第59話


頷くと母はすぐに二階へ行き、しばらくして降りてきた。


クリーム色の布地に、緑色の帯。


「久しぶりに着たよ」

「うん、そのほうがお母さんらしい。似合っているよ」


十数年ぶりに見る母の着物姿も、目に焼き付けておくのだ。和服姿はしとやかに見える。


「他は」

「爪、切っていこうかな」


リビングの固定電話の下にある引き出しから爪切りを取り出すと、少し伸びている爪を切る。


パチン、パチンと音がリビングに響く。震えながら私は切る。


爪が伸びているのも、生きている証。


人間が一生のうちに切る爪の数ってどのくらいだろう。私はどのくらい切ってきたの

だろう。


母が音を聞いて、涙を流していた。もう一度爪を切るくらいの間は生きていられるだろうか。私の明日はいつ、途切れるのだろう。


「もう、行きましょう・・・・・・タクシー呼ぶ?」


爪を切り終えると、母が耐え切れないといった感情を露わにして言った。


「ううん。歩いて行きたい」


まだ歩けるのだから、外の空気を吸いたい。


一緒に家を出る。雨は上がっていた。水の混ざった風の匂いが鼻腔をくすぐる。


春は近い。風の中に春の成分が混ざっているのを感じる。


春を感じたい。目一杯、あの日光の暖かさを感じたい。春の足音は聞こえてくるのに、その音が目の前までやって来る頃には私はもうその景色を見ることも聞くこともできない。


そして今日はまだ寒い。



杖をつき、ゆっくりと病院へ向かって歩く。


どうか。どうかお願い。まだ終わらないで。


病院の中へ入ってしまったら、おそらくもう二度と出てこられない。


十代の後半から二十代までずっとあれだけ死にたい死にたいと思っていたのに、今ここへ来てようやく、私の心は生きたい生きたいと、全力で叫んでいる。



もっとたくさんのものをこの目で見たい。生命力と輝きと躍動感に満ちたこの色鮮やかな世界を、巡る四季を、大好きな人たちとずっと見ていたい。


私の身体は、あとどのくらい持ってくれるのだろう。どれだけ頑張って動こうとしてくれるのだろう。それは私の身体だけが知っていて、私も、神様でさえ止まるときは知らないのかもしれない。


頼むよ、私の体。もう少しだけ働いていてね。


私にはこの世の生きている人たちは誰も知らない、未知の世界が待っている。死んだら無になる説を、死にたいと思っていたときは散々考えていた。


死んだらなにもなくなるのだと思っていた。 


でも今、その考え方は個人的には採用しない。だって死んだらどうなるのかを考えたほうが楽しいから。


死んだあとは、誰かが迎えに来てくれるのかな。顔の知らないおじいちゃんやおばあちゃんにも会えるだろうか。私はどこで千歳や空君を見守ることができるのだろう。



進んでは立ち止まりながら、色々な景色を見る。今見える景色をひとつ残さず見てみよう。



通り過ぎた民家の庭には植木があった。緑色の葉には水浴びでもしたかのようにいくつもの水滴がついており、重みで跳ねながら落ちる。



あらゆるところから落ちてくる水滴のひとつが、太陽の光できらりと光った。



そのまばゆさに目を細める。未知の世界に踏み込むことも、また光であるといい。


病院の建物が見えてきた。緊張感が一気に増す。あの建物の中へ行きたくない。でも行かなきゃ。行かなくちゃ。


泣きたいのをこらえてうつむき歩いていると、不意に日が照りだした。 


私が大好きな太陽の光。


ゆっくり見上げると、雲と雲の隙間から青空が出て太陽が顔を出している。


「あ」


呟き立ち止まった。この一瞬だけ、全てを忘れ去ることができた。


「どうしたの」


数歩先を歩いていた母が振り返り、私のもとへと歩み寄る。


空中に大きな虹の橋がかかっていた。病院の建物を囲うように。


運に見放されたわけじゃなかった。魔法も奇跡もまだ終わっていない。土砂降りの雨は、自然が虹を見せてくれるための布石だったのだ。


「ああ、こりゃ綺麗だ」


母も呟く。スマホを取り出し、写メを撮った。すぐにLINEで千歳と空君に送る。


今年は虹でいっぱい、と言った千歳に本物の虹も見られたらもっといいかも、と答えたのは何月だったか。もう記憶が曖昧だけれどまだ秋だったような気がする。


そうして、本当にそれが叶った。まるでこのときを待ちかねていたかのように。


『亜紀ちゃんの願い、叶ったね』


千歳から返信が来た。千歳も覚えていてくれたのだ。すぐに返事を返す。


『うん。自然ってすごいね』


『綺麗です。できれば写真に撮りたかったけど、生憎学校からじゃ見えない』


空君らしい返事が来る。そうか、今は学校か。楽しく過ごせているといい。


レインボーローズから始まった私の人生は、本物の虹を目にして終えられる。


道を通り過ぎていく人も立ち止まって声をあげたり写真を撮ったりしている。


今はきっと、色々な人の想いがあの七色の虹に集結している。目を奪われるその一瞬だけは、どんな人でも純粋な心になるのだろう。その純粋な人々の想いが虹に伝わっていくのだ。



千歳はいつか、虹を見られるのは吉兆と言っていた。なら病院の中でもそれなりに楽しい日々を送ることができるのかも。


なにかきっと、ひとつくらいはいいことがある。それにまだ、もう一人くらいは笑わせるということをしていない。


やりたいこと全てをやり終えて逝こう。私はおじいちゃんほど生命力が強くないみたいだけれど。


虹の橋は、緩やかにその姿を消していく。


「行こうか?」


ずっと立ち止まって眺めていた私の背中を、母が軽くさする。


背中の痛みも大分強くなってきているけれど、モルヒネを使うほどじゃない。


まだまだ大丈夫。


母に微笑むと、頷いて歩き出した。死ぬときは、多分きっと一人じゃない。残された人たちの気持ちを考えられないわけじゃないけれど、みんないずれ気持ちの整理はつく。


死んだら誰かのために奇跡を起こそう。


病院もまた光であるのかもしれない。人間が生まれ、そしていずれは還る場所。


そう思っただけですっと心の淀みがなくなっていった。


とうとう来た。


敷地内に足を踏み入れる。私は再び立ち止まって大きく深呼吸をする。


まだ呼吸ができる。たまに変な音が漏れるけれど、息も吸える。吐ける。


雨上がりの空も空気も、ツンと澄んでいてとても清々しい。


覚悟を決めた。ここから先はもう、自分との闘いになる。


「いくよ・・・・・・」


母を追い越しぴょんと跳ねてから、自動ドアをくぐる。


千歳、約束は守るよ。どんなに苦しくても絶対笑顔でお礼を言って最期を迎えるから。


さあ飛び込もう、光の中へ。


(了)

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桜を見られるほうに 明(めい) @uminosora

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