ビフォー・モーニング・タイド

辰巳

第1話

【1】


 助けてください、という声に反射的に振り返った。消え入りそうな、若い女性の声だった。声の主を探ろうとしたが僕の周りは、誰かがすすり泣く声、放置された車から鳴り続けるクラクション、トラックが地面を軋ませる音に溢れ、すぐには声の主を見つけることが出来なかった。

 助けてください、また声が耳に届いた。見失わないよう、今度は少しつま先立ちになって、より遠くの方まで見渡す。人の流れがほんの一瞬左右に分かれ、一人の女性が立っている姿が見えた。


 ほとんど無意識に一歩足を踏み出し、声をかけようとしたが、その女性の不可解な姿に、かけようとしていたはずの言葉を見失ってしまった。その女性は掲示板の前に立って、閉じたビニール傘を胸の前に持ち、天に掲げていたのだ。その姿に言葉をかけることをためらったが、ハッと彼女の行為の意味に気付き、慌てて駆け寄った。


 3月11日に巨大な地震が東日本を襲い、その直後、三陸地域に津波が押し寄せ、その光景がテレビを通して世界中に発信された。


 地震発生当時、東京にいた僕も、大きな横揺れの地震に立っていられず、そのすぐあと「宮城、震度7」という誰かの叫ぶような声がフロアに届いた。新聞社に勤める僕は、ありったけの支援物資をかき集め、現地の取材をデスクに申し出た。仙台空港がどんな状態になっているか分からなかったので、12時間かけて陸路で仙台を目指す。

 

 絶対に自分が現地に入らなければと決めたきっかけは、ハッシュタグを辿る中で偶然見つけた短い動画だった。SNSに投稿され、その後回線がパンクし、ほとんど拡散されることなく、あっという間に削除された動画だったが、そこに映っていた一人の青年に見覚えがあったのだ。場所はおそらく気仙沼市内、避難所になっていた公民館の屋上から撮影されたもので、映像の中でその青年はビルとビルに挟まれた小さな遊歩道にいた。


 青年とは2年前、東北地方のテレビ局と共同で行った取材の中で出会った。身体と精神に障害がある30代の青年が、一般企業での就労を目指すという筋立ての短いドキュメンタリーだ。試用期間が終わり、勤務先の社長は言葉を選びながらも、ここで雇うことは出来ないと告げた。社長の言葉に彼は頷き、「はい」と、か細い声で答えた。 「そうですよね」「自分でもそう思います」「すみません」、笑顔のまま彼は繰り返した。諦めたように笑いながら、唇は震えていた。


 50代の社長は、うつむいて黙り込む彼に、励ましの言葉をいくつかかけていた。人生を天気に例える、そんな話だった。彼の人生を天気に例えていた、ような気がする。雨の日もあれば晴れの日もあって、そんな内容だったはずだ。何か重いものでも背負っているような彼の曲がった背中を見て、取材中なのに、思わず目を伏せてしまった。外は雨だった。建物の中なのに、彼の背中が強い雨に耐えているように見えたのを覚えている。


 そして今、思いがけず青年を動画の中で見つけた。投稿された荒い映像の中で、わずか数秒だけズームになった時、僕が取材したあの青年だと気付いた。ギザギザの映像では、誰かまではきっと分からなかったはずだ、車椅子の背中にかけられた赤いポーチで青年だと気付き、取材の時の記憶と結びついた。青年の母親が、お守り代わりに持たせていたものだった。


 動画の中で青年は車椅子に乗って、諦めたように天を仰いでいた。動画投稿者の「ああ・・・」というかすれた声が漏れ聞こえたその瞬間、街に津波が流れ込んだ。津波は車両や住居の木材、コンクリートや電線、座礁した漁船から重油まで流れ出し、ありとあらゆるものを巻き込んで、黒い塊となり、青年を車椅子ごと押し流したのだ。


 仙台に向かう車の中で、何度もその光景が蘇った。おそらく、車椅子を押す介助者いたはずだ。車椅子を置いて逃げたのか、いや青年の性格からして、自分を置いて逃げて下さいと、介助者に言ったのか。分からない。だが、諦めたように、天を仰いだ青年の姿がどうしても頭から離れない。取材先の社長の言うとおり、彼の人生はきっと、わずかな晴れ間と土砂降りの雨の繰り返しだっただろう。雨の日の方が、ずっと多かったはずだ。背中を削るような激しい雨の中を、黙々と進む。そんな人生の終わりは、青々とした空ではなかった。いつか晴れる、そんな言葉がただ虚しく胸の中で繰り返された。


 避難所や津波で被災した沿岸部を周り、この日の最後の取材に地域の小学校を訪れていた。津波で被災した人らが、身を寄せ合うこの避難所では、すでに400人近い人々が集まっていた。


 彼女が閉じた傘を掲げていたが、彼女の前に足を止める人はいなかった。雪がちらつく中、黒く長い髪の上には、雪の粒が溶けずに止まっていた。手袋もしていない手は、霜焼けで痛々しく見えたが、冷たい柄を強く握りしめている。泥と乾いた血にまみれていたが、それでも強く傘の柄を握りしめ、祈るように傘を掲げていた。


「あの・・・」

 驚かせてしまわないよう、十分な距離をとって彼女の正面に立ち、大丈夫ですかと小さく続けた。彼女は僕の声に、一瞬ビクッと身構えるように身をすくめたが、すぐに自分への声かけだと気付いた様子で、ほっと安堵した顔を浮かべた。彼女の目の動きで、やはりそうだったと確信した。

「すみません、あの、わたし実は・・・」

 申し訳なさそうに、一から説明しようとする彼女に、「大丈夫ですから」と声をかけたが、彼女は息を切らせながら震える唇で話し続けた。

「わたし、目が見えなくて、それでずっとここに・・・」


 葛西千佳と名乗ったその人は、全盲の女性だった。

「お願いがあるんです」

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ビフォー・モーニング・タイド 辰巳 @tatsumi003

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