――幕間

 時は未の刻。

 蓮丸は墨色の羽織袴に越中草履を履いて、平屋門の前に立っていた。今日の用事はあと一件、姫との茶会だ。花月の他に一切興味はないのだが、なにせ手駒は増やしておきたかった。そういった心積りから、ただの口約束でも守るようにはしていたのだ。

 その屋敷は一見して良くできたものであると理解できた。とにかく大きい。敷地も広い。想像し得る面倒事を頭の中に浮かべては深い溜め息を吐いたとき。門の向こうからやや間隔の短い人の足音が聞こえた。大方約束の相手が蓮丸を迎えにきたのだろう。手間が一つ増えた。気を引き締めて息を吐く。そんな蓮丸の気もなにも知るはずがないであろう人物は、長屋門からひょっこりと期待に満ちた顔を出した。枯野の羽織に隠していた手を出し、髪を山茶花が描かれた胡桃色の飾り櫛で巻いた頭を横に傾け、頬を赤らめ微笑みを浮かべる。紅樺色の着物も、そんな彼女を表しているように見えた。

「すみません、自分なんかのためにわざわざ御足労頂いてしまい」

 姿勢を正した蓮丸は綺麗に困った笑みを浮かべてみせ、丁寧にたき姫へ頭を下げた。「まぁ」と零した姫は、可愛らしく笑みを浮かべる。

「そんなに御気になさらないで。私がお誘いしたのですから、私が迎えに出ることは当たり前かと。……それと、自分なんか、なんて仰らないで? 聞いている私が悲しくなってしまう」たき姫は眉を下げてそう言った。

「……失礼しました、では撤回しましょう。今日はお招き頂きありがとうございます」

 目の前の女は花が咲いたように顔を明るくさせる。それが蓮丸の琴線に僅かながらも触れたのは無論だった。

「いえ、そんな。立ち話もなんですし、どうぞ中へ」

 そう言うとたき姫は蓮丸に門の中へ案内する。それに続いた蓮丸は、玄関で草履を脱ぎ、裸足で冷えた廊下を歩く。通された奥座敷は、まず襖の向こうの大木が目に入った。今は木枯らしに吹かれているが、立夏にでもなれば、太い枝から青々した葉を付けるのだろう。幹のみでも圧倒されるそれが、清爽な風に揺れる様子なんかは絵にでも収めておきたかったものだ、と思った。ざっと室内を見回すとどうもこの部屋は、その木をどれだけ魅力的に見せるかを考えて構成されたものらしい。分かりやすい誘導ではあるが、悪くはない。そういえば久しく花月も緑を目にしていないから、今度見せてやるのもいいかもしれない。

 たき姫は蓮丸に適当な場所へ座るよう促した。促されたままに腰を下ろした蓮丸に、姫が対面する形で座る。

 八ツ半まで質問しつづけた姫は、相槌を打って一呼吸を置いた。これでひとまずは落ち着いたと見ていいのだろう。そう判断した蓮丸は、帰宅したい旨を伝えた。想定していた時刻よりは早いが、既に蓮丸はたき姫に辟易していた。常識を捨て去ったこの男と、常識を体現したような姫の性質なんかは、合う以前の問題だったのだ。人のことをよく考えるたき姫のことだ、安易に承諾してくれるだろうと考えた。が、彼女は蓮丸にとって、想定外な顔をした。

「あの、ではまだなにか?」

 貼り付けた笑顔で、蓮丸は確認する。やや頬を赤らめたたき姫は、あの、その、と接続詞を並べ立てた。

「また、うちにきて頂けませんか? お茶でも良いですし、小話だけでも構いません。ですから……」

 そこまで言われてしまえば、蓮丸も察しがついてしまった。今までの不可解な言動、全てに合点がいく。そして同時に心底しんていから吐きそうになった。他人ひとからの好意自体は都合がいい。利用しやすい。だがそれも、行き過ぎれば毒となることを、蓮丸はこの時初めて理解した。本来は、己よりも位の高い人物から好かれることは良いことだろう。だが蓮丸は、世間という概念とは最低限の関わりしか持っていない。大抵という事象はどうでもいい。この女は一線を越えてしまった。その情を使うこともできるだろうが、苦しくも蓮丸は、一途な男であった。

「申し訳ありませんが、どちらも辞退させていただきます」

 蓮丸は努めて冷静を装った。

「もう貴女とは会えない」

 姫は目を丸くしていた。強いて疑問を口にすることはできるが、姫にとっては突然の宣告だ。理解が追いついていないのだろう。開いた口が塞がらない女を置いて、蓮丸はそそくさと帰り支度をした。立ち上がった所で、女に呼び止められる。笑みを作るのも面倒になった蓮丸は、偽りのない顔で女を見下ろした。

「わ、理由を……」

 か細い女の声が振り絞られる。

「せめて理由をお聞かせくださいっ、なにか気に障ることがあったなら謝罪します。改善もします。本当に、お顔を見せていただくだけでも構わないのです。お声だけでも良いのです。どうして……どうして、そんなことを仰るの」

 女の顔はみるみる内に歪んでいく。やがてその豊頬に雫が伝うのは、蓮丸も想像に難くない。そんな女の小さな願いにも、蓮丸は初め反応する気はなかった。しかし、物事は白黒確かにさせておきたい性分だったのもまた事実だった。蓮丸は最後の笑顔えみがおを浮かべて、

「だって、もう君は使えないから」

 と部屋を後にした。

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胡蝶の花、蓮とともに 零桜 @reo_236jd

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