第2話 波

 島に引っ越してきた次の日の朝、洗濯物を干す物干しがないことに気づいた。時々、レンタルで借りて見ていた古い日本映画のようにベランダではなく庭に洗濯物を干すことに憧れていた。

 物干しってバスでは駄目よね? 持って帰ることはできないよね?  やっぱりネット通販かな? と思いながら庭に出ると

「おはようございます」

と軽自動車を道路脇に停めた良太さんが庭まで歩いてきていた。

「朝早くにすみません。夕方に仕事が終わるんですけど、何か買い忘れがその後であれば僕が車で連れてゆきますよ」

 思わず『物干し!! 』と言いそうになったけれど、彼でもない良太さんに甘えていいわけはなく私は

 「大丈夫ですから」

と良太さんに頭を下げた。

 すぐに去ってゆくと思っていた良太さんは

「迷惑ですか?  こうやって僕がくること? 」

私に向けて突然、聞いてきた。

「役場の人でもないし、年齢も近いので、噂になったら良太さんが大変だと思います」

「僕は構いません。ただ、お願いがあります。買い物とかで節子さん困ったことがあればが僕が手伝うんで、あのおにぎりと豚汁をまた食べさせてください」

「えっ? おにぎりですか? 」

「はい、節子さんのご飯がまた食べたいんです」

「わかりました。それなら物干し台を買いたいんです。そのかわり、おにぎりと豚汁は用意しときます」

 私は豚汁の下ごしらえをした後、華奢だけど大きく口を開けてガツガツと食べていた良太さんの姿を思い出して小鍋に玉ねぎと牛肉だけのカレーも用意した。


 その日、夕暮れになって良太さんは汗だくでやってきた。

「節子さん、遅くなってすみません。まずはホームセンター行きましょう」

そう言われて私は助手席に乗った。

「あのう、良太さん、本当に彼女じゃないんで気を使わないでくださいね」

 私がそう言うと

「『彼女じゃない』なんて、あんまり言わんでください。嫌な気持ちになります。あっ、ごめんなさい。ほんまに聞かんかったことにしてください。すいません」

 独り言のようにハンドルを持って前を向いたままつぶやいた。

 ホームセンターに着いて物干しとか重たい洗剤を買って駐車場の車に戻ろうとした時、

「市内から来た売春女が島の若い男をふりまわすな!! 」

  突然、見ず知らずの女の人が私に向かって叫んだ。私は聞こえないふりをして

「こんにちは」

と女の人から目をそらして挨拶をすると

「だから、売春女がふりまわすなって言っとるんよ。わからんのん? 」

 私が黙っていると彼女はさらにエスカレートして『よそ者が振り回すんじゃないよ!! 』手に持っていた箒を私の方へ向けた。自販機で飲み物を買おうとしていた良太さんが様子に気づいて慌てて走ってきた。

「売春女なんかじゃないですよ。この人は原田さんです。失礼なこと言わんでください。これ以上言うと僕が許しません」

 彼女は私を睨みながら渋々、 自分の車へと戻って行った。

「節子さん、気にせんでくださいね」

「噂には聞いてはいたんですけど、まだこんな風に移住者に文句を言う人がいるんですね。彼女からみたら私は売春女に見えるんですよね? 」

 私が聞くと良太さんは慌てて

「それだけ魅力的に見えるってことです。多分、嫉妬じゃないでしょうか? 」

と飲み物を買おうとして用意していた小銭をまた作業着のポケットの中に戻した。


 家に着いてから良太さんは庭で物干しセットを組み立てて、私は豚汁をあたためながら、おにぎりをにぎった。 物干しが完成して良太さんが縁側に腰掛けた時、日はすっかり落ちていた。蚊取り線香を置いた縁側に腰掛けてグラスにそそいでいた麦茶を一気に飲んだあとがっつりと美味しそうにおにぎりを食べる良太さんを見ていたら、なぜか満潮のような気持ちになった。

「ほんま、うまいですよ。節子さんと一緒に暮らした人はこんなご飯が毎日食べれるなんて羨ましいです」

  あまりにも素直に言われるので、私は何をどう返事していいかわからず、ただ波だけが光る暗い海を見ていた。

「良太さん、もしまだお腹が減っていたらカレーも少し用意しています」

私が言うと

「もちろん、食べます」

と返事して温めなおした1人分のカレーも唇にご飯粒とカレーをつけながらあっという間に食べた。

「ごちそうさまでした」

「こちらこそ、助かりました」

 食べた後ですぐに帰ると思っていたら

「節子さん、なんでこんな島で暮らそうと思ったんですか? なんもないですよ? 節子さんはやっぱり都会が似合う気がします」

 縁側に腰掛けたまま、器を片付けようと立ち上がった私に聞いてきた。私ももう一度、縁側に座り込んで

「良太さんはここに住んでるからここの良さが当たり前になってるんです。私はここの景色が好きです。特にここから見える目の前の海がとてつもなく好きです。私は誰かと暮らしたいとか何かが強烈に欲しいとかそんな気持ちがないので自然の中でできれば静かにゆっくりと暮らしたいだけです。そこに誰かと一緒に暮らしたい気持ちは今は私の中にはありません」

 良太さんに思いを伝えた。

「ほうなんですね。僕が入る隙はないんですよね? 」

「良太さん、昨日の今日ですよ?  そんなに好きになりますか?  」

「はい、僕はめっちゃ好きです」

 あまりにも純粋に目を見てはっきりと言われたのでドキッとしたけれど

「昨日の今日で私にはまだよくわからないんで、とりあえず保留にさせてください。でも、ちゃんと考えときます」

 そう返事をすると

「お願いします」

と立ち上がった後、私に向けてお辞儀をして良太さんは帰って行った。

 台所で器を洗いながら不思議な気持ちになった。海を見てのんびりと暮らしたいだけだったのに。突然、ストーカーみたいに言い寄られたり、母が言われたように売春女と箒を突き付けられたり、洗い流すつもりが余計に何かまた新しい汚れが自分にくっついたような気持ちになった。


 次の日、今度は役場の移住の担当者の方が『どうですか? 困ったことはないですか?  』

とやってきた。私は恐る恐る

「良太さんってものすごく親身になってくれるんですけど、どんな方ですか? 」

と聞いてみた。

「西田良太ですか? 」

「そうです、ここに手伝いに来てくれていた業者の方です」

「あのまんまですよ。少し不器用で愚直な男です。外見があんなにいい男なのに自分に自信がないところも。ただ彼は自分が好きにならないと付き合いませんね。彼にとっての初恋じゃないですか? 『原田さんのこと本気で好きになりました』って僕にも言うくらいだから」

 役場の人はそう言って私の顔を見た。


 役場の人が帰った後で物干しにタオルとシーツを干した。団地の狭いベランダで干すのとは違う、空の下で空を見ながら干せることが嬉しかった。もうすぐ夏がくるという海風の潮のきつい匂いも鼻に感じていた。

 干したあとで私は少し海沿いを歩いた。歩いていたら後ろからバイクの音がして『キーー』そのバイクは私の後ろで停まった。

「慣れましたか? 」

 少しやんちゃそうな雰囲気の春也さんだった。

「この間はありがとうございました。助かりました」

 そうお礼を言うと

「昨日の今日で申し訳ないんですが、良太のこと真剣に考えてやってください。珍しく本気で好きみたいなんで」

と春也さんに言われて私はびっくりした。

「ただ、ゆっくりと暮らしたくてここに来たんで恋愛とかは全く考えてないんです」

 私が答えると春也さんは

「それでも、言っちゃあ悪いけど良太はあんたには勿体ないような男です」

 ──あんたには勿体ない、その言葉が、ホームセンターで出会った彼女が言った『売春女』という言葉と同じ意味に聞こえた。

「私には勿体ないということはわかりました」

 私は家の方へと向きを変えて歩いた。

 ただ、ここで暮らしたいだけなのに1週間もしないうちにこんなに心のモヤモヤが出てくるなんて。私は縁側についていた雨戸を閉めて外に置いていた物干しを洗濯物ごと室内に入れて玄関と台所の裏口に鍵をかけた。

  夕方5時半、外から車が停まる音が聞こえた。縁側の雨戸が閉まっていたからだろう。

「節子さん、節子さん」

と外から良太さんが私を呼ぶ声がした。私は居留守をつかった。次の日もその次の日も雨戸を閉めたままで。この家には屋根裏部屋のような天井の低い2階があった。小さな窓から海を見てそこでご飯を食べた。外を散歩するのは夜8時過ぎてからにした。島の人に会わないように。いつものように夜8時、外に出たら良太さんがいた。

「やっぱりいたのに居留守だったんですね」

「何かあったんですか? 縁側の雨戸もしまったままで物干しも中に入れたんですね? 」

「ごめんなさい。少し島の人がめんどくさくなりました、あなたも含めて。ひっそりと暮らしたいんでほっといてもらえますか? 」

  そう言うと

「春也さんですか? 春也さんが節子さんを怒らしたかもしれんっていってました」

「だから、ほっといてもらえますか? 全部が全部、話が筒抜けなのも、私からみたら気持ち悪いんです。あなたが私のことを好きだと皆に言いふらしてることも。私はただ静かに暮らしたいんです、わかってください」

 そう言うと良太さんは

「僕は気持ち悪かったんですね。ごめんなさい」

そう言って道路に停めてあった車に戻った。

 しばらく、まるでなにかの犯人のように2階の窓からだけ陽射しを入れた。2週間過ぎて冷凍していたストックの食材もなくなり久しぶりに外に出てバス停の前に立った。

「節子さん、どこ行くんですか? 乗ってください」

 どうしてなんだろう? どこで見ていたんだろう? 良太さんがバス停の前で車を停めた。

「バスでいくから大丈夫です」

 そう言うのに私の手をひっぱって無理やり背中を押して助手席にのせた。

「スーパーでいいですか? 」

「はい」

 会話がしたくないので黙っていた。そして、もう会いたくないので1人暮らしには多すぎる2週間分 レジかご3つ分買った。

「えらい、たくさん買いましたね? 」

「誰にも会いたくないから、まとめ買いしました」

 そう言うと良太さんも諦めたのか、家の前のバス停で私を下ろして無言のまま、去っていった。

 買ってきた食材をシンクの前のテーブルに並べて延々と台所で料理をした。料理をしていたらさすがに暑くなったので縁側の雨戸も玄関のドアも開けた。

「節子さん、今日、車のせてあげたんでなんか食べさしてください」

  縁側の方から声がすると思ったら良太さんだった。

「良太さん、仕事は? 」

「今日は休みです。下請けなんで時々、こうやって仕事と仕事の間に休みができるんです」

「そうなんですね」

「節子さん、そんなことよりスーパーまで送り迎えしてあげたんで、何か食べさせてください」

「なんですか? 恩を売る気ですか? 」

「とにかく何か節子さんの料理を食べさせてください。お金は払いますから」

 私は半ば良太さんの図々しさに呆れてさっき炊きあがったばかりの牛ごぼうの炊き込みご飯や白菜のサラダ、茄子の唐揚げなどを適当にワンプレートにして出した。

 もしかして役場の人が言っていた良太さんの不器用さはこういうところなのだろうか? 一見、図々しくも思えるけど、私ならいくら好きでもここまで積極的にはなれない。

 良太さんは考え事をしている私の顔を見ながら

「やっぱりうまいです」

とあっという間に茶碗を空にした。

 そんな良太さんが食べる姿が道路から見えたらしく、カフェと勘違いされた何人かの人が

「なにか食べれるんですか? 」

と庭にやってきた。

「節子さん、何かお腹をすいた人がやってきました」

 良太さんの声に台所の方から庭に出ると

「カフェじゃないですよね? 」

「ごめんなさい。ここに移住したばかりのよそ者です」

「いやそうだろうなと思ってたんですけど、あまりにも美味しそうに縁側で食べてる姿が見えたんで古民家のカフェがオープンしたのかと思ったんです」

「カフェではないんですけど、ちょうど作りおきを作ってたところなんで何か食べていかれますか? 」

「いいんですか? 」

 私は台所の土間に置いていたアウドドア用の折りたたみ椅子とテーブルを取り出して庭に出した。そして良太さんに出したものと同じご飯をワンプレートに盛り付けて一緒にお茶も出した。

「えっ? ぶちうまいんじゃけど」

 縁側には良太さん、庭では見知らぬ若い女の子2人が私が作ったご飯を食べていた。結局、必死で作った作りおきのタッパは空っぽになった。

「ご馳走様でした」 

 彼女たちはテーブルの上に『ご馳走様でした』と書かれたメモと一緒に2000円を置いていた。彼女たちが帰ったあとで

「やっぱり節子さんのご飯は美味しいんですよ。島の人間がうっとうしいかもしれんけど、毛嫌いしないでください、僕のことも。僕は今までも、これからもここから離れるつもりはありません。島が好きじゃし、みんなが好きです。でも、節子さんのことも好きなんです。退屈で面白みのないのはようわかっています。それでも、節子さんがずっとここにおってくれるんなら、その隣にずっとおりたいです」

  真っ暗な夜の海に満月の光だけが照らされていて部屋の灯りがうっすらと届く蚊取り線香の匂いがする縁側であまりにもまっすぐな良太さんの気持ちに心が波立った。

「じゃあ、おってください」

私は玄関のドアを開けた。

「良太さん、入ってください」

そう言うと良太さんは家の中へ入ってきた。良太さんが靴を脱いで和室に行こうとしたとき、私の方から抱きついてキスをした。そして、はっきりと言った。

「明日、言いますか?  春也さんや役場の人に私とキスしたとか、告白したとか。あなたのその無邪気な素直さは時に相手をとてつもなく深い闇へ落とすことを知ってますか?  あなたが無邪気に話すことで私はまた売春女って言われるんです」

 良太さんは呆然としていた。そして、黙って逃げるように脱ぎかけた靴を履いて外へと出ていった。そんなことをするつもりも言うつもりもなかった。なのに良太さんが家の中へ入ろうとした時、自分の中で怒りのようなものが込み上げてきた。良太さんの素直さは私にとっての毒かもしれない。もうこれで本当に終わりだ。次の日もその次の日も良太さんはこなかった。そのかわりに大型の台風が近づいてきていた。私は縁側の雨戸を閉めて2階の小窓もテープを貼って補強した。飛ばされそうなものは全て中に入れてリュックに大事なものだけをつめた。暴風雨の中、歩いて逃げれる場所などないのに。部屋の中に雨風の音が響いていて私は和室の真ん中でただひたすらリュックを抱えて体育座りをしていた。

「節子さん、節子さん」

 雨の音とは違う誰かが雨戸を叩く音がした。玄関のドアを開けると傘を持って肩や腕がずぶ濡れになった良太さんが立っていた。

「節子さん、これから夜中にかけてもっとひどくなります。僕のことが嫌いなのはよくわかっています。でも海沿いのここは危ないです。僕の車にとにかく乗ってください」

 そう言われて私はリュックを持って車に乗った。波が防波堤を超えて何度か車に覆いかぶさってきた。10分ほど車を走らせて着いた場所は良太さんの家だった。

「節子さん、とりあえず今日は僕の部屋で」

 良太さんが玄関のドアを開けるとそこには両親が不安そうな顔で待っていた。

「こんな雨風の中、車を走らせて死んだらどうする!! 」

 お父さんが怒鳴る中、

「節子さんを迎えに行ってました。海沿いの家で危ないと思ったから」

 良太さんがそう言うとお父さんが下駄箱の上に置いていたグラスを手に持って中に入っていた日本酒を私の顔めがけてかけた。

「このふしだらな女がうちの息子をたぶらかすな!! 」

  良太さんは

「おやじ、何するんじゃ」

つっかかっていって、

「ごめんなさいね」

  良太さんのお母さんはすぐにタオルを持ってきた。

  私はそんな親子の様子を見ながら玄関のドアを静かに開けて暴風雨の中、外へ出た。しっかりと歩いてるつもりでも身体が風に飛ばされてしまいそうで、 どっちへ歩いて行けば自分の家の方向なのかもさっぱりわからかった。暗闇の中、とりあえずリュックを抱えて雨宿りできそうな建物を探した。ただでさえ暗くて見えないのに顔にかかった日本酒と雨で目の前がぼやけていた。身体も服もあっという間に雨でびしょ濡れになった。

「節子さん、おやじがほんまにすいません!! 」

  しばらく歩いたところで、バスタオルを持った良太さんが走ってきた。

「節子さん、今はとりあえずうちで台風が去るのを待ちましょう」

 私は頭からバスタオルをかけられて、2階の良太さんの部屋へと連れていかれた。

「とりあえず、これに着替えてください」

  良太さんから渡されたTシャツとスウェットパンツに着替えて濡れた服とリュックをバスタオルの上に置いた。部屋でベッドの脇にしゃがみこんだ時、涙が出てきた。

「失礼します」

 しばらくして麦茶のペットボトルを持って良太さんは部屋に戻った。良太さんが部屋に戻ってきても涙はとまらなかった。母以外の人の前で泣くのははじめてだった。

 涙と雨と日本酒がぽたぽたと滴のように太腿に落ちていた。

「ほんまに、おやじがすいません」

 目の前で土下座する良太さんの姿を見ても何も感じなかった。早くうちに戻ってシャワーを浴びたかった。

 恐ろしく長く感じた夜だった。

 ベッドに横になった良太さんの寝息を聞きながらとにかく朝を待った。

 夜明け、まだ外が暗い良太さんは両親が起きる前に私を家までおくった。昨日のことがあったからか良太さんも無言のままだった。

「ありがとう」

 家に着くと私はそれだけを言って車からおりた。


 それから本当に人に会うのが嫌になって食材の宅配を契約した。もう縁側の雨戸を開けることも洗濯物も外に干すこともなかった。外からは空き家に見えるようにした。7月の自分の誕生日もすっかり忘れていたときマリコさんからプレゼントが届いた。7月の空のような青色の麻のワンピースだった。

 私はマリコさんにお礼の電話をした。

「マリコさん、久しぶりです。ワンピースありがとうございます」

「せっちゃん、島での暮らしはどう? 」

「私、売春女って言われてるみたいです」

「そう。でも、せっちゃん、そんなことしてないでしょ? ただの噂でしょ? 悪いことしてないんだから、こそこそしたらダメよ。なに言われても堂々としてなさい。せっちゃん、今までだって、あなたは乗り越えてきたんだから、大丈夫よ。そして、ちゃんと甘えなさいよ」

 電話を切ったあとでそうだ、なんで私は悪いこともしていないのにコソコソと暮らしているのだろう? 私は縁側の雨戸を開けて中に入れていた物干しを外に出した。マリコさんがプレゼントしてくれたワンピースも水通しして干した。

 久しぶりに自分に陽が当たった気がした。青いワンピースが揺れているのを見ながら縁側に腰掛けて具のない素麺を食べた。なにで見たのだろう? 足をぶらぶらされながら麦わら帽子を被ってノースリーブのピンクのワンピースを着た縁側に座る女の子が浮かんできた。そんなことを思っていたら良太さんの車が道路に停まった。

「僕のもありますか? 」

 相変わらず図々しく庭に入ってきた。

「ないです」

「じゃあ、待つんで作ってください。大盛りで」

 そう言いながら私の横に勝手に座った。「節子さん、今日から僕もここで暮らしていいですか?  僕なりにバカな頭で悩みました。悩んで悩んでそれでもやっぱりおりたいんで節子さんと。それだけです」

「良太さん、今日は休みですか? 昼休みなら仕事が終わった後でゆっくり話しましょう」

「わかりました。じゃあ仕事が終わってからまた来ます」

 私の隣に座った良太さんはしばらく海を見ていた。

「また後で話しますけど、こんなふうに誰かを思ったことはないんです。僕は昔からひとつのことしかできません。多分、なんらかの疾患があるんじゃないか? とよく言われてました。こんな僕だからだめなんだと思います。しつこくてごめんなさい。無神経に好きな気持ちをべらべら話してごめんなさい。僕の気持ちを聞いた人らが勝手に節子さんにもてあそばれてると勘違いさせてごめんなさい」

 泣いていたのだと思う。

 誰かから告白されたことは何度かあった。付き合ったことだって。でもそれらは深いものではなかった。私でなくても彼でなくてもいいものだった。現に今、私は会いたいとも思わない。良太さんはなんで私なんだろうか? 


 仕事を終えた良太さんは約束通りうちに来た。自分の気持ちがわからなかった。それでも、そこまで好きでいてくれるのなら──。

「良太さん、最初にどうしてもあなたのお父さんと話したい」

 私は良太さんに伝えて家へと連れていってもらった。

「この間は突然 驚かせてすみませんでした。良太さんのこと、タブらかそうとも思っていませんし、私は売春もしていません。ちゃんと良太さんと付き合おうと思っています」

  突然やってきた私の言葉に良太さんのお父さんは唇を歪ませて

「わしもすまんかった。良太を頼みます」

と頭を下げた。お母さんも

「この間は主人が本当にごめんなさい。よろしくお願いします」

と私に深々と頭をさげた。

 良太さんはびっくりして

「節子さん、ひどいですよ。僕の立場がないじゃないですか?  」

 良太さんの両親は苦笑いしていた。

  うちに戻ってから、良太さんと縁側に座って夜の海を見た。

「おやじのことは、本当に許してもらえんと思ってました。あの台風の日、節子さんを守ることができんで、あの日からここがまるで空き家みたいに閉まったまんまになって、節子さんはきっと島から出るんじゃと思ってました。自分が誰も知らん土地へ行って、そこであることないこと言われて、顔に酒なんかかけられたらって思ったら、許せん気持ちになります。その許せん気持ちを節子さんがずっと抱えこんどったのに守れんのに好きじゃばっかり言ってほんまにすみません」

「もう過ぎたことです、人に会うのが嫌になって2階の窓から外を見てました。もう恋愛する気持ちも誰かに甘える気持ちも自分には必要なかった。ただ、凪のように、静かにここで余生を送ろうと思ってたんですが予想外でした」

「節子さん、僕も予想外でした」

 良太さんはゆっくりと私の太腿に身体を預けて目を閉じた。良太さんの汗の匂いは海の匂いと似ていると思ったところで

「良太、道路から丸見えじゃ」

 春也さんが道路に車を停めて庭に入ってきた。

「節子さん、この間は失礼なこと言ってすいませんでした、おい、良太、嬉しいんはわかるが道路から丸見えじゃけん、気を付けろよ」

 そう言ってすぐに車に戻っていった。


 来客用としまっておいた布団を押入れから取り出して2つ並べて布団をひいた。

「なんかドキドキします、なにもせんでくださいね、節子さん」

ってふざけながら、すぐに寝落ちした良太さんだった。

 朝、納豆と卵焼きと金平ごぼうの朝ご飯をちゃぶ台に用意したら

「はぁっ、仕事いきとうないです」

とため息をついた。

「しかも、節子さん、昨日、僕、すぐ寝とったんですよね?  はぁっ、情けない」

「でも、それが良太さんらしいですよ、さぁ、いってらっしゃい」

 そう言うと

「すぐ戻ってくるから、昼御飯、大盛りで頼みます」

 そう言って良太さんは、本当にまた数時間後、昼御飯を食べに戻ってきた。


 一緒に暮らしはじめてから、はじめて迎えた週末、

「節子さん、夜、花火大会があるんで一緒に行きましょう」

 もう昼前だというのに、まだ布団の中で寝たまんまの良太さんが洗濯物を干していた私に言ってきた。夕方5時におにぎりだけ食べて、少し離れた場所にあるフェリー乗り場まで車で行った。この島のどこにこれだけの人がいたんだろう? とびっくりするぐらいの混み具合で少し歩くたびに、

『良太!!  』と良太さんは声をかけられ、気がつくと私は良太さんを見失っていた。この人混みの中、かえって動き回ると余計にややこしくなると思って人混みの一番端で私は海を見ていた。

「節子さん? 」

後ろを振り向くと春也さんだった。

「良太は? 」

「はぐれたんですよ。良太さん、いろんな人から声かけられていて気がついたら私が見失ってました」

「あいつ、ちゃんと手をにぎっとらんけん。節子さん、ほんまにすいません」

「いいえ、春也さんは悪くないです」

「こんなこと言うのは、変なんですが、良太のこと好きですか?  なんとなく、あいつ、まっすぐでいい奴ですけど、都会にすんどった節子さんから見たら面白みもなんもないつまらん奴じゃないかと」

「そうですね。きっと話があうのは、春也さんの方ですけど」

 そう言った時、後ろにコーラを三つ手に抱えた良太さんがいた。

「二人で僕をばかにしとったんですか? 」

 涙目で小刻みに震えながらそう言う良太さんに

「お前、彼女の手をちゃんと離すなや。お前は知り合いがたくさんおっても、彼女の知りあいなんておらんのんじゃけん。もう少し他人の気持ち、考えろ」

 春也さんはそう言ってその場を離れた。

「節子さん、すいません」

 私は返事をしなかった。ここで喧嘩しても、あのフェリーに乗れば市内へ戻れる、少しだけ島から離れたくなっていた。浴衣で目の前を通りすぎてく若い子たちを見ながら、その若い子たちが、チラチラ良太さんを見るのを見て、

「良太さん、やっぱり浴衣着た若い子たちが良太さん見とるし、そっちへいった方がいいんじゃないですか? 」

と思わず言ってしまった。

「もういいです。知らんです」

 そう言って良太さんは消えた。私はフェリー乗り場で切符を買おうとしていた。フェリー乗り場の待合のベンチで座っている私を見て良太さんが慌てて駆け寄ってきて

「どこ行くんですか? 」

「市内です。戻ります」

そう言うと慌てて手をひっぱられた。

「すいません。あまりにも春也さんと自然な感じだったんで動揺しました」

「自分が勝手に私をほっといた癖に。春也さんがおらんかったら、ずっと1人で30分も海を見てるだけでした。春也さんの方がいいかもしれません。もうほっといてください」

 良太さんは手を離して、私は切符を買ってフェリーに乗った。島で暮らしはじめて4ヶ月、はじめて島外へ出た。フェリーから海上に打ち上がる花火を見た。良太さんが悪かったわけでもなく嫌いになったわけでもなく自分の中にたまっていた何が一気に外に出ようとしていた。

 最終の高速バスに乗って久しぶりに市内へきたらその騒々しさに愕然とした。思わず冷蔵庫にある食材とかが頭をよぎって、朝一のバスで島に帰ろうとなぜか思って、その夜はファミレスで一晩明かした。こんなに夜更けなのに当たり前のように店内に人がいることが信じられなかった。ネットワークビジネスだろうか? 『絶対にチャンスですよ、幸せになれますから』よれたスーツを着た男の人が眠そうなパーカーを着た若い男の子に力説してる声が時々聞こえてきた。隣のテーブルの上を布巾でふいていた店員の彼女はなんでこの深夜の仕事を選んだのだろう? 人間が生まれてたどり着く場所は海ではないのだなと思って3杯目のアイスコーヒーにミルクを注いだ。


 よく朝、始発の高速バスに乗った。昼前に島に戻るとその空気と潮の香りと海の青と静けさに心底ほっとした。もちろん部屋には良太さんの姿も荷物もなかった。私はまた来客用の布団を押し入れにしまいこんで少なめにご飯を炊いた。

 徹夜をしたせいか、うたた寝をしてしまい気がつくと縁側から夕陽が差し込んでいた。火を使う気力がなかったので、ご飯にキムチ、納豆、煮卵をのせた。夕焼けを見ながら、縁側に座って食べていたら、良太さんがやってきた。

「別れます」

わざわざ言ってきたので

「わかりました」

  そう言うと去っていった。去っていったのにまた戻ってきて、目の前に立ち尽くしていた。

「自分が言いましたよね? 別れますって? あなた、何がしたいんです? 」

 私がいうと、

「そんなに簡単なんですか?  昨日もあれから誰とあっとったんです? 市内に元カレでもいるんじゃないですか? 」

「います、います、たくさんいます。だから、ほっといてください。良太さんの代わりは山ほどいますから」

 私の中で島の人から言われたことへの腹いせが一気に良太さんへと向いて、ものすごく意地悪な人になっていた。

  キムチと納豆という匂いもベタベタも強烈なものを口に含みながら、

「別れたんです。さっさと帰ってください」

と突き放した言葉を放った。

「僕もそれが食べたいです」

「お母さんにつくってもらえば?  簡単ですから」

 そう言うと、キムチと納豆と煮卵というベタベタはもちろん、臭い的にも複雑な口にいきなりキスしてきた。

「節子さん、僕をいじめるのが好きですよね?  でも負けません」

「いやそれより、最悪ですよ、キムチと納豆です」

「まあ、最悪ですけど、それより態度が許せません」

「私に謝ってほしいんですか? 」

「いいえ、僕が大人の対応できるようにがんばります」

「がんばらなくてもいいです。春也さんのような人はたくさんいるけど、キムチと納豆にキスしてくるのは、多分、良太さんだけです」

 そういうと

「やっぱり少し気持ち悪いです」

と苦笑いした。そして

「お盆にまた花火大会があるんで今度はちゃんと一緒にみてください、昨夜はこのまま節子さんが島に帰ってこんかもしれんって眠れませんでした。僕は春也みたいにうまく気をまわすことができんし、節子さんがばかにしとってもおりたいんです」

そして、車から花火セットを取り出してきた。

「全然、たいしたことないけど、これしましょう」

  目の前の道路に夜は車もほとんど通らない。うちの灯りがうっすらと照らす中で夜の海を見ながら、しゃがみこんでライターで花火に火をつける良太さんを見ていた。

 ──自分がやったことは必ず自分に返ってくるんだよ。いつかマリコさんに言われたこと。私がきっとこのまま変わることがなかったら、私はこの人を失ったとき、激しく後悔するんじゃないか?  と少しだけ怖くなった。それは同じ海なのに、昼と夜では全く別物になるみたいに正直な素直さは、いつか正直な冷たさにも変わってゆくから。

「ごめんなさい」

私は謝った。

「なにがですか? 」

「勝手に八つ当たりしたり、島から出て心配をかけました。良太さんが悪かったわけじゃなく、私の中にたまったものがあったからです。心が汚かったからです」

  真面目にそう言うと

「よかったぁ、春也さんが好きって言われるんかと思いました」

  ひとりだったら、こんな複雑な気持ちになることないのに、ただ、この景色を噛むように味わえたのに、少ないご飯にキムチと納豆と煮卵をのせて、縁側に座った良太さんに持ってゆくと

「強烈に匂うものほど美味しいんですよね。だから、強烈に心を苦しめる節子さんがやっぱり美味しいんです」

 と良太さんは言った。

 相変わらずがっつりと食べる良太さんを見ながら、ここにはファミレスもコンビニもない。ただ、海が目の前にあるだけ。

 なのに

 ──ちゃんと出会う、なぜか、その夜はそんなことを思った。




































































































































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むすび 川本 薫 @engawa2023

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