『小田の執筆生活を振り返る―書くことは色んな効能がある―』

小田舵木

『小田の執筆生活を振り返る―書くことは色んな効能がある―』

 草木も眠る丑三つ時。その時間帯に起き出すはニート。

 僕の朝は早すぎる。親からパン屋の生活と形容されるくらいには早い。

 昨今も残暑は厳しい。日中は暑すぎる。だからこんな時間帯に起きるのだ。

 創作をするなら。涼しい時間帯がいいのだ。

 

 僕は適当に朝食を取るとPCを起動して。カフェオレ片手に向き合う。

 そしてブラウザを立ち上げて定期巡回を済ませてしまうと。テキストエディタと向かい合う。

 僕が使用しているテキストエディタは『Visual Studio Code』。本来はプログラミングに使われるソフトウェア。だが。こいつに適当なエクステンションをぶち込み、文章執筆に使ってる。慣れると案外使いやすい。文章執筆用のエクステンションも充実してるし。

 

 僕は文章…小説やエッセイを書く際にプロットを用意しない。

 情景を2、3用意したりもするが、基本は一発書き。

 だから。一つのセンテンスが出るまでにかなり時間がかかったりする。

 センテンスが一つ出てしまえば。後はそいつを繋げていくのが僕の仕事。

 嘘に嘘を積み重ねて、物語に整形していく。書きながら次のスジを考えていくのだ。

 

 僕の得意とするフィールドは一人称だと思う。

 主人公を一人創作して。そいつを世界にぶち込んで。行動する様を見守る。

 こういう創作スタイルだからプロットは役に立たない。プロットを用意しようが、キャラは勝手に動く。

 主人公を好きにさせといて。次のキャラに出会わせたりすれば。物語は勝手に駆動していく。

 

 そうして。主人公が動く様を見ながらシチュエーションを考えたりもする。

 とは言え。考えると言うよりは次のシチュエーションが降りてくるのだ。

 僕の創作は基本的に『考えて』するものではなく。

 なのだ。

 論理でいくと言うよりはエモーションでやる。それが僕の創作。

 

 賢くない創作術だと思う。世には数多あまたの創作術の本があるが。

 こんな呪術めいた創作を推奨する本はないのではなかろうか?

 だが僕はこんな創作術で書き続けて数年になり。今さらロジックで物を書ける気がしない。

 

                  ◆


 僕の創作の原点。小説にハマッたきっかけは村上龍の『69―sixty nine―』であり。

 当時の僕は14。不登校になりかける寸前だった。

 僕はCDを借りに言ったツタヤでこの本を発見し。それを読み込んだ。

 高校を封鎖したり、文化祭でバンド演奏したり…色々ハチャメチャする話である。

 僕は村上龍にすっかり感服してしまい。他の著作も読み漁ったが―しっくりこなかった。

 

 しっくりこなかった僕は同じ村上の春樹の方に手を伸ばす。

 そして『ノルウェイの森』を読み、『僕と鼠』シリーズに出会う。

 僕がという一人称を好んで使うのはこの『僕と鼠』シリーズの影響が大きい。

 

 僕は村上春樹を読み漁る一方で、日本の昭和期の文豪の作品も読み漁った。一番は太宰治。評価が別れる作家だが、人に語りかけるような文体は僕に大きな影響を与えている気がする。

 後は芥川龍之介の短編やアフォリズムにも影響を受けたし、谷崎潤一郎のエロスの世界にも影響を受けた。三島由紀夫の『仮面の告白』に圧倒されたし、遠藤周作のキリスト教的世界観にも影響を受けた。安倍公房なんかも好き。『箱男』とか『砂の女』に影響を受けている気がする。

 

 僕は日本の作家をあらかた読み終わると、海外作家の方にも手を伸ばした。

 J・D・サリンジャー。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』年齢的に啓発されたなあ。ホールデン・コールフィールドくんは僕の思春期のロールモデルだ。

 トマス・ピンチョン。圧倒的な知識で書かれる物語に圧倒された。『メイソン・アンド・ディクスン』が好きだった。

 ヘルマン・ヘッセ。ユングに影響を受けた世界観が好きだった。『デミアン』は色んなところで引用するくらいに読みこんだ。

 そして。カート・ヴォネガット。『スローターハウス5』は衝撃だった。『So it goes』『そういうものだ』ってフレーズは僕の人生を満たしていくことになる。『猫のゆりかご』なんかも好きだ。


 僕は小説を読み進める一方で。洋画にハマっていた時期もある。

 僕はどうにも日本の映画やドラマが好きになれない。どうしても役者の顔が目についてしまうのだ。演技をしてますって顔と声色が没入感を削いでしまう。

 洋画に関して。僕は趣味がミーハーである。いわゆる名作の類を見漁った。

 

『ファイト・クラブ』は衝撃だったね。力こそ正義。プリミティブに生きよ。また演出にも衝撃を受けたかな。デヴィット・フィンチャーの作品は追える限り全て見た。

 

 また。アメリカン・ニュー・シネマと呼ばれるような作品群も見漁ったし、スペインのペドロ・アドモドバル作品も見た。ドイツ映画も見たし…ヨーロッパ系は結構見た記憶あるなあ。

 

 僕は小説、映画、ゲーム、アニメを貪るように見て。不登校の日々を満たした。

 創作物の中に居れば。うるさい現実など無視できるような気がして。

 そうして―14から20までは創作物に沈滞ちんたいしていたが。

 僕は実家を出て、引きこもり専門施設の寮に入ると。めっきり創作物を手に取らないようになる。

 …現実を生き始めたのだ。そこで久しぶりに。

 だからか。読む本も実利的になっていく。

 その頃は哲学や心理学の本に手を伸ばしていた。

 永井均。『独我論どくがろん』に衝撃を受けた。

 池谷裕二。僕が後年、神経科学に興味を持つようになったきっかけだ。

 

                   ◆

 

 僕は。

 22になるまで。もっぱら読み専だった。人が書いたものを咀嚼そしゃくするのが大好きだった。

 だが。ある日。自分の半生を振り返る文章を書き。それを引きこもり専門団体の出していた通信に寄稿した。それが僕が纏まった文章を人様に公開した初めての経験である。

 今。グーグルドライブに保存してある当時の原稿を確認してきたのだが。

 当時から僕はこの文体のままだった。2014年に書いた文章とは思えない。2023年に書いた文章だと発表しても違和感はないのではなかろうか。

 引用してみよう。…問題はないはずだ。著作権は僕のものだし。

 

 僕の人生は問題だらけだ。

 何一つとして変わっていない。

 でも、今になって思えばこの問題たちを解決するのは不可能なのだと思う。否が応でもそれは僕の性格から始まったことで、逃げようとしたって逃げられない。どんな形で人生を生きたって僕が僕なりに人生に立ち向かっていこうとするのなら、また似たような事になるだろう。

 こうやって開き直れるようになっただけ進歩なのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。

 親元を離れて始めた●●●●●●での寮生活。

 マイナスの面もあれば、プラスの面もあった。

 でもまあ、プラスとマイナスを合わせてゼロに近いところにもっていけたのだから良かったと思う。

 これから迎える2年目。僕は大きな不安を感じている。何も変われなかった僕に何がなせるのか?

 でもまあ、それでもやるしかない。まだ死ぬことはできないし。

 

 …まったくもって。当時から成長してない自分の文体に嫌気がさす。

 僕は曲がりなりにもカクヨムで100本作品を書いた男だが。

 ただ。漫然と書き続けるだけでは文体は成長しないという証左しょうさである。

 

 文体とはある種の指紋のようなものかも知れない。

 どれだけ人生を重ねても、人の文体は変わらないのではなかろうか?

 それは人格が変化しにくい事と密接に関わっているような気がする。

 

                   ◆

 

 僕は上記の文章を書いて以来、纏まった文章を書くことはなかった。

 就職しちまったからね。

 まあ。会社で社員になるに当たってレポートを書いたりはしたが。

 その文章は散逸してる。でも当時先輩が僕のレポートを読んで言った言葉は覚えている。

「小田。お前の書いたレポート。小説みたいだった」

 コレは褒め言葉ではない。むしろレポートなのに何で私的な語り口で書いてるのか?という指摘の言葉だった。

 

 その言葉を受けて―僕は小説を書き始めた…なんて続けられれば少しは格好がつくのだが。

 僕はそれに対して「へへっ。スミヤセン」と謝り、リライトをしたような記憶がある。


 僕は就職してからしばらく文章の事なんて忘れていた。

 狂ったように本を読んだ時期は過去のものになった。

 

 そして。 

 僕は27でうつを発症し。しばらく療養生活を送ることになり。

 その手慰みに文章を…小説を書くようになった。

 処女作は『街の心臓から送り出される血潮―少年と少女と彼女と彼』である。コレを書き上げて。某社某賞に投稿して、僕の執筆生活は始まった。

 んまあ。一次選考落ちするんだけどね。今は改稿版をカクヨムにポストしてある。

 今、軽く冒頭を読んできたのだが。

 うん。やっぱり僕の文体である。気になる方は見に行って欲しい。僕のカクヨムのページのトップの長編置き場に置いてあるから。

 

 僕の投稿生活は半年に及んだようだ。

 …ようだ、というのは今、投稿生活を纏めたガントチャートを確認してきたからだ。

 僕は7本くらい書いたつもりでいたが。実際には5本。

 時期は2021年の4月から10月まで。一本に対して約1ヶ月使っている計算になるかな。

 思えば贅沢な時間の使い方である。

 2021年の執筆の記録を纏めたエクセルファイルを確認してきたが。

 僕は1本、10万字前後の作品に平均100時間を使って作業していた。

 10万字の作品に100時間!

 今思えば、僕は作品を一つ仕上げるのにかなり時間を使っていたらしい。

 …今と比べたらなんと丁寧な事か!

 今の僕は完全な短編書きになっていて。10000字までの作品を8時間程度で仕上げる。校正もこみにして。マックス時速1250文字の世界。昔の僕がその様を見たら、びっくりする事は間違いない。

 

                   ◆

 

 僕は投稿生活に疲れ果てた。誰にも―下読みの方には読んでもらえるが―読まれない文章をシコシコ書き続ける事に疲れ果ててしまったのだ。

 そして2022年の1月9日にカクヨムに迷いこむ事になる。

 僕はそこで『出れない大人こどもわたし』を発表した。

 …コイツには読者様はつかなかったなあ。今。読み返せば当然の事だと分かる。のだ。だが。当時の僕は凹み倒し。

 

 2、3『古典Remix』を書いてから、あまり書かないようになってしまった。

 単純に小説を書くことに絶望したのだ。書こうが読者はつかない…

 

 そうした無味乾燥な毎日を送る間に僕は派遣の仕事に就き。

 しばらくカクヨムの事なんて忘れていた。

 だけど。その間にも作品は構想していた。『自動人形オートマタ』の雛形である。

 今や、内容は思い出せない…原稿も何処かに散逸…と言うか絶望した僕が削除してしまったようだ。確か7万字程度書いてボツったのだが。

 

 僕は派遣の仕事を5ヶ月で辞めてしまった。だが。その間にかなりの資料を買い込んだ。総計10万ほどになったと思う。残業しまくって稼いでいたからそんな真似が出来たのだが。

 

 資料を買い込もうが。僕の『自動人形』の雛形は動き出しはしなかった。

 単純にうつになってしまい、文章が書ける状態ではなかったのだ。

 

 そして今年の1月に急に文章が書けるようになり。

 僕は狂ったように書き上げて。3ヶ月の大うつ期を挟んで、執筆生活を続けている。

 

                   ◆


 ―僕にとって執筆とは何か?


 昔の答えは有名になる事を目指すであった。

 昔の僕は最後の最後にとっておいた執筆という手段で世に自分を問いたかった。

 だが。その夢は破れる事になる。当たり前だ。僕は自分では文章が巧いつもりでいたが、今は思う。凡百ぼんひゃくにも満たない稚拙な文章であると。

 

 今の僕にとっての。ある種のであり、であり、である。

 似たような事を何処かの小説家も言っていたような記憶がある。


 僕は自分の精神を探れない。これは自分の脳で自分の脳の事を探るというパラドックスに起因する。

 だが。今の僕には手段がある。小説であり、エッセイである。

 僕は僕の脳というブラックボックスから出力する。そしてそれに適当な嘘をまぶして物語に仕立てあげる。その出力を校正という形でインプットし、自らの精神が探れる。


 …僕はうつだから。

 自分の精神構造には多大な感心がある。

 それは神経科学に傾倒するきっかけになったが。神経科学だけではメスを入れきれない領域が確かに存在する。

 それが精神。コイツは厄介だ。

 だがツールは手にしている。文章だ。精神が産み出す文章を探れば僕の精神構造は明らかになる。

 

 …お陰で。僕のうつは大変安定してきている。

 薬のお陰もある。うつを器質疾患だと考える僕は薬の恩恵をひしひしと感じている。

 だが。文章の効能も捨てきれない。

 僕は僕自身を治療し続ける為に文章を書き続ける。

 自己満足じみた執筆動機。これで読者様はついてくるのだろうか?


 …ありがたい事に。僕の文章には読んで下さる方がいる。

 

 これは有難い話だ。

 

                  ◆


 僕は。書いてる。今もなお。

 最近はリハビリと称して毎日書き続けている。

 これは―案外にキツい。いくらニートで時間を持て余してようが、毎日アウトプットをし続けるのは辛い。

 でも、同時に楽しい。僕が文章を書き散らすと読者様の反応があり。

 僕は一喜一憂して。でもあくまで自己治療だから気にしないようにして。


 僕は文章で何処に行きたいのだろう?


 たまに考える。

 僕は何を目指しているのだろうか?

 一応は自己治療を目的とした執筆生活だが、欲がない訳ではない。

 …プロの物書きになりたい。でもそれ一本で飯を食うのは不可能に近いと分かっている。

 僕は書き続けたい。書く意欲が出る内は。いつ、また大うつを起こすかは予想できない。もしかしたら一生書けなくなるのかも知れない…


 僕は書けなくなる恐怖が居るのを感じる。

 そいつを遠ざける術は書き続ける事なのだが、それは一筋縄ではいかない。

 。僕はカクヨムに居るような気もする。

 のだ。

 孤独にモノを書き続ける者は僕だけではないと確認するためにカクヨムに居続けているのだ。

 

 …レヴューとか書かない男で申し訳なくなる。

 僕は人様の作品にレヴューをつけるのが大の苦手だ。

 僕なんかが人様の作品を評して良いのかという迷いがある。

 

 話がれた。

 僕は書き続ける為にカクヨムに居る。そして精神の健康が続く限りは物語をかたり続けるだろう。

 どうか皆様。よろしくお願い致します。

 

                 ◆


 執筆生活を振り返ってきた。

 これはちょうど、カクヨムポストが100本を超えた記念であり。同時にネタ

に詰まった窮余きゅうよの一策でもある。

 …こんなものに読者様はつくのだろうか?


 僕は執筆のバックグラウンドを振り返っておきたかったのかも知れない。

 久しぶりに自分の過去の文章を引っ張り出したりして。これが中々興味深かった。

 …22の頃に書いた文章が、今の文体と同じだなんて。

 いやあ。結構ショックを受けました。僕はこの10年でまったく成長はしていないのだな、と。

 でも。今の僕にはカクヨムにポストした100以上の作品がある。

 正直マンネリやネタ被りがない訳ではないし、習作レベルの作品もたくさんある。

 だが。僕はのだ。作品を問い続けてきたのだ。

 うん。しょうもない人生だけど。これは少しは誇りに出来る。

 何の取り柄もない僕だけど。文章を書くことは出来る。

 そして文章を書く限りは健康でいられる。


 …そんな感じで。

 僕は執筆を続けていきます。

 書くことは治療、自己啓発、祈り…様々な顔を持つが。

 一つだけは言える事がある。

 文章を書くことは楽しい。僕に与えられた一番の娯楽である。

 これを読んでいる貴方も書こうよ。

 書いたらカクヨムにポストしてくれ。読みにいくから。

 

                  ◆



 

 

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『小田の執筆生活を振り返る―書くことは色んな効能がある―』 小田舵木 @odakajiki

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