第6話


「もうそろそろ、開けてもいいか?」


これといった変化が起こらないことに疑問を感じた彼は、星に向かってそう尋ねた。


しかし、星からの返事は、しばらくの間をおいても帰ってこなかった。


だから、彼はもう少し大きな声で言った。


「おい、聞こえてないのか?もう開けていいかと聞いてるのだが。」


結果は同じだった。


それから痺れを切らした彼は、ついに、返事を待たずして瞼を開けてしまった。 


そのとき彼は、心の中で悪態をついていた。しかし、そのモノローグが最後まで読み上げることは決して無かった。


まぁ、そうだよな。願いを叶える星なんて、そんなものがこの世にあるわけがない。お幸せな妄想はここまでにして、そろそろ帰るとしよ────



視界が開けた瞬間に、彼は堪らず息を呑んだ。


また、その時初めて知ったようだった。


人間は、本気でなにかに感動したり、心を動かされたときには、黙る。


黙って、考えることをやめて、感じることに専念する。


はじめから、そうプログラムされた生き物であるということを。



そこには、いつしか見たはずの、満天の星空が広がっており、加えて彼は、自らの世界に色が戻ったことを、この時初めて知ったのである。


彼の全身は、全身全霊に震えていた。


心は、世界と自分との境界線が溶けてなくなるほどの、強烈な熱を持った。


ただ、感動したばかりではない。


その景色を通して、青年は自らの脳内で爆発的な記憶の再生が行われていくのを、その時全身で感じていたのだ。


何が起こったのかは、彼には全く分からなかった。


しかし一方で、彼の中にはその時、とある二つの確信が生まれていた。


そのニつとは、自分は長い間、止まった時の中を生きていた呪いの国の住人であったということと、その止まった時は、どうしてか今この瞬間に再び動き始めた、ということだった。




それからしばらくが経って、彼はすべての記憶を取り戻した。


その頃ようやく彼は件の星のことを思い出し、同時に自らの願いがそれによって叶えられたということにも気がついたらしかった。






思うところは、語りきれないほどあるはずだった。


しかし彼はその時、たった一つ、いや、たった一日のとある日のことを思い出していた。



「お母さん…。」







────あの日、彼がビニール袋を片手に自宅のドアを開けると、無人であるはずの玄関に、人影があった。


彼は一瞬、酷く驚いた。


しかし、その影の正体が判明してからは、一転、ある程度落ち着きを取り戻した。


何とそれは、彼の母だった。


そして彼女は、いつもの無表情ではなく母親らしく朗らかな笑みを少年に対して向けていたのだ。


その様子に戸惑いを覚えつつも、少年はそれから、母の言葉を聞いた。


「今まで、ちゃんとしてなくてごめん。上手く言えないけど、これからは私、頑張るから。一生懸命、あんたのこと守るからさ、その…」


間が空いても、少年は黙って聞いていた。


いや、何も言葉が出てこなかった、という方が、正しかったのかもしれない。


「あんたの母親、名乗っていいかな。」


少年はその言葉を聞いて、からだがすっと軽くなったのを感じた。


それから初めて、少年は母の温度を知った。


そして彼等は、二人でリビングに戻ると、仲良く地べたに座り込んでショートケーキとシュークリームをそれぞれ、半分個ずつ食べた。


その日は、少年の誕生日だった。


ロウソクはなかったが、少年の心は今まで生きてきたどんな夜よりも温かかった。


そして、それから二人は、少年の「お母さんといっしょにお出かけをしたい」という願いの元に、少しの間深夜の街を、散歩することになった。




あるき始めた瞬間の彼は、まさか、平静な母の声を聞くのが残り数度であるだなんて、この時は思ってもいなかった。


買い物を終えた彼等は、特に言葉を交わすこともなく、手を繋いで帰路についていた。



その間に、事件は起きた。


はじめに殴打を受けたのは、母親の方だった。


鉄パイプのようなもので脳天の辺りに殴打を受けた彼女は、それから直ぐ、街灯の下に倒れ込んだ。


少年が見た時には、彼女はもう、動かなくなっていた。


そして、何もかもが呑み込めない状況の少年は、その後何者かに拘束されて、道路脇に止められていた見知らぬ車に連れ込まれ、誘拐をされそうになった。



しかし、ギリギリのところでそれは食い止められた。


気を失ったと思われていた彼の母が、車に乗り込みかけた男の首元に、必死の形相で喰らいついたのである。



先程の殴打で、既に母親は平衡感覚を失っていた。


だから、男の体に無闇にしがみついて、必死に歯を突き立てることぐらいしか、抵抗は出来ない状態だった。


しかし、いくら男とはいえ、首元に食らいつかれたことには大いに怯んで、その隙に少年の身体は自由になった。


男とともに開いていたドアから車内に縺れ込んだ母親は、それから小さな声で、


「逃げて。」


と何度か溢した。


その目は既に少年を捉えていなかったし、次第に声もか小さくなっていたが、彼女の意思は、確実に少年の元に届いた。


そこからは、夢中だった。


そのか細い声は、眼の前で起こる悲劇を前にして尚、幼い少年の身体を突き動かしたのだ。


少年はそれから、座席の縁あたりで倒れ込んでいた身体を起こすと、分け目も振らずに車外に飛び出そうとした。


しかしその直前、伸ばされた男の爪が少年の首元に強く突き立てられた。


少年の首元には激痛が走った。


それでも少年は諦めなかった。


なんと少年は、食い込んだ爪を剥がそうともせず、そのままの勢いで全身の体重を前にかけ、男の手中を免れたのである。


その勢いで車外にに転がり出た少年は、それから一瞬振り返った後に、無闇に夜の街を駆け回った。


痛いとか、怖いとか、助けてほしいとかより前に、少年は悲しかった。


だから、少年の視界は涙で滲み尽くしていた。


しかし、本当の悲劇はそれから起こった。


なんと、その後少年は、とある道路に飛び出した拍子に、通りかかった軽トラックに跳ね飛ばされしまったのである。


薄れゆく意識の中で少年が最後に聞いたのは、反した方向に遠ざかる、2つの激しい走行音だった。











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