むすび
川本 薫
第1話 母という女
「自分の欲のために私なんかを誕生させないでよ!! 」
13歳の誕生日だった。
「心当たりは3人ぐらい浮かぶんだけどね、本当のところ、誰が父親かわからんのんよ」
母が誕生日になるたびに私に言うその言葉の意味がずっとわからずにいた。学校で父の日になるたびにお父さんに手紙を書きましょうと言われても『名前もどこにいるかも誰なのかもわかりません』正直に私が答えると先生が返答に戸惑って『じゃあ、頭で浮かんできたお父さんに向けて何か書こうね』と言われ毎年、『私を見つけてください』その一言だけを書いた。
「ねぇ、せっちゃん、生理になったんだ。スカートの後ろ、汚れてない? 」
四年生の夏休み明け、友達だった夕子から休憩時間、トイレで急に聞かれた。
「生理って何? 」
「体が大人になるんだって。今度、保健室で女子だけで保健の先生から話があるらしいよ。私、もう子供が産めるんだって」
それまで漫画の主人公にキャーキャー騒いでる夕子がなんだか違う世界の橋を渡ったように見えた。
中学生になれば自分の母親がヤリマンだとか公衆便所、そんなふうに呼ばれる部類の人間だったことに気づいた。いいや、本当はその前から気づいていた。いつも母の周りには母の友達だという男の人がいて、それは季節ごとに名前をかえた。父親が誰だかわからないなんて、恥ずかしすぎて、いつの間にかそのことを誰にも言えなくなっていた。
そして、母の友達だと言っては私の目の前に現れる男の人達の視線が私の身体に向けられていることを知ったのもその頃だった。
『せっちゃん、欲しい物があったら、お母さんに内緒でおじさんが買ってあげるから』
そう言って母がトイレに行ってる間に私にお決まりのように顔を近づけてくる人が一人や二人ではなく、時には母にふられた男の人が娘の私につきまとって警察沙汰になることもあった。『娘さんのあんたに言うのも酷だけど、団地のみんなが迷惑しとるよね。あんたのお母さんが売春してることに。そういうことするんなら、そういう街へ住んでくれんかね? 』
母の留守中にやってきた団地の自治会長は私にまるで煙草の煙を吐くように言った。
「出ていけ、ってことですよね? 」
「まあ、あんたに罪はない。お母さんだって悪い人じゃないことはわかっとる。でも、しょっちゅう、わけわからん男の人をこの団地の敷地内に入れられては、不安になるんよ。娘のあんたが暴行されんか、心配しとる人もおるけんね。あんたさえ、迷惑じゃなければ、児童相談所に連絡して、母親と離れて暮らしてみたらどうかね? 」
「いや、大丈夫です。もう来年から働くこともできますし、自分のことは自分で考えますから」
「今どき、中卒で雇ってくれるとこなんてないよ? 悪いことは言わんけん、お婆さんのところでもいい、とにかくお母さんとは離れんさい」
自治会長はそう言うと、私に自分の名刺を渡した。
夕方、何をしていたのか、誰と会っていたのか、石鹸の匂いをさせながら、母親が帰宅した。
「自治会長が引っ越せって、みんなが迷惑してるって、あんたが男をとっかえひっかえするから怖いって」
「何? 誰にも迷惑かけてないのに? 」
「迷惑かけてるよ。警察沙汰にもなったし、私があんたの男に暴行されないか? 周りが心配してるらしいよ。私だってもう妊娠できるんだから」
「まさか、節子、誰かと関係したの? 」
「なに? 自分が誰彼なく関係持ってるのに、私のことは気になるわけ? 母親としてご飯もろくに作れないくせに、修学旅行だってお金がないから、ことわったんだよね? 」
私は母親の襟元を掴んでいた。母も私の襟元を掴んだ手を掴む。
──ドン、ドン!!
「原田さん、原田さん、大丈夫ですか? 」
喉が割れそうな声で叫んだからだろう、同じ階の常本さんが玄関のドアを叩いた。母が手を離して、ブラウスの袖で顔を拭ってドアを開けた。
「迷惑をかけてごめんなさい。ただ娘と真剣に話してただけですから」
「本当に大丈夫ですか? 」
「自分の娘との喧嘩ですから、大丈夫です。本当にご迷惑をおかけしました」
母は静かにドアを締めた。
「節子、あんたが高校卒業するまではこの団地にいる。あんたが高校卒業して社会人になったら、私は、私で、あんたはあんたで別々に暮らす」
「なにそれ? 娘に言うこと? まるで無理やり育てられてるみたい!! 」
「ああ、そうだよ。産まなきゃよかった!! って思ったよ。私はね、母親にずっと虐待されてたんだ。挙げ句に母親の恋人に襲われたしね、それでどうでもよくなったんだよ。どうせなら、そういう男の性を手玉にとってやろうと思ってね。でも予想外にあんたを妊娠した。妊娠したからって急に私の中に母性なんて宿らない。それでも母親になるため必死だったんだよ。馬鹿なりに」
それでも母親になるために必死だったんだよ、と叫んだ母は私が高校を卒業して、近くの弁当屋で働き出すと私の目の前から消えた。書き置きもせず、荷物も残したまんまで。それでも団地の自治会長さんには『娘をよろしくお願いいたします』と挨拶して出ていったらしいから事件ではないのだろう。私にはもう母を探そうとする思いが残ってなかった。
***
「せっちゃん、何考えてたの? 」
店の奥のステージの鏡に写った自分が母と似てるような気がして私は鏡を拭く手をとめていた。
「ごめんなさい。昔のことを思い出して──」
「お母さんのこと? 」
「ええ、だらしない人だったから、喧嘩ばかりで」
「それでも、会いたくなるんでしょ? 」
「今はどこで何をしてるかもわからないから、ただ生きていれば……って」
「不思議よね。勾玉のように怒りが心に蔓延しても忘れられない、それが血ってもんかしら? 」
「マリコさんも? 」
「私のことなんていいわよ。それよりボックス席にコースターと割り箸、二人分置いておいて、山﨑さんが来るって」
「わかりました」
私がボックス席にコースターと割り箸を並べてすぐ常連の山﨑さんが後輩の高山さんと来店された。
「いらっしゃいませ」
おしぼりを山﨑さんの手に渡すと
「節子さん、ちょっと手のひら見せてみて」
「山﨑さん、警官なのに、手相ですか? 」
「僕を侮るなかれ、結構、当たるって署内でも飲み屋界隈でも評判なんだよ」
山﨑さんはそう言いながら私の差し出した手のひらを見た。
「節子さん、真面目に言うから、ちゃんと聞いてほしい。君はこの世界は向いてない。僕が言わなくてもいずれ君はこの夜の世界からは抜けると思うよ。そして、いいか、悪いかは別として出会うはずだ」
「いいなぁ、出会うなんて」
高山さんがそう言うと棚から山崎さんのボトルを出してきたマリコさんが
「山﨑さん、何? 何? うちの看板娘のせっちゃんをここから辞めさすようなこと言わないでよ」
「ママ、君だっていずれ夜の世界から消えるよ。僕にはわかるんだ。ほんの少しの未来が」
「山﨑さん、ヤダ、怖い!! 私、この仕事が天職だと思ってるんです。ママのことだって大好きだし」
「でも、節子さん、君は近いうちに夜の世界から無縁になるよ。それだけは確かだから」
店を出てエレベーターの前で見送るときも山﨑さんは私に『今日が多分ね、最後だと思うけど元気でね』そう言った。
「マリコさん、山﨑さん、なんか今日、変でしたね? 年が明けたばかりなのに、さっきも『最後だと思うけど元気でね』って。私、手相とか占いとか全く信じてなくて、多分、私は死ぬまで夜の世界でマリコさんと共に生きると決めてます」
その時、マリコさんは、棚に並べてあったキープボトルを一つ一つカウンターに取りだして、ぶら下げられたネームホルダーを見ながら一人一人の名前をノートに記していた。
「せっちゃん、山崎さんを信じるかどうかは別として、一生、夜の世界で生きるなんて相当、稀有なことよ。だから決めつけてしまわないで、せっちゃんはせっちゃんの人生をそろそろ考えなさい。私はまだやることがあるから、今日は先に帰って頂戴、お疲れ様」
「じゃあ、マリコさん、お疲れ様です」
タクシーに乗る前に大通りに面したコンビニでいかキムチとパックご飯を買った。カーテンを閉めっぱなしの部屋で日中は寝てお昼の3時に起きる人生。
それでも、母とお互いがヒステリックな声で罵り合い、母の恋人の視線に怯えて生きるよりマシだった。子供が親を選ぶんじゃない。全ては神様の気まぐれで、摘んでこの世に投げ捨てるように落とされただけの命。深夜、誰も起きてはないはずの時間に見る気もないのにつけたテレビからは不似合いな声で【一台、あれば便利です】今日も変わらず商品が紹介されていた。いったいそれは『何台目だよ? 』と思わずツッコミをいれたくなっても返事をしてくれる人はこの部屋にはいない。
【出会うはずだ】山﨑さんは、手のひらのどの線を根拠にそんなことを思ったのだろう? 私の手のひらを見てもただカサカサに荒れてるだけで、【出会った】と今までの人生で感じたのはマリコさんだけだった。母の別れた恋人がストーカーになって、母ではなく私の命を狙うようになって、学校帰りの私にナイフを向けてきた。慌てて団地のすぐ目に入った玄関のドアを叩いて出てきたのがマリコさんだった。マリコさんは玄関のドアをあけてすぐ私の手をひっぱって部屋の中に入れた。そして、110番通報をしたあと、冷蔵庫を開けて山ほどの氷を製氷器からボールの中にうつした。
『もし、侵入してきたら、私が氷を顔めがけて投げるから、あなたはベランダから隣の部屋に移動して』
そんな風に誰かに矢面に立ってもらったことなんてなかった。警察が来てからも私が言えない言葉をまるで全部見ていたかのように代弁してくれた。
でも、そこから急に親しくなることはなく、すれ違えば会釈するぐらいだった。
同じ団地だから母が出ていったと噂は聞いたのだろう。私が働いていた弁当屋に弁当を買いにきたマリコさんは
「仕事終わったあと、これ一緒に食べる? 」
なぜか私の弁当も一緒に買った。マリコさんの部屋で二人が幕の内弁当を食べながら、たわいもない話をした。
誰かに話したかった毎日、のり弁ばかり、鯖の塩焼き弁当ばかり、弁当屋に訪れる人の弁当の選び方一つでも深く考えてみるとなんだかおかしくて、本当は誰かに話したかったんだ。
「なんだぁ、結構、心配してたんだけど、あなた、よく話すし笑うね。そんだけ人のこと見てるなら、私の店で働いてみる? 時給は2500円。日曜日と水曜日が休みだけど」
私が生きるために見つけた止まり木がマリコさんだった。だから、夜の世界から抜けるなんて、つまりはマリコさんと離れるなんて私には微塵も考えられなかった。
3月の終わり、
『ママ、閉店するって本当か? 』
私がまだ開店前、トイレの掃除をしていると常連だった栗栖さんが慌ただしい声で店内に入ってきた。
「栗栖さん、ママはまだ出勤されてませんけど、閉店って? 」
「節子さん、聞いてないの? 今朝、会社にママから手紙が届いたんだよ。急なことで申し訳ありません、って閉店のお知らせとギフトカードが」
「栗栖さん、待って、意味がわかんない。私は一言も閉店なんて聞いてない!! 」
そこへマリコさんが出勤してきた。
「栗栖さん、いらっしゃいませ。なんだか騒がしいわね」
「ママ、閉店するって? 」
「マリコさん、私、何も聞かされてない!! 」
「せっちゃん、栗栖さん、ごめんなさい、急なことで。どうしても急なことでここから離れないといけなくて。見通しがたたない案件だから、いつまで、っていう約束もできなくて思い切って閉店することに決めたの」
「はあっ、落ち着いて飲めるいい店だったのになぁ」
「栗栖さん、せっかく来てくださったんだから、楽しく飲みましょう。今日は私の奢りです」
マリコさんは棚からまだ封を開けてないヘネシーを取り出した。
その日から閉店する3月31日まで店は年末のような慌ただしさだった。毎日、ボックス席2つとカウンター10席は満席の状態の状態だった。
『お疲れ様』
最後のお客様を送り出したあと、マリコさんは私に少し厚みのある封筒を手渡した。
「少ないけど、退職金、せっちゃんがいてくれて本当に助かった。でも、せっちゃん、そろそろ本気でせっちゃんはせっちゃんの人生を考えてみて。人生なんて本当にあっという間よ。やりたいことなんてね、どんどんやれなくなってゆくの。会いたい人だって後回しにしてたら死ぬの。後悔だらけなら、今からでも遅くない、ひとつぐらいはしっかりと掴みなさい。せっちゃん自身の手で、思いで」
本当はそれは父が教えてくれることだったのかもしれない。
店で働くことが決まってすぐに
『いい? せっちゃん、絶対にお客様とは寝ないこと。男はね、寝ると誰かに自慢したいもんなの。一人に言えば10人に広がる。10人に広がればそれが100にも1000にもなるから』
まるで母のように私に言ってきた。それから、つきだしにだす料理を時々、店の奥の狭い厨房で私に教えてくれた。
「はじめから我流でいかないこと。まずはきちんと軽量しなさい。そこでせっちゃんが美味しいと思う分量を知るの」
歳がさほど違わないのに、怖いぐらいすべてが完璧だった。でもマリコさんは自分のことを一切、話さない。マリコさんの両親も見たことがなかった。
「マリコさん、明日から、私は生きる意味がなくなった」
「馬鹿ね、意味とかはじめからないの。心臓が動くから生きてるだけ。意味とか価値とか考えるから、比べるてしまうでしょ? 私は、とにかく明日から大阪に行くから。へこたれちゃあだめよ」
部屋に帰ってから呆然とした。何日何もしなかったら何かしたくなるんだろうか? そう思って起きたくなるまで寝てみようと思った。案外、寝るのも疲れる。いつも通りの時間にやっぱり目が覚めた。マリコさんは大阪に行くと言っていた。そうだ、私も引っ越しをしよう、いっそのこと、遠くへ。海のそばがいいかもしれない。スマホで空き家バンクを検索したら、30万で縁側のついた海のそばの平屋の家があった。縁側だってある。次の日、すぐに役場に電話して、私はその島に行った。
フェリー乗り場に役場の担当者の私と同じ苗字の原田さんという男の人が迎えに来てくれていた。
「都会では考えられない額でしょ? でも都会で暮らす家族の方にとってはこの家が邪魔なんですよ、きっと思い出はあると思うんですけど」
空き家まで案内してくれた原田さんは車の中でそんなことを言った。
「ここです」
フェリー乗り場から車で20分ほどの空き家につくと、目の前がまさに海だった。今までに見たことのないような昔、母が買ってくれた色鉛筆のシーグリーン色の海だ。
見た瞬間に【ここ】と私の中でもう一人の私の声が聞こえた。ここで私の新しい暮らしがはじまる。すぐにでも住みたい気持ちになって
「今、30万払ってもいいんで、ここを他の方に渡さないでください」
思わず私は鞄からお金を出した。
「他は見なくても大丈夫ですか? 」
「海が目の前に見えるし、憧れの縁側もある。新しく踏み出すには理想の家です」
「では、ここからは住むということで話をします。まずトイレは洋式にした方がいいと思います。冷暖房もいります。ここは車があれば便利ですが、目の前にバス停がありますので、車がなくても大丈夫です。ネット回線は役場で手続きができます。求人のことでも力になれると思いますので、不安なことがあればなんでも聞いてください」
「ありがとうございます。4月中には住みたいので、手続きお願いします」
母がどこにいるのかもわからないままに、私は団地から出た。
自治会長さんに引っ越しの挨拶に行くと
「原田さん、もしもなにかあったときに困るから連絡先の電話と住所だけ書いといてくれんか? 」
私は携帯の番号と新しい住処の島の住所を書いた。
ほとんどのものを手放した。キャリーケース2つ分と集めた食器と土鍋とフライパン、引っ越しは業者さんに頼もうと思ったら、原田さんが手配してくれたというか、荷物の少なさに島の人たちが手伝ってくれた。
「本当に何から何まですみません」
私は手伝ってくれた人たちに 塩むすびと豚汁と黒豆茶を出した。それが人生をかえるなんて思うことなく、ただ近くにお弁当が売ってるお店もなかったから。
「初対面なのに手作りの豚汁なんてごめんなさい。嫌だったら残してくださいね」
手伝ってくれた建設会社の従業員の一人、良太さんが
「めちゃくちゃ美味しいですよ、なんならおかわりしたいぐらいです」
そう言って空のお椀を見せてくれた。
「良太さんたちはなんでも屋さんみたいな人じゃけん、困ったら頼るといいですよ。じゃあ、これからトイレの工事に入るんで、3時間ほど海沿いのホテルで休んどってください。良太さんが案内するんで」
原田さんにそう言われ、私は良太さんが運転する軽自動車の助手席に乗った。
「お手数かけますが、よろしくお願いいたします」
「いえ、ホテルまではすぐじゃけん。とにかくロビーでコーヒーでも飲んどってください」
私は良太さんにホテルまで案内されて、そこのロビーで工事が終わるまで海を見ていた。
「節子さん、終わりましたよ」
白いタオルを首にぶら下げて、汗だくの良太さんがロビーにきた。その姿がなぜか懐かしくて
「良太さん、なんか懐かしく思ったんですけど、どこかで会ったことあります? 街中に飲みに来られたりとか? 」
と聞くと
「ないです。でも、僕もちょっと懐かしいというか、自然に知ってる感覚があります」
ホテルから良太さんの後をついて出るとき、自動ドアが開いた瞬間に感じた風に私はむすばれたことをまだこの時は気づかずにいた。
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