァルは私から瞳をそらした。
「……それでは細かな調整をしてまいります」
声はかすれ、震え続ける。
私はカウンターに戻り、ヒーターの電源を入れた。
セルフレームはテンプル……つるの部分に温風で熱を加え、柔らかくなった所に力を加えて曲げたりすることで調整していく。私はヒーターにヴァルのメガネをかざした。
いなくなってしまったんだ、私だけの神様は。
声には出さずに唇だけ動かした。今現実に存在するヴァルを私の心の中にどう位置付けたら良いか分からない。
熱を加えたメガネはつるの部分が柔らかくなった。私はヴァルの頭の形を心に強くイメージして、つるの部分を曲げた。
これが今のヴァルのメガネなんだ……。
これが今のヴァルのサイズなんだ……。
幼く、屈託のなかったあの頃のヴァルはもういない。あの頃のヴァルは二度と戻ってこない。私ではない、大柄な犬人に笑いかける。
もう3年も経ったんだ。それは、当たり前の、こと。
メガネを調整する私の手つきは少しずつ力強さを帯びてくる。
これはお別れだ。
私とヴァルのお別れの儀式だ。
私はヴァルに最高の技術を提供する、最高のフィッティングを行う。そして私はヴァルを忘れる。
想い出を残して、今のヴァルと別れる。
地球上の何処にも存在しないヴァルは、私の心の中でひっそりと鼓動を打つ。
永遠ではない、鼓動を打つ……。
ヴァルが私から消えてしまったら、想い出の鼓動が力尽きてしまったら……。
私は何を頼りに歩いていけばいい?
何処に向かえばいい?
何も分からない。
怖くて、たまらない。
私に前を向かせてくれたヴァル。私を護り続けてくれたヴァル。
それがいなくなる? 消えてしまう?
想像さえ、つかない。
力を加えた。テンプルを曲げた。
調整が、完了した。
どうしてだろう……とても落ち着いていた。
調整が終わり、私とヴァルの何かが終わった。そう感じると不思議と怖さはなくなっていた。
ヴァルに最後にメガネをかけた時も。
ヴァルが私の調整に、うん、と頷いてくれた時も。
ヴァルと恋人が連れ立って店を出て行った時も。
「これで、終わったんだ」
そう呟くと、心の中の一部分が軽くなったような気さえした。
ヴァルを求める旅が終わったのだ。
私はまた、ひとりに戻ったのだ。
ひとりに戻った私に、声を掛けてくれる熊人がいた。
「ウェイトンさん……今の人が……ウェイトンさんの……」
デューだった。デューが私を心配そうに見つめていた。
私はデューの顔を見た。
私と同じ熊人の彼は、私より一回り小さくて、私と同じように少し不器用で、それでも私の前に立っていて……立ってくれていて……。
私はまた、静かに涙を流した。
デューは私の手を取り、店の外へと連れ出した。
「今はいいんですよ、絶対に……それでいいんです、ウェイトンさん……だから」
来て下さい、とデューは言ったのだ。沖縄の風が私の獣毛を揺らす。デューの獣毛を揺らす。ヴァルの獣毛を揺らす。名前も知らないヴァルの恋人の獣毛を揺らす。
だから……。
私はデューの小さな胸に静かに飛び込んでいった。
子どものように、声をあげて泣きじゃくった。
いつまでも。
いつまでも。
私はデューの胸を借り、泣きじゃくった。
いつまでも、いつまでも……泣きじゃくることを止めなかった。
終
コンプリート・アイ(獣人小説・BL) @mino25
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