大嫌い大好き

堅乃雪乃

大嫌い大好き

 これはただの備忘録に過ぎない。


 忘れたいけど忘れたくもない、甘くて苦い青春の記憶。

 何十年も経ち、もし私が幸せになっていた時にこのノートを見て「こんなこともあったなぁ……」と、顔に微笑を浮かべて思い出に浸る。それをしたいがための悪あがき。

 人は私をロマンチストだと言う?

 それとも意地っ張りだと言う?

「結局、泣いちゃうんだろうなぁ……」と、記しながら心の隅っこで涙を溜める。

 そんな雲のようなふわふわとした感覚が心を浮かすのは、私が彼に一生分の愛を注いでいたからなのだろう。


 注いで、注いで。


 コップからはみ出しそうになるくらいのスリルを味わいながら、私の心を満たしていた。

 愛が溢れそうな感覚が、気持ち良くて仕方が無かったんだ。

 その危険に孕んだ愛の淵がいよいよ決壊して、愛の膜が縮んでいく。


 それが今。


 少なくとも私にとって、彼はこの世界そのものだった。

 もう二度と、彼の横顔を見ることはない。

 最後に、彼の知らない顔を知れた。


 ♭


 出会いは高校二年生の体育祭だった。


 すべてのプログラムが終了し、大いに盛り上がったこの祭りを締めくくるべく行われたキャンプファイヤーで、私は密かに彼に告白された。


「好きです! 俺と付き合ってくださいっ」


 それまでの私はごく「普通」の女子高生をしていた。

 いや、「普通」ではないかもしれない。

 クラスで目立つような人間でもないし、友達だって数人程度しかいない。

 私の名前をちゃんと覚えてないクラスメイトがいたっておかしくない。

 そんな程度の、なんの面白みも特徴も無い人間だ。

 そんな私だから、今までの人生で誰かに好意を向けられたことなんてなかった。

 否、告白なんてものは自分の人生とは程遠いようなもので。少女漫画の世界で良くあること、なんて認識をしていたくらい、夢のようなものだった。


 それが今、目の前で私自身の身に起こっているんだという事実。


 血がドクトクとうるさかった。

 全身に行き渡る感覚を内側で感じて、手先の方まで熱くなる。

 身体は驚いていた。

 でも、心は踊っていた。

 彼とは隣の席になって少し話をしたことがあるくらいの関係だ。

 でも、忘れ物をしたらなにも言わずにさっと貸してくれたり、私が具合悪そうにしていたら「大丈夫? 保健室行く?」なんて気にかけてくれたり。

「なんでこんな私に?」って訝しんでしまうほどの無償の紳士的な優しさに、私はいつも陰ながら感謝していた。

 それこそ、少女漫画みたいで、ベットの上で顔を枕に埋め、足をバタバタと意味も無く動かす。気付いたらただひたすらに天井を見上げて、ボーっとしている。

 一方、それでいてその優しさになんのお礼も出来ていない自分自身にも、少し嫌気がさしていた。でも私なんかが何かしたって喜んでくれる人なんて……ね?

 特段それ以外は話さなかったが、友達であることは確か。

 そんな彼からの告白。


 私は他に好きな人もいなかった。


 だって誰かを好きになったって、その恋はどうせ不完全燃焼をしてしまうだけ。

 私にとって人を好きになるのは損なんだ。

 だからこそ、自分に本物の好意を向けられるのは、体が軽くなるみたいに嬉しかった。

 風船みたく幸せのピンク色は膨らみ始め、しぼんだ心をお月様みたいな真ん丸に変えていく。

 そんな彼なら……私は好きになれるかもしれない。

 そう思って「はい」と返事をした。

 周りの雑踏にすぐにかき消されてしまうような私の言葉を聞いて彼はホッと一息つく。彼の頬の赤らみはキャンプファイヤーのせいか、熟れたりんごみたく青々しかった。

 無論、私もそうに違いない。

 きっと彼よりも深みを増していたに違いない。

 パチパチと鳴る火は、まるで私たちの恋の始まりを祝福するような拍手のようにも聞こえて……不思議と笑顔が零れていた。

 今にも声を挙げて、走り出したかった。


 ♭


 付き合っても、学校で誰かにこの関係を言うことはなかった。


 ただただ、二人だけの世界を楽しんでいた。

 前とは違うのは彼と一緒なんだという安心と幸福。

 些細な会話で今日も学校に来てよかったと思えるし、一人だった登下校も、暇を持て余していた放課後も、彼といれば、それはまるで毎日が非日常的な、無邪気に遊園地で遊んでいた幼少期のような感覚で、心がふわりと軽くなり、日々をスキップして跨ぐ。

 前までは彼と話すことが特別だったのに、今では毎日が特別に溢れている。

 周りからはバレていたのかもしれないけれど、特に邪魔されることもなく、私たちは私たちだけの時間を共にしていった。



「ねーねー」

「ん? どうした?」

「私のこと好き?」

「ほんとに急にどうしたんだよ」

「いいから!」

「……好きだよ。大好き」

「んふふー」

「笑い方が気持ち悪い」

「あー。そんなこと大好きな彼女に言っちゃうんだー」

「はいはい、ごめんなさい」

「うーそ。私も。大好きだよっ!」



 そうしていつの間にか二年生も終わり、気が付けば三年生。

 お互いに「受験」という二文字が脳裏に焼き付きながらも、勉強の時間も確保しつつ、合間を縫って、これまで通り楽しく過ごした。


 ♭


 梅雨の時期、「俺の部屋で勉強しない?」と言われた。


 その瞬間、私は「あ」と思った。

 私たちは先に進むんだと心で感じた。

 少し怖い気もしたけれど、そんな不安はすぐに消えた。

 当日、そのもしかしたらもあって、薬局に寄ってから、そわそわ、ドキドキする心臓の音が聞こえないよう、深い呼吸をして、彼の部屋にお邪魔させてもらった。

 最初はお互いちゃんと期末勉強をしていたが、徐々に雑談が多くなり、笑って、一緒に動画を見て、音楽を聴いて、距離は近づいて……鼻と鼻の先が触れ合って……はぁー。


「私……すごい幸せだよ……?」


 この世界で自分を愛してくれる人がいること。求めてくれる人がいること。

 そんな人とほんの数ミリ先で触れ合えて。


 とろけるような視線。


 白が赤に燃える風景。


 熱を、愛を伝え合って、必死に呼吸をして、お互いの空気を奪い合う。

 手を伸ばせばあなたに触れられる。

 私の手の届くところに幸せが転がっている。

 十八年間生きていて、一番胸が膨らんだ瞬間だった。


 ♭


 その後はちゃんと色々我慢をしながら、なんとか受験を終えられた。


 結局、私たちはおんなじ大学に進学することになった。

 彼は勉強も出来たから、私が頑張って彼の進学する大学のレベルに近づいていって、最終的には滑り込みで合格。

 この幸せがまだ続くことを噛み締めて彼と合格を祝った。

 あの時の彼の喜ぶ表情は、今でも夢に出てくる。

 大学生になれば高校よりももっと自由は増えて、もっと彼との時間も作れる。

 こんな幸せ、昔の私が見たらどんな反応をするんだろうと毎夜考えた。



「なに笑ってんの?」

「えっ、なんか幸せだなーって」

「どうしたんだよ急に」

「なんでもなーい」

「なんでもないんかい」

「うん」

「そういえば今度、前面白いって言ってた映画の続編やるらしいけど?」

「えー! 見に行きたい! 行こっ!」

「行くかー」

「やったー! 大好きー!」



 私は「この人と結婚するんだろう」と本気で思っていた。

 結婚して彼が社会人になったら……仕事の帰りを夜ご飯を作りながら待って。

 ついでにお風呂なんかも沸かしちゃって。


「ただいまー」

「おかえりなさい。今日もお仕事お疲れ様ね」


 ただいまとおかえり。

 なんてことのない言葉を簡単に言える相手がいるということ。

 そんな淡い妄想を思い描いていた。


 ♭


 ……でも違った。


 大学に入ってから彼との時間は増えるどころか徐々に減っていってしまった。

 新たな環境、新たな出会い、そうして起きる些細な行き違い、不信感。

 大学にはたくさんの人がいる。

 可愛い女子だってたくさん。

 こんな私なんか埋もれて息も出来なくなってしまいそう。

 そんな不安を言うと決まって彼は必ず言うのだ。


「俺が好きなのはお前だけだよ」


 ひどくロマンチストな私は彼の言葉を素直に信じた。

 なんせあんなにもバラ色の青春を彼とは過ごしたんだ。

 高校時代を、初めてを彼に捧げた。

 それをこんなポッと出の女子大生たちに、私と彼が共にしたたくさんの時間が負けるはずがない。

 彼も同じことを思ってくれているはず。

 そう信じた。

 いや、今思えば信じるしかなかったのか。

 彼を追ってこの大学に来たから、彼と一緒だからこの大学に来たから。

 彼と一緒に卒業しなきゃ、私のこの選択が無意味になるんだ。



 彼は人気者になっていた。

 それは彼の優しさが生んだ賜物であったが、同時に私には皮肉に感じられた。

 ほぼ毎日がサークル、飲み会、遊び。

 私との時間は端に追いやられた埃のように、儚く散っていく。

 そんな彼とも一週間に一度は会う約束をしていたけれど。


 ある日、彼と会ったらタバコの匂いがした。


 彼は「タバコなんて吸ってなにになるんだよ。寿命削って税金納めるとかありえないよ」っていつかの時は笑っていたのに、知らない間に彼は私の知らない匂いを纏っていた。



「なんで?」

「いやぁ、先輩がうるさくってさぁ」

「それって女? 女なんでしょその先輩⁉」

「うん……まあ。ってかそれのなにが悪い訳?」

「言ってたじゃん! 『俺は吸わない』って。それに私がタバコの匂い嫌いって知ってるでしょ? なんで彼女が嫌がってることするの?」

「そうだっけ?」

「そうだよ!」

「まあ、ごめんって」

「ごめんで済まそうとしないでよっ!」

「じゃあなんて言えば良いんだよ……」

「それは……あぁっ! もうっ、それくらい彼氏なら考えなさいよっ!」



 そういういざこざがある度に私は思う。

 本当に彼は私のことが好きなんだろうか。

 そんな不安が膨らみ、寿命の尽きた風船みたく破裂しそうになっていた。

 飲酒も酷かった。

 何度寝ている時に呼び出されたか。


「終電を逃した。迎えに来てくれ」


 ただ実を言うと少し嬉しかった。

 ああ、この人はまだ私を頼ってくれていると。

 結局、私がいないと彼はまともに生きていけないし、なんだかんだ私ともちゃんと会ってくれている。

 照れ隠しなのかな、なーんて。

 心の隅っこで妄想してみた。


 ♭


 でもそんな日々も突如終わりを告げる。


 彼が知らない女の人とホテルに入っていくのを見た。

 ひどく呼吸が荒くなる。

 なんで? 

 なんでなの?

 誰、なの……その人……? 

 翌日彼を近くの公園に呼び出した。



「昨日のなに? 私見たよ! 私たち付き合ってるんじゃないの?」


「別に好きな人ができた。だから別れよ」


「なによ急に⁉︎ あまりにも唐突すぎるよ!」


「いずれ言おうと思ってたんだ」


「なんで⁉ なんで私じゃないの⁉」


「わかんない」


「わかんないじゃわかんないよっ!」


「でもわるい。もう決めたことだから」

 


 自分勝手。

 優しい彼はどこへいったのか。

 知らない間に彼は彼じゃなくなって、知らないなにかに侵食されて。

 私と過ごしたあの日々は、もう何処かへ流れて消えてしまって。



「ねえ待って! 許すから! 今回は許すからさっ! 別れるのはやめて!」


「許さなくていい。だから別れよ」


「ダメ! ヤダ! ふざけてるの⁉」


「しつこいな!」


「バカ! アホ! なんでよっ……なんで別れるのよ……私のこと好きじゃなかったの?」


「もう、好きじゃないんだよ」


「……そこはさ……嘘でもいいから好きって言ってよ! 私には……こんな私には……あなたしかいないのに……私はあなたしか見てないのに……っ!」



 自暴自棄になる私。

 自宅に帰ってからも彼とのチャットに張り付いた。



「なんでもするよ? そんな身体が恋しかったの? 私なら幾らでも付き合うよ? 好きにしていいんだよ? 私じゃ物足りないの?」


「そういうことじゃないんだ」


「直して欲しいところあったら言ってよ。あなたが望むような人に頑張ってなるからさ。来て欲しい服とかさ、して欲しいこととかさ! なんでもするから!」


「うるさいなっ! もう終わりって言ってんだろ!」


「ねえなんでよ⁉ 私は大好きだよ? ちゃんと愛してるよっ⁉ 信じてよぉっ‼」


「あれ? ねえなんで既読になんないの? 見てるよね? なんで無視するの?」


「ねえってば! なにか言って! ちゃんと答えて!」


「ほんとになんでもするから! 好きなように私をしていいから!」


「もう大嫌い大嫌い大嫌い」


「大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い」



 その先はもう覚えていない。

 最初はひどく傷心したけど、時間というのはすごいもので。

 少しずつそのショックも薄らいでいく。

 少しずつ前を向いて歩いて行ける気がする。

 だから今こうして書き連ねられるのだ。


 でもね。

 スマホを触るたびに思うの。


 た、と入れたら「大好き」と予測変換が出てくる甘いあの頃。


 そんな日々を忘れたくて。


 大嫌い大嫌いと彼に送って。たくさん使って。


 た、と入れたら「大嫌い」と最初に出てくるようにしたのに。


 どうしてもその隣に出てくる言葉は「大好き」のままで。


 それを見て、私はどうしようもない感情を抱いて、今日も一人で大学に向かう。



 あの時、嘘でも良いから好きって言ってくれたら。

 私はまだ「大好き」でいられたんだ。


 大嫌い。

 でも。

 それはね。

 大好きの裏返しなんだよ?


――大嫌い、大好き。









 







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大嫌い大好き 堅乃雪乃 @ken-yuki

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