第58話
流石に空君が私を看取るシチュエーションは考えたくない。
彼、まだ高校生だし頼むのは残酷すぎる。だから千歳に頼んだときも空君には言わなかった。
『退院できる見込みはあるんですか』
希望的観測の返信。私は『多分、ない』、と打ち返した。
それからひょっとしたら空君が感じ取ってくれるかもしれない絶望を少しでも和らげるために私はすぐにLINEを打つ。
『喫茶店へ行ってトシさんと話してきた。空君の撮った桜、素晴らしかったよ』
『そんなことどうでもいいです。本当にもう最後なんですか。仮退院とかあるでしょう。そうしたら本物の桜を見に行きましょう』
あったらいいな。でも、そんな日はもう来ない。そんな気がする。
『多分、それもない。でも空君の撮った桜を見られたよ。それだけで満足』
賭けは半分だけ当たった。空君の撮った桜を目に焼き付けられただけで十分だ。
『俺、千歳さんが小春ちゃんの分まで生きているように、亜紀さんの分まで幸せになりますよ。なっていいですか?』
私の分まで幸せになると言ってくれる人がいる。空君が、幸せになってくれる。
『お願いしようかな』
『墓前にだって欠かさず行きますから』
『そうしたら毎回毎回、なにかありがとうって合図を送るね』
二人からの返信が来ることはもうなかった。
なにを言っていいのかわからないのだろう。それでもまた、あの二人ならすぐにお見舞いに来てくれる。そう信じる。
なにを持っていこうかな。私はがらんとした部屋の中を見渡し、考えた。
家庭用プラネタリウム。流石に無理か。
あ、そうだ。
もう戻ってくることはない部屋の引き出しから緑色のレターセットを取り出す。
片付けを徹底的にしたときに捨てようと思って捨てなかったやつだ。とっておいてよかった。
本当は新しいものが欲しかったけれど、文具店へ行っている暇はない。
病院で手紙を書こう。
私が死んだあと届けられるように。両親を初め、トシさんや空君や千歳の五人にこれまでの感謝の気持ちをしたためよう。
死後のちょっとしたサプライズ。みんなびっくりしてくれるかもしれない。笑ってくれるかもしれない。
どうせならタイムカプセル郵便を使いたい。看護師さんにこっそり頼んでみようか。最後のお願いだとわかれば聞いてくれるかもしれない。それとも今ってそういうことはしてくれないのかな。
看護師ってよくよく考えてみたらすごい職業だ。もちろん医師もだけれど毎度毎度、誰かの死と向き合い、立ち会っている。汚物も処理したり、患者の我儘を聞いたりしているのだ。
そんな状況の中で働いているって、結構過酷なことなのではないだろうか。それでもそういう仕事をしたくて看護師になっているのだから尊敬する。
私は結局、なにになりたかったのだろう。やりたいことがなにもなかった。でも、やりたいことのなにもない人生でよかったのかもしれない。だって志半ばでということがないから、屈折もない。
他には筆記用具。スキンケア用品も必要か。病気でも、顔を洗えば肌は突っ張る。あとは千歳と空君からもらった写真を持っていこう。
病室で思い出と一緒に眺められる。
病室から桜、見られるかな。見られるといいな。もう見られないと勘づいていてもまだ私は心のどこかで期待している。期待するだけ無駄と知っていても、なお満開の桜の咲く情景を思い浮かべている。どうせなら病室は窓際がいい。
スマホが音を立てて振動する。見ると、千歳が普通のメールアドレスでメールを送ってきた。
『もう一つ、現像し忘れていた写真』
短い文章が書かれていた。なにかあったっけ。添付ファイルを開く。
「ああ・・・・・・」
会社を辞めたときに頂いたレインボーローズの数々。今なら純白のかすみ草も、七色の花もくっきりと目に入る。一枚一枚花びらの色が異なって、虹色になっている。
私の奇跡はここから始まったんだ。
勤めていた会社の人々にも、出会えてよかった。今なら心からありがとうと言える。
千歳にもお礼をLINEで送って、写真を見ながらぺたりとその場に座り込んだ。
生きていてよかった。死んだように生きるより、精一杯生きていると感じて死んだほうがいい。だから今、本当に幸せなんだ。
「ほら、用意したからあんたが持っていきたいものをここに入れて」
母が私の部屋にやって来てボストンバッグを置く。寝間着と洋服、下着、写真を入れる。
他の時計やマグカップなど、必要なものは本当に全て母が揃えていた。
「お父さんにもメールで伝えておいたから」
「仕事じゃん。帰ってからでもよかったのに」
「あんたにいつなにが起きるかもうわからないじゃない」
母は今にも叫び出しそうだ。父も気が気じゃないだろう。
なにかひとつでも親孝行ができたらよかったのだけれど、このままではもうできそうにない。
「なにか、他に家でしていきたいことある?」
お母さんの手料理が食べたい。着物姿が見たい。でもそれには時間がかかりすぎる。
母の手料理は美味しいのだ。
「お母さんの作るご飯、大好きだったよ。ありがとう。着物姿も見たいな」
言うと母の表情がますます歪む。
「着物着ようか?」
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