さくらの女将

煙 亜月

さくらの女将

 会社を辞めてきた。

 未払い賃金の請求も思いのほかスムーズにでき、自由も時間も手に入れた。

 同じ日に定年で辞める副長のじいさんが「いいからいいから」と、奢るといってきかなかった。孫や若い衆に振る舞う以外、金の使い道が思いつかないのだろうなと少し哀れに思いながら、「こっち、この道。ほらこっちだよ」と、そのじいさんの案内のとおりに進む。

「いや、ボクもね、話には聞く程度で実際に中に入ったことはないんだよ。『人より猫の多そうな路地の店に入りなよ』。これね、ずっと本社の語り草になっててさ。あ、ほら、あれだ。幸先がいい。猫の食事の跡だよ。猫ちゃんはいないけどね。生ごみ、散らかしてるけどあれはカラスの食べ方じゃないよ。カラスはもっと広範囲に手当たり次第に漁る。猫には嗅覚もだけど、知性? っていうか、理性があるからね。行儀がいいんだよ。犬ほどじゃないけど上下関係にも厳しいしさ」


 たしかに路地というには人の通行を想定された通りは少なく、ほぼ猫か鼠などの生活圏だ。

 細い隙間を通るにつれ肩のあたりが壁に擦れてしまう。先月買ったばかりなんだぞ、このカシミアのコート。これで店が開いてなかったらHUBであんたの心ゆくまで奢ってもらうからな、と内心、前をゆく定年のじじいに毒吐いてしまう。

「ねえキミ」

「はい?」

 ここでとびきりの薫陶でも垂れるのか? だから年寄りはいやなんだよ。

「お昼、何食べた?」

「――鯖の塩焼きでしたが、なにか」

「おお、キミ、ビンゴだね。ボクは揚げ釜玉。後ろ、ゆっくり振り向いてみて」

 そろりと振り向くと、小さいのから大きいのまで四、五匹の猫が、列をなしておれたち二人を追いかけてきている。そのうち大きめの一匹が先陣を切ると、間を置かずあとの猫がおれたちを追い抜いていった。

「たぶんあっち。猫の道は猫っていうじゃない」

 おれは呆れながらも猫(と定年じいさん)に黙ってついて行くことにした。


 道はいよいよ狭まってきた。陽も落ちてきている。夕飯時だ。確かに腹は減ってはいるが、しかしここまでの曲芸をしなければありつけない店のメニューとはどんなものなのだろう。元は取ってやるからな、と少しばかり湧き出たハングリー精神も次第に減衰してゆく。道、というよりこの隙間はあまりにも狭い。おれたちふたりがサーカスのスターなら通れたのかもしれないが、もしそうであってもいずれ死ぬ。確実に死ぬ。そう思わせる、実に幅二十五センチ程度の狭い隙間に顔面までこすりながらのお通りなので「ふ、副長。そ、そろそろ諦めた方が、いいんじゃ、ないですかね? こんなとこに挟まって、ああもう、動けなくなって、消防呼ぶのって、あんまりにも」と、おれは至極まっとうかつ建設的な意見を口にする。

 視界が急にひらけた。広場だ。広場になっている。六畳間をふたつほど延べた程度ではあったが、生活の匂いがする。

 周囲を見渡してみる。あたりの湿度は高いが不快な様子はない。生臭さもなく――いや、とてもいい。白米の炊けるいい匂いだ。醤油や出汁、味噌や生姜の匂い。ああ、いい匂いだ。嗅覚と味覚には自信がある。そのおれが判断するに、これらの香りはさして複雑ではない。純和食とみていいだろう。右手には地下か、もしくは半地下への階段があり、苔むした壁の部分もあれば、多少の日は当たるのだろう、綿毛のすっかり飛んでいったタンポポの植わっている部分もある。すみの方では猫の食事会が開かれていた。

「こ――これ、この店?」

 紺色の暖簾。引き戸のすりガラスからは光が漏れ、クラシカルな赤い番傘は開いた状態で入り口脇の下に置かれており、これはランプシェードとして柔らかな光源となっている。傘立てには同じような赤い番傘がもう一本、入っていた。店の前は三つの飛び石となっており、下は真っ白な玉砂利で敷き詰められている。

 なんだ、あるじゃん、あったじゃん。穴場も穴場、大穴場だ。この店構え、期待してもいいとおれの経験が告げている。しかしこんな店、どこのクーポンサイトに載っていたのだろう。定年じいさんに笑顔で振り返る。

 じいさんはいなくなっていた。「あの、副長」

 待て。

 おれはさらに怖気を振るった。じいさんどころか、この広場へ至る経路が一切、見当たらなくなっていた。幅二十五センチどころか、十五センチの間隙すらない。全方位を見渡しても、だ。わずかに頭上、四角く切り取られた空があるばかり。空でも飛ぶか、フリークライミングでもするか、それこそ猫に変身するなどといった技術でもなければこのまま干からびて死ぬ。全身の皮膚に鳥肌が立つのが見ずしても分かる。退くべきだ――全力をもって退かねばならない。一瞬、反射で骨格筋に力が入って全身が強張る。電流でも走ったかのように後頭部がちりちりとする。口渇感がしてきた。視線は索敵警戒の域を脱し、心身の不一致のままにきょろきょろと動揺する。


『小料理 さくら』

 店の暖簾――三枚の短めのそれ――は、はたはたとなびいている。当たり前だが、明かりは灯っている。暖簾が出ているのだからそうであるべきなのだが。

 何かが視界を横切った。——右手下方、来る。おれは左足を大きく引き、四股立ち下段払いを構える。敵はすぐに逃げていった。——また猫か。こうも猫に振り回されていては精神的に猫アレルギーになってしまう。

 見れば広場のすみで食事をしていたお猫様方はとうに解散していた。


 小料理屋は幽霊屋敷のようなぼろぼろな風体でもなく、いや、ごく近年開店したばかりのような店構えだ。夕闇にもわかるほどにやや緑がかった藍染の三巾、半暖簾はさわるとノリのきいた手触りがあり、白抜きの『さくら』の文字にも汚れはほとんどない。暖簾を前に腕組みをする。


「あんだあ?」急に戸が開いて女が首を出してきた。


 虚を突かれた。驚いて尻餅をつきそうになる。しかしこの時、豊富なおれの空手経験は瞬時に逃走へシフトした。後傾する体全体を一八〇度ひねった強引な回旋運動で、なんとか重心を膝頭まで送り、そのままスプリンターのクラウチングスタートのように手がつけるほどの前傾姿勢で走ろうとするが、


 ――いや、どこへも行けないのだった。おれは女に尻を向けて四つ這いになる。

 この空間はたぶん、おれを殺しにかかっている。酔う前の人間がそう判断しているのだ。あながち間違いでもないだろう。現に、定年の副長だってすでに毒牙に落ちたようなのだ。いや、そうに違いない。今ごろカラスに目玉でもほじくられているところだろう。

 大笑いが聞こえる。

「あっはっは! なあにそれ。もう、おかしい。取って食ったりはせんけえ、早よ中入り。寒いやろ。おでんができとるで」

 そういうと老婆――いまやっと対象の姿を識別した。なんだ、ただのババアじゃないか。幽霊だろうとなんだろうと、ババア相手なら勝機はある。いっぱい引っかけてからでも余裕しゃくしゃくだ。柔能く剛を制すとか、剣道三倍段などというが、これは互角以上の勝負のみに通用する言葉だ。そもそもの力技でなら剛——空手は最強のカードなのだ。それに拮抗する格闘技は、同じ空手か、もしくは相撲くらいのものなのである。


 少し安堵したおれは暖簾をくぐって店に入る。コートを隣の席に置く。「そ、そうだな。とりあえず――」

「ああ、分かっとる分かっとる! あんたの好みで分からんもんはないわ。きょうは店潰すつもりで食いに食い、飲むに飲まれ」

 店内はL字型のカウンター席が六席、テーブル席が三卓ほど。「ここ座られ。ストーブの近くじゃけ、温いで」と老婆——女将がカウンターの奥、中腰の姿勢から立ち上がり、腰をとんとんと叩く。おれは女将ご推薦、一番奥のカウンター席から店内を見渡す。アンティーク趣味があるのか、そこかしこの木の板にペンキを塗りたくっただけのような看板だったり、六〇年代のアメリカにありそうなジュークボックスなみに巨大な真空管ラジオだったり、壁に取り付けられた最初期の電話機だったりと、ちょっとした市が開けるほどヴィンテージグッズでいっぱいの店だった。女将は蒸し器からおっとっと、と剽軽な仕草でおしぼりを取り出して「はい、ごしごし拭かれ」とおれに渡す。確かに、これで顔を拭いたらさぞ気持ちのいいことだろう――だが、気配りのできるおれはそのようなことはしない。その対象が近くにいる場合に限る、との注釈はつくが。もちろんこの店にいるのは老いた女将とおれのふたりだ。おれは一秒もしないうちに判断を下す。マスクを外し、熱々のおしぼりに顔をうずめる。何秒か経った。おしぼりが顔の皮膚、筋肉、神経を限界までたるませにかかる。

「ん、うむ」なるべく平静を保ち、おしぼりを畳んで元に戻す。感動的なおしぼり体験。この店での最初の感動はおしぼりだった。誰にでも話せる内容ではないのだが、熱々のおしぼりは冬の現代人をとことん丸裸にしてくれる。

 お手元の次はすかさずおでんだ。それから燗酒。もちろん頼んでもいない。毒が入っていようと、この際どうということはない。外に脱出してもあの行き詰まりだ。どうせ死ぬなら一杯やってからでもよかろう。

 貯金は多い方だった。遊び方も知らず、せいぜいが会社帰り、個人経営の安居酒屋を開拓することくらいだった。毒があろうがなかろうが、美味けりゃいいのだ、美味けりゃ。

 

 それはそうと、おれは無類のおでん好きである。とくにごぼうとはんぺん。苦手とするものは牛すじとたまご。おでんに関してはワンルームのキッチンで出汁から作るほどである。よって、やや厳しいジャッジとなるが覚悟してほしい。

 まず、苦手なものからトライすることにした。ころころと転がるたまごへ箸をためらいもなく刺す。刺し箸は本来ご法度だが、ゆでたまごである。こんなに食べるのがむずかしい食品もそうそうあるまい。だから例外ルールだ。たまごに刺した箸を両手で箸を用い、半分に割ろう、とも考えたがあまりにも無作法だと思い直し、ひと口でいただくことにした。

 口元に手を宛て、目を丸くする。

 あ——味玉だ。半熟の味付煮卵だ。「ご、ごふっ、ふふ、はっふっ」こんな、こんな裏切りがあるとは知らなかった。人間、あまりにも上出来なものに出くわすと笑いがこみあげてくるようだ。何年もそのような経験もなく、たまごを咀嚼しながらくつくつと笑った。そのまま口の中でペースト状の味玉を舌の上で転がす。女将が不安そうに見るので嚥下し、なにごともないかのように口元をおしぼりでぬぐう。

 ちくわのごぼうもほろほろと崩れるのに香りも旨味もそこなわれていない。もっとも、ごぼうの味を壊すのはかえって難しいので、これは無得点勝利だ。

 お次ははんぺん。はんぺん本来の風味は出汁に負け、ただのスポンジとなりがちなのに、このおでんについてはやはり例外らしい。味も香りもハリがあり、少しふくらんだかまぼこといっても通用しそうな濃厚なはんぺんだ。

 最後に一番苦手な牛すじをいただく。だが不安はない。今までさんざんうまいおでんを食ったのだ、この店はなにをどうしようがおれの好みにそぐうものしか出さない、そんな法則があるような気がしてきたからだ。歯にはさまる、ぶにぶにとホルモンのようで気味が悪く、下手すると一生飲み込めないくらい固い牛すじをはたしてどう料理してくれるのか。

 串を手に少し眺める。ゼラチン質はほぼない。見た目はごく普通の牛すじだ。ひと口、ふた口といただく。——味は、よい。そもそも牛すじでおでんの味が決まるようなものだ、だいたいは見通せる。が、歯ごたえまでは分からない。やわらかい。歯が要らないほどやわらかい。不慣れなリポーターのように語彙を失ってしまうほどやわらかいのではなく、事実歯が要らないのである。ハラミ、カルビ、ハツ、タン、ミスジなどなど、各部位のいいところだけを取りまぜ、ほんの一本の串に刺したようにしか思えなかった。そればかりか、現在では高級品の『牛刺し』のような食感の串さえあった。中流以下の店が処理の甘い牛刺しを出すことがあるが、その場合会社のメンツはたいてい腹をこわす。それも入院するレベルで。だが今のおれには牛を焼いて食おうが生で食おうが些細な問題だ。脱出しても十二畳ほどの広場で朽ち果てるだけ、ならばうまい料理で死んでもよいのだ。

 

 ところでおでんとは、汁の色でおおむねの味が分かる。自分も家でひとりおでん出汁の調合を試行錯誤しているのだから、成功もあれば失敗もある。ある程度のパターンは知っている。しかしこの色は初めてだ。「うまいかまずいか、とにかくすごいのが来る」としか読めなかった。おれにしてみればずいぶんいい加減な予測ではあった。

 何も注文せずとも好物、好物、大好物がひらめくように出てくる。湯豆腐は敦夫節がよかった。その鰹節と醤油だけで一升食える気がした。酢鶏にいたっては太めの春雨をすするのが楽しくてならず、春雨のお代わりを頼んだほどだ(もちろん女将は酢醤油も追加してくれたが)。

 茶碗蒸しを例にとる。なぜ銀杏が三つ入っているのだ。おれが銀杏好きなの、誰かに話したのか? 酔って記憶を無くしたことは数えるほどしかないが、そのいずれかで「おれ、銀杏大好きなんだよね。茶碗蒸しでも最低三粒はほしいね」とでも暴露したのか。分からないが、分かったところで銀杏が減るでも増えるでもないので黙って食べる。この癖になる食感、植物のくせに濃厚な肉にも通ずる味と香り、性状が近いものといえばアボカドぐらいしか思い浮かばないが、残念ながら味が少し似ているというだけで銀杏の代わりにはならない。

 もちろん料理もただ熱々ならよいというのではない。燗酒との温度差にも気が配られている。酒は食事の途中から熱くはならない。冷める一方なのだ。しかし料理の順番も、酒がぬるく感じないよう、熱いものからぬるいものへと順番を考えて出している。ここが生の食材を使う割烹や小料理といった店と、冷凍ものばかり出すチェーンの居酒屋との違いだ。三十二歳のおれも、これまでさまざまな料理を食べてきた。それなりに舌は肥えているはずだ。

 刺身をいただくときの期待値、つまり注意を促すべきポイントもある程度の決まりがある。鮪や鯛が何かを隠すために不必要に肉厚でないか、身のスジに対して包丁の入れ方は適切か、光り物にやたらと香味を加えていないか、ツマに歯ごたえとみずみずしさがあるか――これらは、すべて良しである。


 ひとつ、試してみたくなった。

「女将。にぎり、食いたいんだけど」

「おう、ええで! お母ちゃんがなあんでも握ったらあ。松竹梅とあるけどが、きょうはぜんぶ奢りや、好きなん頼み。山葵はどうするかの? いつもみたいに抜くかいな?」

「ん、ああ、松を。山葵はどうしようかな、とりあえず抜きで」

 ——いつもはサビを抜かない。いつもからこの店に来ては、いない。魚の骨のように喉元の違和感が気になりつつ、白身からいただく。鯛は、めでたい。そんなことを平然とかみしめるほどの鯛だ。怖い。この先が怖い。この鯛を超えるものが現われ、この感動が上書き保存されることも怖かったが、おれは三十二歳にして『ゴール』へ到達したと舞い上がってしまうのではないか、そんな危惧が恐ろしかった。

 が、どのにぎりも口の中に天国が広がったとしかいいようがなかった。

「ん? どした? あんた、詰まらせたんか、お、おい」

 おれはウニの軍艦巻きを飲み込み、「ああ、いや、飲み込むのがもったいなくって」

 これでは、これではもはや、この店を最高といわざるを得ないじゃないか。燗の五本目をつける。意外だな。自分では酒よりビール派だと思っていた。冷酒を頼めば辛口淡麗の軽い酒ばかり、燗酒を頼めばまとわりつくような濃醇でしつこい酒が出されることが多かった。この店はどうだ。熱燗なのにふわっ、とフルーティな吟醸香が広がり、それでいてのど越しにはキレがある。吟醸酒か、ともすれば大吟醸酒をお燗にしている。なぜだろう。ふつう、こういう吟醸香の強い酒は食前酒扱いになるはずだ。

「そういえばだけど、この酒は——」

「ん? ああ、あんたの好みそうなお酒をきょうはな、特別に仕入れたんよ。飲むってえとあんた、たいていビールじゃろ? ありゃ腹がふくれるばかりじゃ。お酒なら料理も酒もすいすいいけるじゃろ。よう磨いた酒も、冷でもええが燗酒にしてみても美味しいんじゃ。上物ならな」

 握りの最後、おれが究極にして至高に美味いと思っている寿司こそ、たまごだ。

 普段食べるおでんのゆでたまごはもそもそとしていて苦手だった。それも半熟の味玉という伏兵があっさりと両断した。だが握りのたまごはどうだ。あんな甘くて焦げそうな厚焼き、しかも冷ましたものを、客がたったひとりという状況下でささっと作れるのだろうか。作る気になれるのだろうか。おそらくは冷蔵庫と電子レンジだろう、そう踏んでいた。「あの、最後にたまごの握り――」

「おう、できとるで。いっちばん、新鮮でええやつを焼いといて冷ましてたところじゃ」見れば女将はすでに厚焼きを作り終えたものを陶器の皿で冷ましているところだった。

 読まれている。馬鹿な。人間の心など読めるはずがない。行動分析や何か月にも渡る長期事前調査である程度の予測はつく。しかしおれが寿司の〆にたまごを欲しがるなんて、銀杏が大好きなこと以上に知られていないはずだ。あんな、あんな甘いものを寿司の最後に取っておくなんて知れたら笑われるのが落ちだ。だがこの女将——。

「ほれ、〆のたまごな」


 お茶の湯呑で両手を温めながら、おれは訥々と語った。本当は仕事が嫌になったこと。人付き合いがパンクしそうだということ。最後には洟をすすりながら生きることすべてに活路を見いだせなくなったこと、それらすべてをたった一杯のお茶で女将に話した。

「あんた――」

 女将は一升瓶をポンと開け、自分の湯呑に注ぎ、くっとひと息に飲み干す。

「しっかりせえ。もっとしゃんとせられえ」


 ――やはりな。精神科医だけだ、患者に休めというだけで商売が成り立つ人間は。

「ああ、まったくそうだな。すごくおいしかったよ。お勘定、頼む」


「まあ待ち。どうにも勘違いしょうるな、あんたは。あんたが休みたいときは休んだらええ。嫌になったら辞めりゃええ。生きるのに疲れたら、乞食でもしょうりゃあええ。人の顔色窺わんと、しっかり、しゃんと、な? 出来が悪うても、都合が悪うても、あんたを産んだお母ちゃんはな、ずっとあんたに負ぶさっていくんじゃ。どうなろうとお母ちゃんはあんたと一蓮托生じゃ。お母ちゃん、あんた産むとき死ぬかもしれんいうてお医者にいわれても、それでも産みたかったんじゃ。あんたんことずっと見とるけ、乞食でも、お母ちゃんにだけは胸張れる乞食になってくれればええ、ってな。へその緒でつながったお母ちゃんはな、あんたと一緒だったら地獄へでも極楽へでも、ずうっと一緒じゃ。お母ちゃんはそれがええんじゃ。お母ちゃんはそれが一番の幸せなんよ」


 女将は後ろを向いて洟をかんだ。


 おれも落ち着いてきた。冷酒を少しだけ飲む。

「なあ、ここ、なんでこんなにうまいん? おれの好みばっかりじゃん」

「ああ、そりゃあうまいじゃろう。分かるで、顔見りゃよおっく分かる。ずっとずっと、料理も満足に食えりゃあせんかったもんなあ。じゃけえ、あんたがひさびさに帰ってくる聞いてな、ええもん用意したんよ。南蛮料理も美味かろうが、やっぱりあんたあ、こういうお国の料理がええやろ」


 おれは洟をかんで、ふたたびうなだれた。母や父が存命中なら、会社辞めた当日にこれほどのご馳走を食うおれを叱り飛ばすだろうか。鼻水の染み込んだティッシュで涙を拭く。


「女将さん、本当においしかったよ。今度こそ勘定、頼む」

 そういうと女将は目を細め、息を少し吐き出して、破顔一笑する。

「ふふふっ。ああ、もう、律儀な子じゃねえ。きょうはな、つけときなよ。出世払いじゃ、出世払い。わしゃ、また来てくれるんが一番嬉しいんじゃ。いつかまとめて返してもらうけん、今日は早よ帰って早よ寝な。なあに、『人より猫の多そうな路地の店に入りなよ』ってな、これさえ覚えとりゃ、あんたが腹空かしてわんわん泣きそうな時に店、開けとくけん。きっと神様仏様が連れてってくださる。まあ、大変じゃろうけど、頑張んな。あんたにゃお母ちゃんが見とる」


 おれは来た時と同じく暖簾をくぐり、その布地で指をちょいとばかしぬぐって飛び石を三つ渡る。右前方には幅一メートルの通り道があり、そこを進んでゆくと、すぐさま大通りに出た。

「あ、あれ? キミ、今までどこ行ってたの? なんで酔ってんの? いや、っていうかなんで泣いてんの? と、とにかく行こうよ。主役がいなきゃダメじゃない、ほら、駅んとこの。ボクたちの送別会」

「ええ? 副長こそ今までずっと挟まってたんです?」

「はい? あ、うん。ええと、ちょっといいクリニック紹介しようか? ボクもキミくらいのころ世話になってた時期があって」

「副長? 副長——すみませんが、記憶喪失になったんですか?」

 サラリーマン二人が往来のど真ん中で話す内容でもない。さらにいえばサラリーマンは往来のど真ん中で向き合って立ち止まってはならない。たいへん邪魔だからだ。

「と、とにかく店入ろう。ボクらの話はあとで」

 店はがやがやと騒々しい。年末のこの時期、どこも書き入れ時だ。

「では、めでたく定年退職の副長とよく分からん自己都合退職のチーフ、お疲れ様でした! 乾杯!」黄色や白や茶色のジョッキ、グラスがそこここ音を鳴らす。

 いつも何がしかにかこつけて飲むベテラン勢の中、若い者もそうでない者もそこそこ酔いが回って来ている。「おい、この店俺が調べたんだぜ、チーフ君。あと一〇〇分は帰さねえからな」

「はあ。まあ、晩飯代が浮くんでめっちゃ飲み食いしますけどね」

 それを聞いたベテランが「ははっ、だろう? 永遠に食い続けられるぞ。ここ、いつもランク低かったんだけど最近トップ一〇に食い込んできてな。とくに魚! 鮮魚! 俺もうこの店だけで生きていけるわ」

「へえ、うちのお袋のはもっとおいしいですけどね」

 少し虚があったが直ちに「おっほう! さてはお前、マザコンか? 意外だ、チーフ君がプロの居酒屋よりお袋の味を取るとはね。こりゃ受けるわ」

「ねえ聞いた? チーフ、マザコンなんだって」「えー、もうやだ、せっかくオフのLINE聞けたのに」

「ま、まあいいんじゃない? 十八くらいまではお袋さんの手料理食べてるんだし、慣れとか癖とかがあるんじゃないかな」

「えー、でもアラサーでそれはないですよう。ちょっとショックう。顔はいいのに」

「ん、さっきお袋の店で食ってたから歴然だったけどね」


「お、おま、お前、せっかく送別会だってのに——」とベテラン。

「なんかね、『人より猫の多そうな路地の店に入りなよ』ってのがあるらしいですね、本社の語り草で。おれは支店が長かったんであれですけど。それで、入った店がなんていうか、三ツ星っていうか、ドンピシャっていうか」

「ちょっと」

「はい?」見れば掘り炬燵の面々はこちらを注視している。「キミさ、それって外観は新しいけど中は昔っぽい感じの店? 中に木の看板とかあった? で、ボクの案内無しで入れたの?」

「あ――いえ、途中まで副長も一緒でしたよ」

「いや一緒じゃない」

「一緒でしたよ。めっちゃ細い路地通ってたじゃ——」

「悪いけど、ボクは一緒じゃなかった」

「え、いや、副長に教わったんですよ、その、語り草とか店のこととか」

「悪いがそれはキミの見た幻か、それに近いものだよ」

 副長はゆっくりとジョッキのビールを飲む。

「ま、まあ、とりあえず幻覚としましょう。おれ、その幻覚のままに進んで、やたら狭い路地で猫追っかけてたら着いたんですよ。『小料理さくら』って店」

「『さくら』?」急に副長が顔を上げる。「 出すもの出すものキミの好み?」頷く。

 副長が急いたように訊いてくる。

「女将がひとりでやってて、どうにもキミのこと息子か何かのようにとらえてる?」

 おれはおずおずと頷く。

「あ——ああ」


 副長は眼鏡をはずし、おしぼりに顔をうずめる。そのまま「『さくら』って店はね、戦死した息子さんを今でも待つ女将さんの店なんだ。『さくら』はそういう意味なんだ。神風特別攻撃隊のね。場所が現実離れしてなかったかい? 空間、というか今来た道が消えてたとか。あの場所はね、想像に難くないだろうけど、向こうへ帰りたい、帰還したいと願うひとだけを迎え入れるんだ。それを待ってる女将の気持ちと合致したんだ、キミは」と独り言のようにつぶやく。

 副長はジョッキを持ったが空だったので、隣の席のチューハイを一気に飲む。派手にげっぷをし、「よかった」といって卓に突っ伏した。「キミが帰ってこれたってことは、まだ生きたかったからなんだ」さらに反対隣のカルーアミルクに手をずいと伸ばし、また呷る。さすがに好みではなかったのか「うわ、甘いね、これは」と笑いながら手の甲で口元を拭った。

「待ってください。っていうことは、おれは死にかけたってことですか?」

「副長も冗談きついなあ。コイツが死にたくなるなんてあるはずが」

「ボクもね、いわゆる猛烈社員やってたの。でね、キミと同じく父子家庭だった。親父が亡くなってしばらくがむしゃらに働いて、やっと次長のポストが見えてきた。嬉しかったなあ。廻らない寿司屋にも行けるようになって、墓参りして報告したんだ。そうすると急に『あ、生きてても得するの、ボクだけだ』って思えたんだ。空しかったね」

 副長は串焼きをがじがじと食べる。

「本社で語り草の『人より猫の多そうな路地の店に入りなよ』というのは確かに存在した。噂の域を出ないものとしてね。でも、そんなの、どうでもよかった。退勤して家にも帰る気にもなれなくて、何となくふらふらしてたらさ、どうも一匹の猫に呼ばれてる気がして追っかけてみると、密室みたいな空間に紺色の暖簾がかかっててさ」

「女将、岡山弁でしたか」

「そう、岡山弁。細かいニュアンスとか、違いまでは分からなかったけどね」

「お、お前」ベテランがおとなし気にしゅんとする。

「え? ええ。まあまあ貯金もあったんで、全部どっかに寄付して飛び降りようかと——うっ」

「お前さあ、そういう時は頼れよお、悲しいこというんじゃないよお! 俺だって、俺だって遺留工作しようとしたんだよ、みんなと。でも俺が最終的に『去る者追わず』とかいい出したから! お前よお! 俺が殺したことになるとこだったじゃねかよお! 友達だろうがよお――」いきなり抱き着いてくるとベテランが泣き始めた。

「まあ、キミはでもいい判断をしたみたいだ」

「というと?」

「払いをつけたろ? また来るってことにして。女将さんに悲しい思いをさせなかった。だって、本来は特攻で亡くなってるんだからね。それを自覚させなかったのは、この語り草を永らえる理由なんだ」

「う、うう、そりゃ副長、なんですか」ベテランはどうやら泣き上戸らしい。

「互助的だったってこと」と、顔の赤らんだ(が、表情は一切崩さない)副長が断じる。「互助的?」おれはオウム返しに訊く。

「女将は息子に会えてうれしいし、ボクらも気持ちがリセットできる。だからこの繋がり、

連鎖は崩れないし、お互いがお互いを求める関係になってるんだ」

「ねえねえ、何の話ですう? 要するに男はみんなマザコンってことでいいんですう?」女性陣は冷ややかに見るか、慎重に見るか、絡むかの三パターンらしい。副長は彼女らを宥めつつもベテランに紙ナプキンを渡しつつ、おれの方を見定める。鷹のような鋭い目だ。

「とにかく、あの店にまた行きたいと思わないことだね。そこまで引き寄せられるとキミ一人だけの力では帰ってこれなくなるかもしれない」

「え、でも互助的な関係ならちょっとぐらい通ったって」

「キミは、死人と話をして死人の料理を食ったんだ。それがまともといえるかい?」

「副長う、なんかラストオーダーすぎちゃってたみたいでえ」と、呂律の回らない若い女性社員が告げる。「それでえ、時間もあと一〇分くらいみたいですう」といい、刺身の大根の細切りに醤油をかけた。それをとてもおいしそうに食べる。

「だそうだよ。みんな、飲み物ある? じゃ、キミ。挨拶を。できる?」


 おれは味にはうるさいが酒に関してはほぼザルである。苦もなくすっと立ち上がり、咳ばらいを一つする。



――了

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