第4話


赤信号など目にも入らないといった調子でするりと横断歩道をすり抜けると、少年は手に持ったビニール袋を街灯の明かりに透かし見て、小さく微笑んだ。


先程まで、少年はとある事情があって大変不機嫌であった。


にもかかわらず、現在はすっかり心が晴れたようなご様子だ。




少年が機嫌を直した秘密は、恐らく彼の右手に持つ、ビニール袋の中にある。



何かというと、その中には彼の大好物であるショートケーキとシュークリームが入っているのだ。



因みにこれが、今夜の彼の夕食らしかった。


最も時刻は等に丑三つ時を回っているため、夕食と言うには、あまりに遅すぎるのだが。



というのも、彼の家庭は母子家庭で、深夜になるとその母も夕食代だけを残して、人気の少ない夜の街に消えていってしまう。


彼の母は、水商売によって生計を立てる類の女だった。


そのため彼は、ある頃から深夜になると、無人の家に一人取り残される、ということが多くなった。


しかし、世間の常識を未だ知らぬ彼のような少年にとって、母親のいない深夜の時間帯というのは、どちらかと言うと特別な時間だった。



母親の外出を見届けると、少年は決まって、ある公園を訪れる。


そこで遊び呆け、飽きてきた頃には近所のコンビニエンスストアに寄って、母親が置いていった金を使い好きな物を買い、自宅に帰ってそれを食べる。



余った時間は母から買い与えられた絵本を読むか、特に何をするわけでもなくぼっーとしたまま過ごす。


そして、朝方になれば玄関前に待機し、チャイムが鳴ると同時に仕事帰りの母を笑顔で出迎える。


これがその頃彼が送っていた当たり前の日常だった。


彼と同じような境遇に置かれた子供の多くがそうであるように、たとえ世間にとってそれがどれだけ異常なものであったとしても、生憎彼には、そのことを知る余地が一切なかった。


だから、その日も彼は通常通り、自分にとっての当たり前の日々が当たり前に続いていくのだろうと信じて、何ら疑わなかった。



しかし、彼のもつ当たり前の世界は、突如その日をもって一変することとなった。


いい意味でではない。


むしろ、最悪の意味でだ。


彼はその日、コンビニエンスストアからの帰り道で、交通事故に遭ったのだ。


撥ねられたのが軽トラックであった事もあって、命に別状はなかった。


しかし彼はその事故によって、唐突に多くのものを失うこととなった。


下半身不随、心因性の色覚異常、事故直後に起きた母の行方不明。



つまり彼はこの事故によって、歩行の自由と、色と、母親の三つとを同時に失うことになったのだ。


いくら世間知らずの彼といえども、これらを同時に失うことのショックは頭を凝らさずとも、簡単に自覚することが出来た。



少年はそれから、とある近所の病院に長期の入院をすることになったのだが、そこで彼は完全に周囲の人間に心を閉ざし、食事や睡眠すらまともに取らなくなってしまった。



しかし、数ヶ月の間そんな調子であった彼が、突如として、特に何の前触れもなく、固く閉ざされた口を開いた瞬間があった。


それに不思議なのは、ただ口を開くばかりでなく、それからの彼の口からは、必要以上の言葉が飛び出してくるようにすらなったらしいのだ。


周囲の人間は、まるで人が変わったようだとひどく驚いた。


そのころには、今まで彼が沈黙によって拒否していた、車椅子での移動訓練も問題なく始められるようになっていた。


更に周囲の人間たちは驚いた。




しかし実のところ、これには理由があった。



周囲の人間の顔や名を覚えていたり、パニック症状などが比較的現れにくいことを見るに、記憶喪失の線は考えにくい。であれば一体、彼の脳内では何が起こったというのだろう。


担当医は、始めの内は皆目見当がつかないと言って、しきりに頭を悩ませていた。


しかし、何にせよ口を開いたのは良いことなのだから、しばらくは余計なことにならないように、黙って彼の話だけを聞いてあげなさいと、医者は少年の看護に関わる全ての人間に伝えた。


実のところはというと、医者の見解通りそれは、記憶喪失ではなかった。


しかし、少年の中では、実際に「人が変わる」という現象がこの時ほとんど起こっていたのである。


そしてまもなくして、周囲の人間にもそれは察せられた。




どういうことかと言うと、端的に言えば彼は、自らの脳内に新たな人格を作り上げたのである。


正確に言えば、一つの精神を二つに分割した上で、それぞれを独立した一つの人格として扱っていくために必要な手続きを、彼は数ヶ月の沈黙の中で済ませた、ということになる。


事故にあってから、彼の中には、相反する二つの欲求が存在し、せめぎ合っていた。


その欲求とは、彼を襲った絶望的な状況がもたらした「消えたい」という逃避欲求と、生物としての根源的な本能が生みだした「生きたい」という生存欲求だった。


要するに彼は、この二つの相反する欲求を新たな核として、脳内に元の人格とは異なる二つの人格を生み出したのだ。





「逃避」と「生存」。



新たに生み出された人格の名をそれぞれそう呼ぶとすれば、二者同士の利害は、はじめから完璧に一致していた。


「逃避」の人格は、「生存」の人格にこう求めた。


表の世界での判断はその一切を君に任せたい。僕はもう二度と表に姿を表したくないんだ。悪いが金輪際、裏で深い眠りにでもつかせてもらうよ。でないと今にも気が狂いそうなんだ。


「生存」の人格は、「逃避」の人格にこう求めた。


わかった。しかし代わりに、この脳に焼き付く悪い記憶の全部を君が引き受けてくれやしないか。そうなれば、こちらもいくらかやりやすくなる。


無論、二つの人格は、互いの利害を尊重し合う形で早々に手を打った。


つまり、数ヶ月の沈黙の末に口を開いて以来、彼の顕在意識には「生存」の人格のみが現れていたことになる。


そして、こちらの人格は事故にまつわる記憶の一切を持たず、新たに記憶もしなくなっていたがために、彼は突如として人が変わったように、生きる力を取り戻したのだ。


また、先程も言ったように、これは彼の無意識が彼の体を生存させていくために半ば自律的に起こした現象であり、彼本人の意思によって自覚的に行われたことではなかった。


外側の人間からしてみれば、その点が何よりも厄介だった。


彼らからしてみれば、それからの彼は、自分にとって都合の悪い情報に対して、一貫して拒絶の姿勢を見せ始めた厄介な健盲患者という風にしか写らなかったのだ。


表には出てきていないが、彼の中にはもう一つの人格が存在していて、事故やそれに類する自らにとって都合の悪い情報は観測と同時にすべてそちらに送り込まれる、などという摩訶不思議な構造が彼の脳内には構築されている。


その様な珍奇な真実を知る人間は、当人を含めて一人も存在しなかったのだ。



おまけに、都合の悪い話をしている時の彼は死んだような顔をして黙り込んでいるのに、しかしそれが一通り終わればまるで今目覚めたとでも言わんばかりな白々しい態度で生気を取り戻し、それからは活発に口を回す、何てことも頻繁に起こりがちなものだったのだから、周囲の人間は彼を持て余した。




実際彼の中ではその時の記憶はないも同然なので、彼は不規則に点滅する街灯のように、断片的な現実の中を生きていたに違いなかったが、自覚も記憶もない以上は、彼にはそれを説明する気も機会も起こるはずが無かった。




そして彼は、周囲の人間から知らぬ間に疎まれつつ、気味悪がられつつといった調子のまま、とうとう二十歳を迎えた。


彼はその日を幻想の丘の高台公園で迎えた。

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