急停車

白川津 中々

◾️

「吐きそうなんだ、席を譲ってくれ」


満員電車内、吊り革にぶら下がる男がそう頼んだ相手はスーツ姿の中年サラリーマンだった。


多少不躾ではあるが面と向かって頼まれたら断れないのが人情。事の真偽は不明だが、まっとうな倫理観があれば普通譲る場面である。周りにいる乗客達も、着席起立が入れ替わると誰もが考えていた。



「いや、無理ですね。ちょっと疲れていて」



ところがどっこいまさかの拒否。

無慈悲。



このスーツの冷酷なる返答。一見すると人の心があるのかと疑われる所業であるが、そのバックボーンを知れば多少の共感を得る人もいるだろう。彼は毎晩遅く、毎朝早くのビジネスパーソン。こき使われて年中無休。365日クタクタ。朝の通勤時間に着席できた幸運を手放すなどできるはずもないのだ。


だが、男も男で吐き気催し中であるから、「分かりました」では済むはずがなかった。



「なるほど、では、あんたの膝の上に半消化された昨日のおかずをプレゼントする事となるが、いいかな」


「いいわけないじゃないですか。馬鹿かあんた」



無法な取り引きにスーツは語気を強める。しかし、男も引き下がるわけにはいかない。白熱の応酬が開始される。




「しかしこの状況、非常にまずい。あんたの都合に関わらず、このままでは確実にやらかす。悪いが近いうちにその安いスーツがお釈迦になるぜ」


「失敬だな君は。次の駅で降りて休みなさいよ」


「悪いが仕事がある。出勤しないとまずい。怒られる」


「知らないよそんな事は。とにかく駄目。無理。疲れているんだ毎日毎日働いて。いい加減にしてくれ」


「何故そう頑なに拒否する。よく考えてくれ。あんたが退けばゲロの被害に遭う事はないし俺は座れる。Win-Winじゃないか」


「一方的なあんたのWinだろう。私にメリットがない」


「なるほどじゃあ買うよ、その席。2000円でどうだ」


「……なんだって?」


「席を買うと言ってるんだ。どうだ。2000円あれば今日のランチが少し豪華になるぜ。悪い提案じゃないだろう」


「……」


男は迷っていた。薄給多忙。マイホームマイカーに育児費用。切り詰めても切り詰めても困窮の毎日。一日500円の小遣いはサラリーマン御用達のワンコイン定食を頼めば終わり。それが2000円。2000円である。2000円あればラーメンセットに餃子と唐揚げをつけられるし、分割した場合一カ月の間100円を自由に使う事もできる。普段気軽にガムも買えない状況で、この男の提案は魅力であった。



「ぼやぼ、や、するなよ。時、間は、刻一刻と過ぎ、ていく。こ、のままではあんた、何も得る事なく損、だけ、被るこ、とになるぜ」



冷や汗をかき妙なところで声が区切れる男の語りにスーツは青ざめた。誰が見ても限界が近い。決断を誤れば死である。





「……分かった、この席を……っ!」




スーツが席を立とうとした瞬間だった。大きく揺れる連結車両。満員御礼の車内は鮨詰めの状態で慣性ダメージを受けところどころで悲鳴が漏れた。そして。



「ロロロロロロ……」



にんじん、じゃがいも、たまねぎ、ぶたにく。元はカレーか肉じゃがか。男の口から吐き出される半消化された昨晩の夕食。立ち込める異臭。グロシーン。辺りは騒然。スーツの膝は見るも無惨。全てが台無し。考え得る中で最悪の結末となった後、ようやくアナウンスが静かに流れた。



「ただいま線路内人立ち入りのため急停車いたしました。ご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません。安全確認ができ次第発車いたします……」

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