第16話
大きい花子さんがどれくらい大きいかというと、小学四年生なら背の順で後ろから三番目くらいに大きい。大きい花子さんが学校に居着くようになったわけは、誰も知らない。でも、どういうわけかトイレの中で駄菓子屋を営業しているらしい。お客が多くなってくると大きい花子さんのひとりごとが始まる。
「だから駄菓子屋なんてあたしはやりたくなかったんだ。ホストクラブの方がずっと楽だぜ。座ってジュース飲んでりゃいいんだからな」
「ぶつぶつ言ってないで働いてよ! ホストクラブなんかよりこっちの方がぜったい楽しいって。花子さんだって、みんなが来てくれてうれしいんでしょ?」
「まあ、さびしくはないけどね」
大きい花子さんたちは充実した日々を送っていた。
小さい花子さんがどれくらい小さいかというと、草むらに潜む名もない虫たちよりもさらに小さい。その姿を見た者はいない。小さい花子さんを見た者はみんなこの世から消えてしまうから。そんな人がいたのだという、人々の記憶とともに。
しかし、みんな少しずつ思い出してきていた。いなくなった子どもたちのことを。名前を口に出すことはなくても、ときどき、急にさびしくなることがあった。そういうとき、「天使が通った」と言わなければならないというルールがいつのまにか生まれていた。小さい花子さんは天使になったのだ。小さい花子さんに連れ去られる恐怖がなくなった代わりに、かすかなさびしさがいつもみんなのそばにあった。
みゆりとあいかは小学校を卒業したあと、別々の中学校に行くことになった。みゆりは近くの公立校に、あいかは少し遠くの私立校に。「学校が変わっても友だちでいようね」とみゆりはあいかに言った。しかし、少しずつふたりの関係性が変わっていく予感もあった。もう小学生ではないのだ。
みゆりはもうひとりぼっちではなかった。あいかと離ればなれになってしまったとしても、今はたくさんの友だちがいる。あいかの妹を助けたあと、みゆりとあいかはがんばって他の子たちと仲良くするようにした。駄菓子屋の花子さんという新しい噂を流すためには、なるべく多くの子どもたちと友だちになる必要があった。
「二階の女子トイレには大きい花子さんがいて、子どもたちのために駄菓子屋を営んでいるんだってさ」
ちっとも怖くない怪談を笑う人も多かったけれど、かえってそれが良かったのかもしれない。ふたりは意外と冗談が好きなのだと思われるようになって、少しずつ周りと打ち解けていった。「駄菓子屋の花子さん」は、怪談というよりも、無害な民話のようなものとして語り継がれていった。
小学校の卒業式のあと、みゆりとあいかは久しぶりにふたりで大きい花子さんに会いに行くことにした。別れを惜しむ人たちの群衆をすり抜けて、みゆりは図書室に行った。みんながいなくなるまでもう少し時間がかかる。それまで図書室で時間をつぶそうと思った。
読む本を選んで、いつも座っている窓際のカウンター席のところに行くと、ちょうどその隣の席にあいかが座っているのに気づいた。
「めずらしいね」みゆりは席に座りながら小声であいかに話しかけた。「いつもトイレの前で待ってるのに」
「いつもって、最近は待ち合わせしてないじゃない」あいかも声をひそめてみゆりに言った。
「まあね。最近は別々だから」
「いつまで待つ?」
「あと三十分くらいかな」
「わかった」
あいかが本を読み始めたので、みゆりも自分の本を読み始めた。しかしうまく集中できず、目は文字の列をただなぞっているだけのようだった。
窓の外に目をやると、下の方の中庭で写真撮影している人たちや、数人で固まって話し込んでいる人たちがあちこちに見られた。みゆりもあの中に混じりたいと少し思った。お別れのあいさつをまだ済ませてない子もいる。でも、ここにいようと思った。小学生最後の日は、あいかと一緒にいたかった。
楽しいときは、ちょっと苦しい。みゆりは、あのとき自分が言った言葉の意味を、折に触れ考えていた。そして、答えらしきものもすでに出ていた。それは、あいかと別々の学校に行くと決まったときから、少しずつ見えてきた答えだった。
どんなに楽しい時間にもいつか終わりがくる。みゆりは、あいかと友だちになって初めて本当の楽しさを知った。それまではひとりぼっちで、自分が苦しいということさえも気づいていなかった。廊下で、自分と同じようにひとりぼっちのあいかの姿を見かけて、あの子と友だちになろうと思った。しかしその時、少し胸が痛くなったのも覚えている。あの子と友だちになれたとしても、いつかお別れするときがくる。そう予感していたのかもしれない。楽しいときは、ちょっと苦しい。でもその苦しみを恐れていては、ずっとひとりぼっちのままだ。
みゆりは、あいかにたくさん話したいことがあった。別々の学校に行ってしまったら、あまり会えなくなるだろう。しかし黙っていた。ここは図書室だし、それによく考えたら、本当に話したいことはほとんどなかった。話したいことは、これまで何度も話していた。毎日毎日、よくもまあ同じようなことを飽きもせず話せるものだと自分でも呆れるくらい、みゆりはあいかと毎日同じようなことばかり話していた。その内容はどれも他愛のないもので、ほとんど覚えていない。しかし話した内容が問題なのではない。あいかと過ごした時間が、みゆりにはかけがえのない時間だった。
図書室で過ごすふたりの時間を、みゆりは少しでも長引かせたかった。春の暖かい日ざしの中、眠ってしまいそうなこの静かな時間。この時間のことを、わたしたちはこれから大人になっても思い出すことになるだろう。みゆりはそう信じていた。
みゆりは気づいていた。あいかもまた、本なんて読んでいないことに。さっきからずっと、同じページを行ったり来たりしている。何も言わなくても、あいかの気持ちはみゆりにはわかっていた。話すことはもうぜんぶ話したのだ。ふたりの物語は、もうここで終わっている。だから最後のこの空白の時間を、いつまでも楽しんでいたかった。胸の痛みを感じながら。
「そろそろ行こっか」あいかが言って、本を閉じた。
「うん」みゆりは言った。すでに一時間が過ぎていた。
そしてふたりは立ち上がり、本を書棚に戻すと、一緒に二階の女子トイレに向かった。廊下にはもうほとんど人が残っていなかった。ふたりは手をつなぎ、廊下の真ん中を歩いた。女子トイレに入り、奥の個室の前に立って、とんとんとん、とみゆりが三回ノックした。
「花子さん、花子さん、どうかここを開けてください」
ふたりは声をそろえて言った。
大きい花子さん、小さい花子さん 残機弐号 @odmy
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