ぼくと「それ」

Zenak

ぼくと「それ」





 今でもはっきりと覚えている。


 目を覚まして、まず真っ先に、背中に痛みを感じた。


 身を起こそうとして起こせず、それから、カーテンの隙間から差し込む朝焼けの光に目を細めて。


 昨日の出来事が、全部、悪夢なんかでは無かったと気付いて、途端に恐ろしくなって、頭を抱えた時――。



「それ」はぼくの目の前にいた。





「それ」は多分、ぼくにしか見えない。


 昔、一度だけ父さんに聞いてみた事がある。


『パパ、ちょうどその辺りに、なにか見えない?』


「……この辺りか?」


 父さんはその時、確かに、僕が顎で示した場所を見ていた。父さんは少しの間、ぼくを困ったような顔で見つめた後、丁度「それ」に向かって手を伸ばしたけれど、「それ」はその場からさっ、とすぐ横に避けてしまった。


 ぼくは元々恥ずかしがり屋だったから、それ以来、今まで何となく仲良くなった隣のベッドの人達にも、それから白衣の人達にも、誰にもこの問いを打ち明けられていない。


 ……あっ、でも、今までに二回、「それ」が声を出しているのを見た事がある。もうかなり昔の事だけど。


 一回目は、夜、ぼくが寝ていた時の事。ヒソヒソ声が聞こえて、薄っすら目を開けたら、丁度ぼくのベッドの横で、「それ」と父さんが向かい合って、何かの会話をしていた、……ような、気がする。眠かったからあんまりよく覚えていない。あれは夢だったのかもしれない。


 そして二回目は……、「それ」が突然暴れ出した時。いつも「それ」はうんともすんとも喋らないのに、その時だけは、ぼくの肩を掴んで、何かを、必死に大声で叫んでいた。何を言っていたのかは分からない。荒ぶる「それ」を見て、ぼくはただただ困惑するしかなかった。


 ……怖くはなかった。なぜか、悲しかった。


 その出来事の後から、何だか「それ」は以前にもまして動かなくなったような気がする。





「それ」は、言葉で言い表す事が出来ない。


 大きさは大体お父さんより少し小さいくらい。他の人たちと同じように、そこら中を歩き……いや、時折引っ掛かりながら動き回っている。けれど、明確な形はよく分からない。


 赤、オレンジ、黄、緑、青、それに、紫。


 丸、三角、四角、グチャグチャにゴチャゴチャ。それから、言葉で言い表す事の出来ないくらい難しいカタチ。


 何もない空間に、ぽっかりと開いた空虚な穴。不可視のもやもや。淀んだ色をしたカーテン。


 ……とまぁ、こんな風に、ぼくの持っている知識を総動員しても、「それ」を何か分かりやすい言葉で表現するのは難しい。


 だからぼくは、この数年間に渡る生活の中で、結局「それ」に対してあだ名をつける事も出来なかった。


 ……それでも、ぼくは「それ」に対して不快感を抱いていた訳ではない。寧ろ、「それ」を見ていると、僕は何だか落ち着いた気分になれるのだ。


 そのおかげもあってか、僕はその不便な生活の中でも、決して感情を失う事は無かった。




 その不便な生活も暫くして、ぼくの心の中にある一つの疑問が芽生えた。


 そういえば、「それ」の正体は一体何なのだろう?


 迷子の宇宙人?悪い幽霊?それか、可哀想な僕を助けに来てくれた神様?


 本を読む事も手を動かせないから出来ず、人に相談する事も自分の性格と声のせいで出来ず、まぁ結論から言うと、その時のぼくは、「それ」の正体について全く思い当たらなかった。ただ一つ、「それ」が、ぼくを助けに来てくれた神様でないという事を除いて。


 だけど、ぼくは諦めなかった。というより、諦められなかった。「それ」の正体について考え続けないと、ぼくがこの世で生かされている事の意味が、無くなってしまうような気がしたから。


 ぼくがここに来る前と比べて、別人のように優しくなった父さんに大量の図鑑をねだって、同時にぼく自身の性格ももっと明るくなれる様に努力した。……それでも最初の疑問は周りに聞けなかったけれど。


 今までぐうたら寝ている事しか出来なかったぼくは、それから見違えるように頭が良くなっていった。


 とても楽しかった。とても、ワクワクした。


 視線を動かして、ページが液晶の中で擬似的に捲られていく度に、動物の鳴き声や見知らぬ国の人達の声がぼくの頭の中に溢れて、色んな景色が、ぼくの目の前に咲き誇った。


 思いつく限りのものは全部調べた。動物、魚、宇宙、物理化学、世界の国々、果ては都市伝説まで。


 ……それでも、結局「それ」の正体は分からずじまい。分かった事といえば、「それ」が、他の人と同じく部屋のドアを開けてやってくるという事ぐらい。良いやつなのか悪いやつなのか、そもそも意思を持っているのかさえ、今でも謎のまま。


 終わりの見えない旅の途中で、いつしか、ぼくは全てを投げ出してしまった。




 ……でもね。たった一つだけ、ぼくがまだ気になっている事がある。


 それは、果たして「それ」が物理的な実体を持っているのか……、すなわち、触れるのか、という事。


 さっきも話したように、「それ」は人や機械が近づくと、すぐにその場から離れてしまう。まるで、意思を持った人間みたいに。


 一通りの事は試したと思う。先生に奇妙と思われるのを承知で、この白い部屋の中で虫取り網を振り回してもらったり、「それ」に何とかボールを当てられないか試してもらったりもした。


 そんな無茶な事までしたけれど、やっぱり「それ」には1ミリも掠らない。「それ」はいつも、先生や父さん、司書さんとかの他の人たちが触れようとする度に、どうにか避けてしまう。


 手を伸ばせばいつでも触れられそうな距離にいるのに。息を吹けば、届きそうな位置にいる時もあるのに。


 ――結局、ぼくは、何一つ分からなかった。



 ……あぁ、悔しいな。もうこれ以上ぼくは「それ」について考える事も出来ないし、今までみたいにぼうっと眺めることも出来ない。


 ごめんね父さん。買ってもらった図鑑も全部無駄になっちゃった。怪我を治して水族館に行く、っていう約束も、全部全部台無しにしちゃった。


 ごめんね先生。あんなに一生懸命ぼくに色んな知識を教えてくれたのに、ぼくは貴方に恩返しの一つもする事が出来ない。元気になって、先生の前にお礼しに行く事も出来ない。


 ……何で、みんなぼくの周りで泣いているの?そんなに泣かないで欲しいな。ぼくは今、痛みに悶えている訳でもないし、苦しんでいる訳でもないんだ。


 ただ、悔しいんだ。ぼくが難病にかかって、何にも出来ずにそのまま死んでしまって、皆とも、それから「それ」とも、永遠に会えなくなってしまう事が。


 がっかりしているんだ。父さんと先生、それから看護師さん達を喜ばせられなかった事と、「それ」の正体を突き止められなかった事に。


 もう少しだけ、この世界で生きてみたかった。


 もう少しだけ、この世界で頑張ってみたかった。


 もう少しだけ、この世界で「それ」と一緒にいてみたかった。



 ……何だか、意識が、薄れかけてきたみたい。


 白いもやが、僕の頭の中にいる。


「死ぬ」って、こんな感じなのかなぁ。


 分からない。もう、上手く考えられない。


 あぁ、みんな、みんな



 さようなら。





 あぁ、「それ」って、こんなにも、優しくて、温かかったんだ。

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