最終話


彼の心はその時、完全に少年に戻っていた。


ただただ脳内には、母という言葉が飽和していたばかりで、涙の色も幼かった。


しかし、彼は心の底で安心していた。


自分はいよいよ、母に一度も愛されたことがなかったのかもしれない。


意識は出来ずとも、彼の中にはそのような絶望の影が常に存在していて、それはこれまで、彼の無意識を強く蝕み続けていたのだ。


その呪縛から、ようやく解き放たれることが出来た彼は、自分の体が以前と比べて信じられないほど軽くなったのを感じていた。 




それからふと、彼は星空を見上げた。


依然として、そこには美しい夜空が拡がっていた。


それから目を閉じて、彼は久しく、こんな想像をしてみたりした。


青白い星たちの光に囲まれながら、自由に夜空を飛び回っていると、同じように空を飛ぶ一人の少年と、僕は出会う。


彼は自らを星の妖精と名乗り、云うに、僕の願いを一つだけ叶えにきたのだという。


けど、僕はこう答えた。


「願いなんてないさ。だって、もう僕は空を飛ぶことができているのだもの。」


それは、本心なんだ。

 

しかし、彼はどうしてか、僕のことを僕よりも多く知っていて、その後に、


「本当に?もう一つだけあるだろう?」


と僕に尋ねた。


僕が、そんな気がするような、しないようなと胸中を探っていると、彼は、


「じゃあ特別に、ヒント。君が公園の遊具の中で、一番好きなものは何だい?」


といった。


それに対して僕は、もちろんとばかりにこう答えた。


「ブランコ!」


我ながら、子供のような返答に、少々顔を赤らめつつ、僕は答えた。


その瞬間僕は、すべてを悟った。


だから言った。


「ねぇ、僕、もう一つの願い、分かったよ。」


「ほう、それじゃあなにか言えるかい?」


「うん、それはね…」



そこまで考えたところで、閉じていた瞼の裏が、突如まばゆい光に包まれたのを彼は感じた。


彼はそれから、恐る恐る目を開いてみた。



するとそこには、信じられない光景が広がっていた。


そこにあった彼の身体は、まるで想像の世界で見た星の妖精のように青白く、光り輝いていたのだ。


彼は、「宝石箱を開けてしまったのかもしれない、すごい。」などと、これまた子供っぽいことをしきりに思った。


彼はそれから、「羽もない。足も動かない。しかし、魔法が僕を空に運ぶ。」というイメージを頭の中に浮かべた。



すると、しばらくして彼の身体は、イメージした通りゆっくりと、遠い夜空の底に向けて浮かび上がり始めた。


彼は、驚かなかった。


何故なら彼はその景色を、想像の世界で何度も夢見てきたからだ。


代わりに彼の心は、羽が生えるような身軽さに包まれた。


少しずつ小さくなっていく街を眺めながら、彼は「街にも星空はあるのだな」と考えたりした。


赤があったり、黄色があったり、白があったり点滅していたり、むしろそこには、星空よりもいくらか個性的な光景が広がっている。


そんな意外な事実に、彼は今更驚いた。


そして、彼はまた、こんなことを想像したりもした。


もしかしたら僕らの見ている星空のむこうにも、実はこのような街が存在して、そこには沢山の生き物が生きていて、


僕たちが星と呼ぶそれは、つまりはその世界における街明かりなんだ。


そこにおいては、僕たちが住んでいるこの街こそが、空と呼ばれていて、夜になればそれは星空へと名前を変える。


そして、僕らと同じように、そこにいるみんなも、彼らにとっての星に、思い思いの願いをかけるんだ。


その願いと願いが呼応し合って、ぶつかり合って、膨張して、花火のようにぱっと弾けたときに、僕らの夢は実現するのかもしれない。



それが本当のことだったら、どれだけ素敵なことだろう。



夜空の頂上に達した頃、彼は気がつけば、すべての挫折を乗り越えていた。


それからは、彼にとって本当にあっという間の時間だった。


彼が空を自由に飛び回り始めたときら既に空は朝の白みを見せ始めており、それほど長い間彼の夢は続かなかった。


しかし彼は、最後の星が白みに溶け切る瞬間まで、空と宙の狭間の藍の世界をただただ夢中で飛び回り続けた。


その様子を見た者が存在したのかは、誰にも窺い知れはしないが、もしそれがあったとすれば、その者は彼の姿を流れ星と呼んだことだろう。






────気がつけば彼は、車椅子の上に戻ってきていた。


目を覚ました時は、世界は完全に朝を迎えており、彼は辺りに多くのカラスが鳴く声を聞いていた。


しかし、空を見ると、何故だろうか?



日の登りきったはずの空に、一粒の星が依然として浮かんでいるのを、彼は見つけた。


その星は、見つけたと思えばすぐに消えた。


彼はまるで、幻を見たような気分になった。


しかし次の瞬間、彼は彼の足元に僅かな光が掠めたのを見た。


またもや彼は気のせいかと思った。





それから彼は、母親に会いたいと思った。


会って、ただ一言、「ありがとう」と伝えたいと思った。


思うと自然と、身体が前かがみになった。

 



あの日踏み出した勇気と、絶望の一歩が、

母の願いが、ここまで僕を運んだのだとしたら、僕はこの先の人生を自分の足で歩んでいかなければならない。


どれだけ苦しくっても、辛くっても、もう二度とその思いを裏切らないように。


地べたに這いつくばりながら彼は、そんな事を考えていた。


すると、ふと彼の中に、か細い母の声が蘇ってきた。


「生きて」


もう、顔を思い出すことも出来ない。


声だって、あの日よりも隨分か細くなった。


しかし彼は笑って、泣いて、「生きるよ」とただ一言答えた。


倒れ込んだ車椅子。倒れ込んだ身体。


倒れ込んだ心。倒れ込んだ視界。


そして、倒れ込んだ世界。



次の瞬間すべてを起こしたのは他でもない、止まったはずの彼の両足だった。

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星を流す少年 ナナ @hosino18

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