胡蝶の花、蓮とともに
零桜
――一話
あばら家の一室は日没の色を落とし込んでいた。暗闇と言うには明るく、
窓を見だしてからしばらく。花月は蓮丸の帰りがいつもより遅いことに気づいた。同じ景観を何年も見続けていれば、陽の傾きや影の射し方なんかで、凡その時刻なんてものは、元より聡明な花月には意識せずとも容易に推測できる。そして噂をすればなんとやらとも言うもので、丁度その時、玄関の扉が
「そう、聞いた?」
蓮丸は平生通り「んふふ」と口角を吊り上げた。
「ただいま、花月。……おかえりって、言ってくれないの?」
蓮丸の歪んだ笑みに対し、花月は僅かに口を開く。しかし花月が何かを紡ぐよりも早く、蓮丸は言葉を重ねた。
「知ってるよ、花月はもう『おかえり』さえ話せないこと。言えなくさせたのは誰だっけ? 教えて花月、その可愛い口で。……知ってるよ、それは俺だよねぇ? んふふ、あはは!」
理性の欠片も砕けている男は無邪気に腹を抱え、涙を流しながら笑った。花月は蓮丸の独り言同然のお喋りを聞いていた。反論も、口を挟むこともなく、ただ聞いていた。それを解した蓮丸は一頻り笑い転げたあと、一度表情を消し、そして笑み、やや重く口を開いた。
「……そう、今日俺が遅くなった理由。俺の帰りが遅いって分かってた? 分かってなかった? まあどうでもいいけど。今日ね、面倒臭〜いことがあったんだぁ、おきたんだぁ。聞いてくれる? 話すけど。ほんとはもっと早く帰れる予定だったんだよ! だけどね……んふっ、やっぱりいいや! 思いだしただけで気が狂いそうになっちゃう! でもそうしたら傷付けちゃうから! だからだめ。それもなんだか素敵だけれどね。でもそんなことしたら困っちゃう、だって俺が傷付けられない。……それも駄目だね? だから駄目なことはしない。つまり思いださない、話さない! 一つ話題が減っちゃったけど、いいよね? そもそも俺お喋りちゃんだから話題なんて尽きる筈ないし。んふふふふ、あはははは!」
この男には頭に浮かんだ言葉を思考するという過程が備わっていなかった。相手が聞いていようが聞いていまいが、口を開こうが開かなかろうが、とにかく、自分の言い分を吐きだすまで止まらない。出鱈目に突拍子もないことを喋り続け、それを黙って聞いていれば何もないのかと怒りだす。そんな破綻した身勝手は今も例に洩れずで、お喋りが終わったかと思えば、今度は黙っていた花月に難癖を付け罵倒した。お前はどうせ自分の話を聞いていない。退屈させない為に自分がこうしてわざわざ話をしてやっているのに。だから花月はそうなのだ。しかしそれこそが自分には愛おしい、と最後はいつも、理解し難い口説き文句で締め括られるのだが。そこまで言い切れば蓮丸は満足した様子で、奇妙な笑い声をあげれば「そう」と零して息を吸った。
「ねえ、聞いた? 聞くわけないか。最近
花月の耳孔に散歩の単語が突き刺さった。外の空気を吸える――考えただけでも、それは彼女にとって、
「あぁごめん、とくに意味はないんだ。笑いたかったから笑ったの。……うるさくなかったから驚いた? 俺だってそういうときもあるさ」
蓮丸は花月の頭に手を伸ばした。花月は反射的に目を固く瞑る。しかし幾ら待っても、予想していたものは感じない。ゆっくりと目を開けた花月は眼前に、行き場を失ったように引っ込められた左手と、複雑な色を浮かべた蓮丸の顔を認めた。笑んでいる、悲しんでいる、そのどちらとも取れる、歪められた顔色。
「狡いなぁ、花月は。俺が触れられないこと分かってやってる? 俺が花月にどんな想いを抱いているか分かっててやってる? ……花月は悪人だ。すっごく悪い人だ。……俺よりも悪い人だ。駄目なんだよ、俺が触れちゃ。だから閉じ込めてるの、下手なことしない為に。だから、もう……」
目蓋を閉じると同時に苦虫ごと唾を飲み込んだ。花月は硝子に触れるように、頬を撫でつづける。
それが、壊れた日々の一幕。
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