第5話


青年が目が冷ましたのは、彼が眼の前にいるもう一人の自分のこれからについて、くるくると考えを巡らせていた最中だった。


記憶を取り戻すことによって、青年の日常や精神には、はたしてどのような変化が起こっていくのか。


青年の中での自分、つまりは、少年の人格の位置付けは、今後どう変化していくのだろうか。


そんなことを彼は、実はひどく気にしていた。


少年の人格は、青年が自らの脳内に二つの新たな人格を形成したあの日、つまり、青年の顕在意識から突如弾き出されたあの日からずっと、彼の潜在意識の奥深くに鳴りを潜めて、そこから青年の動向を第三者的な視点から見守ってきた。


そのため彼は、記憶を分割し合っているその他2つの人格よりも、自分の肉体を取り巻いていた状況の正確なところを把握し、記憶していたのである。


まさかその記憶が、こんな形で役に立つとは夢にも思っていなかったらしいが。



「目が覚めたようだね」


少年の人格、というと少々ややこしいので、ここからは仮に彼のことを「少年」と呼ぶことにしよう。


最も彼が生きてきた年数を数えれば、彼のことを少年と呼ぶことには多かれ少なかれ違和感を感じることは確かだが、あくまで仮にだ。


さて、これまでの青年の顕在意識からは、事故以前の記憶と事故にまつわるすべての記憶とが完璧に欠落していたわけだが、


それを突然全て認識した青年が、それからどのような反応を見せたのかというと、


なんと青年は、不思議なことに涙を流していた。


「嘘だ…。」


「嘘じゃないよ。受け入れがたいかもだけど、全部本当にあったことなんだ。」


少年は何もない真っ白な空間をぼっーと見つめながら言った。


「僕は、ずっと逃げ続けてたっていうのか?」 


「そうじゃない。こういう状態を作ったのは、君自身じゃなくて、君の、いや、僕らの共有している潜在意識そのものなんだ。」


「悪いがすぐにはのみ込めない…」


青年の心中では、激しい葛藤が起こっているようだった。




そしてそれから青年は、呟くように少年に聞いた。


「それじゃあ君は誰なんだ。」


「分かってるでしょ?それともはっきり言葉にしたほうが整理がつけやすいかな?」


青年はしばらく放心したような様子を見せた後に、「いや、いい。」


と言った。


それから少年は、慰めがてら青年に言った。


「気休めにしかならないかもだけどさ、君は何も悪くないと僕は思うよ。悪かったのは世の中の…。いや、どちらかと言うと、世の中のことを何も知らなかった僕の方なのかもね。」


もちろん少年もそんなことを本心から思っていた訳ではなかった。


ただ、彼はそうではない、と誰かにそれを否定してほしかったのかもしれない。


実際に、それに対し青年が


「いやいや、それは違うだろう。」


と食い気味に返した時、少年の心は妙な安心感を感じていた。


それから青年が言った。


「これから僕は、どう生きていけばいいんだ。」 


「それを僕も、ずっと考えてたんだけど…」



少年は、そこから先言葉を見つけられずにいた。


するとまた、青年が聞いた。


「君は、どうなるんだ?」


その質問に関して言えば、少年は確信はなくとも、答えを持っていた。


「多分、今までと同じ。僕はずっと君の中にいたんだ。また君の意識の一部として、君の中を生き続けることになるだろうね。ただ、」



「ただ?」


「これから先は、もしかしたら僕らの意識は、人格の境界線を廃して、一つに統合されることになるかもしれない。」


君の意識がどう変わったかにもよるかもだけどね。と少年が付け加えると、青年は「どうなるのがいいのか、さっぱり分からない…」と言った。


当たり前だ。今まで放置されてきた問題が、それほど簡単に解決すれば苦労はしないだろう。


少年は心のなかでそう呟いた。


しかし口の上では、


「まぁしかし、余り難しく考える必要はないよ。迷ったときほど、直感に身を任せてしまえばいいんじゃない?」


と、青年を励ますようなことを言った。  


それから後ろを振り返ると、こうも続けた。


「まぁ恐らく、ここでこういう事があったことは、忘れることになるだろうね。」


「やっぱりそうなのか。」


「君もそう思う?」


「ああ、上手く言えないが何となく。」


「奇遇だね、僕もだよ。」


少年がそう言うと、青年はその後、突如として大声を出した。


「そういえば!」


見ると、青年は自らの手を、その顔面に向かって強く押し当て続けていた。


「色が、戻ってる!」


「えっ…、まじ?ってか、今更気がついたの?遅くない?」


青年の驚き様に動揺したのか、思わず少年の口調もポロポロと砕けてしまった。


しかし、それから少年は自らの服装を見て、妙に納得した。


「凄い、これが色か。」


「ああ、なるほど…。」


入院患者が身につける白衣に、血の気を失った色白の肌。


それに、一面真っ白な空間。


「ここはほとんど白しかないもんね…。」


「そういうことみたいだ、お前のその、首にある傷を見て、今気がついた。」


青年はそれはもう興奮した様子で、まくしたてるように言った。


どうやらここでの身なりは、自分に対するセルフイメージを元に作られているらしい。


その証拠に、気がつくと青年の首元にはそれと同じものであろう傷跡がじわりじわりと浮かび上がり始めていた。


「あまりいい思い出とは言えんな。」


「うん。でも、思い出せて良かった、よね?」



二人の間に沈黙が流れた。



それを破ったのは青年だ。


「まあ何にせよ、それのお陰で気がつけた。終わりよければ全て良しってことで、とりあえずはいいことにしよう。」


「へぇー。さっきまでと比べてやけに前向きな考え方だね。そんなに色に感動したの?」


「ああ、それはもう感動なんてレベルじゃない。比喩抜きで、世界が魔法にでもかかっちまったって感じだ。同じ白でも、意識してからは見え方がまるで違う。」


少年は、青年が事故のショックにより色を失っていた最中も、変わらず色のある世界を眺め続けていた。


つまり、同じ体をを共有した人格同士でも、その人格の持つ意識によって、世界の見え方はまるで変わるということだろう。


少年は、そのことをずっと不思議に思ってたことを、その時思い出した。


それから、未だ興奮冷めやらぬ様子で青年が言った。


「ここで色が戻ったってことは、あっちに戻っても、そういうことか?」


青年はまるで、その是非を少年が知るかのような尋ね方をした。


もちろん少年にも、その是非は知れたことではなかつたが、あまりにその様子が真剣そうだったので、少年は期待を込めて、


「やれることが多くなりそうで、良かったね。」



と答えた。


その頃には、気がつけば青年の表情からは深刻さがすっかり抜けて、むしろ彼の雰囲気は明るくなり始めてさえ少年には見えた。


だから、少年は彼に尋ねてみた。


「ある程度は記憶の整理か付いたてきたのかな。」


青年は言った。


「お、そう言えば、おかげさまで。」


少年は、少し恥ずかしそうに頭をかく青年に向かって、それから思い切ってこう聞いた。


「で、思い出した上で聞きたいんだけど、肝心な、君にとって思い出さなくちゃいけないことって、一体何なんだったの。」


少年は、その正体だけは未だ突き止められていなかった。


だから、それから返された答えを聞いて、少々驚いた。


「いや、な。過去全般を思い出したかったってのも、おそらくあるんだけど。」


「けど?」


「僕は多分、かつて僕の中にいた君の存在を思い出そうとしてここに辿り着いたんだと思う。上手く言えないけど、そんな気がする。」


その言葉を聞いて、少年は確信した。



「それを聞くと、尚更君の人生はここから前に進んでいく気がしてならないね。安心したよ。君が記憶の負荷に耐えきれずにおかしくなってしまったら、ってことも一応、考えてはいたからさ。」


「そうだったのか。悪かったな。」


少年はかぶりを振った。


そしてそれから、青年の目をまっすぐに見つめてこう言った。


「僕らは一度、地獄のどん底に落ちた人間だ。しかし、だからこそ、一度それを乗り越えた今、これから先はきっと、何があっても前を向いて生きていくことが出来る。それは、ここでの記憶を失って向こうに戻ってからも、きっと変わらないよ。」



「ああ、そうだな。」


そう返す青年は、既にとても寂しそうな顔をしていた。



気がつけば、その空間は次第に崩れ始めており、少年の体も、着々と青年の視界から消え入り始めていた。


「じゃあな。」


「じゃあなって、別に、恒久のお別れってわけじゃあないよ。むしろ僕はきっと、これでやっと正式に、君の中に帰ることができるんだから。」


「そうとも言えるかもな。」


二人はそれから、がっちりと手を握り合った。


しかしその時、少年の瞳にはもう、青年の顔は見えていなかった。


しかし、続けた。


「本当、今まで長かったよ。実のところ僕はさ、偶には君のことを見て笑ったりもしてしまったんだけどね…。」


「別れ際に、言うことじゃないな。」


それを最後に、


声ももう聞こえなくなった。


それでも、少年は続けた。


「それでも僕は、何だかんだ、君が好きだったかな。」


最後に、握りしめた手の感覚も消えて、


次の瞬間、少年の意識は完全に途切れた。

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