胡蝶の花、蓮とともに

零桜

――一話

 あばら家の一室は日没の色を落とし込んでいた。暗闇と言うには明るく、いまだ太陽は裾を隠したばかりである。一人で居るには大きく、二人で居るには小さい部屋だ。真中まなかには抉られた所為で哀れになった座卓が飾られており、剥き出しの壁と床には赤黒い花が咲き、角にはうすらと蜘蛛の巣が張られている。まるで人が生活を営んでいるようには見えない、けれどそこには、丁寧に爪痕が残されている。そんな家で、名を蓮丸れんまると言う男は幸福な暮らしをしていた。愛嬌のある中性的な顔立ちに色の白い華奢な体躯、よく回る頭と口で、彼は社会的地位を着々と築いていた。なににも不自由していないと思わせるこれが、ただ純粋な愛の為に女人を鎖で繋いでいるとは誰も考えすらしない、外面のい男だった。まるで自分は狂っていないかのように、流行はやりの着物に浮き出た骨と左の四本指を隠して、今日も蓮丸は朝五ツに家を出た。花月かづきは部屋でときが経つのを待っていた。襦袢一つを身に纏い、しっとりと濡れたような黒髪を結いもしていないさまは十分に被害者を演出している。常に鎖で壁に繋がれている彼女にとっての行路なんぞ、これと蓮丸からの誹りを受けるのみだった。蓮丸は仕事の為に七日なのかの内の半分は家を空けているが、そのあいだも勿論鎖を外されることはない。故にこうして、今の彼女には、小窓から外をぼんやりと眺めることくらいしかできなかった。

 窓を見だしてからしばらく。花月は蓮丸の帰りがいつもより遅いことに気づいた。同じ景観を何年も見続けていれば、陽の傾きや影の射し方なんかで、凡その時刻なんてものは、元より聡明な花月には意識せずとも容易に推測できる。そして噂をすればなんとやらとも言うもので、丁度その時、玄関の扉がひらく音がした。思わず花月も驚きに肩を揺らす。やけに大きな足音が響いて、それから廊下へ続く扉が開いた。その向こうにいるのは見るからに機嫌の良い蓮丸――否、不機嫌極まりある蓮丸だ。鼻歌まで口ずさんでいる。花月は窓へ向けていた目を蓮丸に向けた。蓮丸は花月を眼に映すと、気色悪く人間らしい笑みを浮かべ、後ろ手にまた勢いつけて扉を閉めると、足早に花月の正面へ向かい、薄い唇を開いた。

「そう、聞いた?」

 蓮丸は平生通り「んふふ」と口角を吊り上げた。

「ただいま、花月。……おかえりって、言ってくれないの?」

 蓮丸の歪んだ笑みに対し、花月は僅かに口を開く。しかし花月が何かを紡ぐよりも早く、蓮丸は言葉を重ねた。

「知ってるよ、花月はもう『おかえり』さえ話せないこと。言えなくさせたのは誰だっけ? 教えて花月、その可愛い口で。……知ってるよ、それは俺だよねぇ? んふふ、あはは!」

 理性の欠片も砕けている男は無邪気に腹を抱え、涙を流しながら笑った。花月は蓮丸の独り言同然のお喋りを聞いていた。反論も、口を挟むこともなく、ただ聞いていた。それを解した蓮丸は一頻り笑い転げたあと、一度表情を消し、そして笑み、やや重く口を開いた。

「……そう、今日俺が遅くなった理由。俺の帰りが遅いって分かってた? 分かってなかった? まあどうでもいいけど。今日ね、面倒臭〜いことがあったんだぁ、おきたんだぁ。聞いてくれる? 話すけど。ほんとはもっと早く帰れる予定だったんだよ! だけどね……んふっ、やっぱりいいや! 思いだしただけで気が狂いそうになっちゃう! でもそうしたら傷付けちゃうから! だからだめ。それもなんだか素敵だけれどね。でもそんなことしたら困っちゃう、だって俺が傷付けられない。……それも駄目だね? だから駄目なことはしない。つまり思いださない、話さない! 一つ話題が減っちゃったけど、いいよね? そもそも俺お喋りちゃんだから話題なんて尽きる筈ないし。んふふふふ、あはははは!」

 この男には頭に浮かんだ言葉を思考するという過程が備わっていなかった。相手が聞いていようが聞いていまいが、口を開こうが開かなかろうが、とにかく、自分の言い分を吐きだすまで止まらない。出鱈目に突拍子もないことを喋り続け、それを黙って聞いていれば何もないのかと怒りだす。そんな破綻した身勝手は今も例に洩れずで、お喋りが終わったかと思えば、今度は黙っていた花月に難癖を付け罵倒した。お前はどうせ自分の話を聞いていない。退屈させない為に自分がこうしてわざわざ話をしてやっているのに。だから花月はそうなのだ。しかしそれこそが自分には愛おしい、と最後はいつも、理解し難い口説き文句で締め括られるのだが。そこまで言い切れば蓮丸は満足した様子で、奇妙な笑い声をあげれば「そう」と零して息を吸った。

「ねえ、聞いた? 聞くわけないか。最近くしてやってたお坊ちゃんが結局金で大損したって。馬鹿だね、そんないい話理合りあい無いのに。まあとにかくこれで頼られることも無駄にお茶会だのなんだのと付き合わされることはないだろ。あいつ面倒臭かったから助かったよ。まぁ面倒って言えばみ〜んな面倒なんだけど。そうそう、ここから近い果物屋の、たまに果物寄越す都合のいい女。結婚したのは知ってたけど、赤ん坊が産まれたって。どうでもいいね? この前裏道に小さな雑貨屋ができたらしいんだ。でも品揃えは悪いしなにせ場所が場所だから客入りも少なくてもう早売上の危機らしい。なんでそんな所に店を構えたのかね? 興味ないけど。あぁ、そういえば久々に散歩に行こう、買い物に行こう! 新しい髪飾りとか買ってあげる。着物も買おうか、そろそろ汚れてきたし。んふふ、逢引だね? そうだ、前から気になってた茶屋があったんだ、菓子が美味しいらしくて。今度二人で行ってみよう?」

 花月の耳孔に散歩の単語が突き刺さった。外の空気を吸える――考えただけでも、それは彼女にとって、一時ひとときの癒しとなるものだ。今度とはいつなのだろう、と花月は久々に思考に耽る。それは明確に表情として表れてはいなかったが、蓮丸は花月の胸中を見抜いたように、静かに笑った。花月は丸い目で蓮丸を見た。

「あぁごめん、とくに意味はないんだ。笑いたかったから笑ったの。……うるさくなかったから驚いた? 俺だってそういうときもあるさ」

 蓮丸は花月の頭に手を伸ばした。花月は反射的に目を固く瞑る。しかし幾ら待っても、予想していたものは感じない。ゆっくりと目を開けた花月は眼前に、行き場を失ったように引っ込められた左手と、複雑な色を浮かべた蓮丸の顔を認めた。笑んでいる、悲しんでいる、そのどちらとも取れる、歪められた顔色。瑠璃鶲るりびたきの声さえ何度か響いた静寂を破ったのは、花月だった。枷に嵌められた日に焼かれていない手で、蓮丸の頬に触れたのだ。蓮丸はそれは驚いて咄嗟に口を開けたものの、花月の目を見詰め、閉口した。彼女にも認知できていない彼女には、今の蓮丸は苦しそうに見えた。そんな蓮丸になにかできないかと、無意識ながらに微笑を浮かべて手を伸ばしていた。蓮丸は押し黙っていたが、やがて渇いた笑声を漏らした。

「狡いなぁ、花月は。俺が触れられないこと分かってやってる? 俺が花月にどんな想いを抱いているか分かっててやってる? ……花月は悪人だ。すっごく悪い人だ。……俺よりも悪い人だ。駄目なんだよ、俺が触れちゃ。だから閉じ込めてるの、下手なことしない為に。だから、もう……」

 目蓋を閉じると同時に苦虫ごと唾を飲み込んだ。花月は硝子に触れるように、頬を撫でつづける。

 それが、壊れた日々の一幕。

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