第27話 番外:記念日




 ──夏隣なつどなりの季節、とある日のこと。


 午前七時。まだ寝息を立てていた輔は、小さな手に揺り起こされた。


 薄目を開けて、どこか緊張した面持おももちの少女──深雪を眺める。

 もう流石に見慣れた寝間着姿。同じ部屋で寝ているのだから当然と言えるが。


 輔は隣にぺたんと座っている深雪の腰へと手を伸ばし、布団の上をずりずりと這っていって、その膝上に頭を乗せた。


「えっ……あ、えっと……! その……輔さん?」

 輔の行動に驚いたのか、深雪は素っ頓狂な声を発して頬を赤く染める。


 いい加減に慣れないかとも思うのだが──こうした反応が返ってくるのもそれはそれでいい。なんてことを思いながら、輔は深雪の膝に顔をうずめた。


 嫌がっているわけではないのか、深雪は輔の頭に手を乗せてくる。

 猫を撫でる時のような優しい手つきで、それがどこか心地よく眠気を誘う。


「……。あと一時間、このまま寝させて」

「こ、このまま……ですか? でも、昨日は十時過ぎには寝たんじゃ」


「…………」

「その……そしたら。朝ごはんだけ作りたいので、その後でいいですか?」


 その言葉に、輔は仕方なく拘束を解いて、布団の上に寝返りを打った。


「そういや、腹減ったな」

「はい。記念日なので、腕にりをかけて作りますね」


「……記念日?」

 深雪の発言がひっかかり、輔は目を開け、そう繰り返す。


「はい。記念日です」

「結婚記念日には四か月ほど早い気がするけど?」


「けっ……、今日はそっちじゃ、なくて……。覚えていませんか?」


 急に問われ、輔は寝起きで回らない頭を捻る羽目になる。この季節。記念日にあたることなんてあっただろうか──と考え、しばらくして答えに辿り着く。


「ああ……初めて会った日とか、そういうやつ?」


 輔が答えると、深雪はぱぁっと表情を明るくし、「はい」と頷いた。

「覚えてくれてたんですね」


「いや。覚えてたというか、それっぽいのがそれ以外に思い当たらなかっただけ。……深雪の方こそ、よくそんなん覚えてたなって思うけど」


「忘れませんよ」そう言って深雪は立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべた。

「──あの日から、私の全部が変わったんですから」




 深雪の作ってくれた朝食を食べながら、輔は口を開いた。


「で。記念日って言っても、何かすんの?」


 藍色のルームワンピースに着替えた深雪は、口の中のご飯を咀嚼そしゃくして飲み込むと、お箸を置いて「そう……ですね」と呟いた。

 どうやら特に何かをする予定を立てていたわけではないらしい。


 別に予定立てるためのお金が足りなかった──ということでもないだろう。

 輔は婚姻関係を結んでから、深雪に食費や雑費用、ついでに欲しいものが買えるよう小遣い程度にはお金を入れた通帳を渡している。


 しかし、深雪はほとんど自分のためのものを買おうとしない。また、欲しいものがある時も、いちいち許可を取ってこようとするのだ。

 少ない服を着回している深雪の全身を眺め、輔は提案をする。


「……特に予定がないなら、一緒に買い物でも行く?」

「お買いものですか?」


「記念日っぽくはないけど。ショッピングモールまで。嫌なら別にいいけど」


「いえ……! そしたら、ご飯食べたら準備してきますね」

「そんなに急がなくてもいいから」


 時計の針が指す時間は八時過ぎだ。

 バスの時間もあるしそこまで焦る必要もない。


「そうだな。大体十時くらいに家出ればいいだろ」

 輔が欠伸混じりに言うと、深雪は頬を緩めて、こくんと頷いた。




 急がなくていいと言ったはずだが、深雪はご飯を食べ終え、さっと洗い物を済ませると、すぐにばたばたと準備を始めた。


 洗面所で何をしていたのかは知らないが、一時間近くかけて準備をして。

 やっと出てきた深雪は、ホワイトのツイードカーディガンに、裾の広がったニュアンスカラーのロングスカートと、大人っぽいコーデに身を包んでいた。


 輔と出かける際は、深雪はどちらかと言えば大人めなコーデを選ぶ。

 なぜなのか聞いたことがあるのだが、その時は恥ずかしそうにしながら「その方が、輔さんと並んでも変じゃないかなって思って……」と言っていた。

 わざわざ教えはしなかったが、その方が輔の好みにも合っていていい。


 元々、十分程度で準備を済ませるつもりだった輔も、その姿に感化されて寝癖くらいは水に濡らして整え、服もアイロンがかかったものを選んだ。


 普段より少しとはいえ、ちゃんとした格好の輔を見て、深雪は「……やっぱり、輔さんって俳優さんみたいにかっこいいですよね」とお世辞を言ってきた。

 輔は無言で肯定も否定もせずに、「行くぞ」とその手を引っ張った。




     ◇




 バスに揺られて、ショッピングモールへとやってきて。


 輔は深雪と手を繋いだまま、まずはアパレルショップへと向かった。

 深雪はちょっぴり恥ずかしそうに、それ以上に嬉しそうに後を着いてきた。


 そして、アパレルショップに滞在すること三十分。


 輔は店に入ってすぐ、何でもいいから欲しいの一着持ってきて、と深雪に告げ、自分は男物の服を見に行った。──そのことを若干、後悔していた。


 別に、予算以上のものを深雪が選んできたわけではない。

 後姿をただ眺めているのにも飽きた輔は、深雪に近付いていって背中を指先でなぞる。「ひゃ……っ」と肩を跳ねさせ、深雪が振り返る。


「た、輔さんだったんですね。びっくりしました……」

「ずっと服とにらめっこして、何してんの」


 深雪が両の手にしているのは、くすみブルーのフレアスカートと、もう一着はペールミントの薄いロングスカートだった。どちらも、そこまで高そうでもない。


「……その、輔さんに買ってもらうものなので、ちゃんと選びたいなと」

「買うなんて言ってないけど」


 つい意地悪をしたくなってそう返すと、深雪は「えっ」と息を呑んだ。


「冗談。そんなに悩むくらいなら、両方買えば?」


 そもそも深雪を専業主婦として、仕事をさせていないのは輔の選択だ。

 だから資産は共同で扱うものとして見ているし、そこそもそこまで高いブランドものというわけでもないため、遠慮しなくともいいのだが。


「い、いえ。そういうわけには……。あの……輔さんは、こっちとこっちなら、どっちが私に似合うと思いますか?」


 両手のスカートを掲げ、深雪がやや不安そうに首を傾げる。

 話を振られた輔は、両方のスカートを脳内で深雪に着せ比べ、目を細めた。


「深雪自体が可愛いんだし、どっちも似合うんじゃないの」


「かわ……っ」

 一瞬にして頬を真っ赤にした深雪が、手で顔を覆おうとして──両手が塞がっていることに気付き、更に恥ずかしそうに肩をすぼめた。


「……輔さんって、ときどき無自覚にそういうこと言いますよね?」

「そういうことってなに?」


「……いいです。別に」

 そう言って、深雪は珍しくふいっと輔から顔を背けた。



 それからあと。結局、また悩み始めようとした深雪の手から輔はスカート二着を奪い取り、両方をレジへと持って行った。




     ◆




 次に輔が向かったのは一階にあるペット専門店だった。

 普段入る入口と逆側にあったためか、深雪はペットの店があることを知らなかったらしく、驚きながらも嬉しそうにしていた。


 小さな犬や猫が展示されているショーケースに歩み寄り、深雪は目を輝かせる。

「かわいい……」


 ケースの前で緩む口元を両手で隠し、深雪は眠る子猫を眺めている。

 微笑ましい光景を遠巻きに見て、連れてきて良かったかと思う。


「……あ、起きた……! 輔さん、猫ちゃんがこっち来て……!」


 愛らしい鳴き声を上げながら深雪の元へと向かう、ふわふわの灰色の毛玉。……あの品種は確かアメリカンショートヘア、だったか。

 小さな体に丸っこい輪郭。大きな目と耳、ちっちゃい口。

 確かに子猫はかわいい。深雪がはしゃぐ気持ちも、まぁ分かった。


 深雪は人差し指をケースに這わせて、それを追いかける子猫と戯れている。


 ──と。ふいに、その一段上にいる黒猫と輔の目が合った。

 黒猫は丸くなっていた体を優雅に起こすと、ケースの前まで歩いてくる。

 それから輔を呼ぶかのように、ミャアとひと鳴きした。


「…………」


 輔は引き寄せられるように、ケースの側へと行き──そこで。

 下にいたアメリカンショートヘアは深雪の元を離れ、その両隣にいた猫までもが一斉に飛び起きて、輔の方へと駆け寄ってきた。


「…………」

 ふと、視線を感じて下を見れば、深雪がじとっとした目で輔を見ていた。


 ……そんな目で見られても、輔としては特に何をしたわけでもないのだが。

 輔は黒猫に、挨拶代わりに指先をくるりと回して遊ばせると、すぐにショーケースの前を離れた。と、なぜか深雪も輔の後を着いてきた。


「……もういいの?」

「はい。あんまり遊んでると、飼いたくなっちゃいますし……」


「そう」


 エスカレーターに向かって歩き出しながら、輔は口を開く。

「いつか飼ってもいいかもな。……そのためには引っ越さなきゃだけど」


「そういえばあのアパート。ペット禁止でしたね」


 深雪は思い出したように言い、後を着いて来て。そっと輔の手を握った。

 輔は顔を振り返らせることなく、ぎゅっとその手を握り返した。




     ◇




 その後も、色々と普段行かないところを中心にモール内を巡った。

 ゲームコーナーでUFOキャッチャーをしたり。色とりどりの風船で飾られたフォトスポットで、二人で写真を撮ったり。

 人をダメにするクッション専門の売り場で、ご自由にお試しくださいと書かれたクッションに沈み込む輔を、深雪が引っ張り起こしたり。



 そんなことをしていればすぐに一時がきて、二人はフードコートに来ていた。

 二人してチェーン店のうどんをすすり、会話を交わす。


「出会って最初の頃にも、ここに来てお買いものしましたよね」

「そういやそうだっけ」


「はい。お布団を買ってもらいましたし、ここでうどんも食べました」

「…………ふーん」


 思い出すように机下の手のひらに視線を落とし、かと思えば時折、輔の方を見てにこにこと嬉しそうにしている深雪。

 輔はそれを見て、つい聞かなくても良さげなことを聞いてしまう。


「楽しい?」

「はい。とっても楽しいです」


 即答だった。やはり、聞くだけ野暮だったということだろう。

 しかし、深雪はすぐに「でも……」と続けた。


「でも、なに?」


 深雪は両手の指先同士を合わせながら、上目がちにこちらを見てきた。


「今日も。記念日なのに、私だけが色々してもらってる気がして……。私にできることとか、して欲しいこととか、輔さんはないですか?」


「…………して欲しいこと、か」


 紙コップの水を喉に流し込んで、輔はフードコートの高い天井を仰ぐ。

 輔としては、今も深雪からもらっている側だと思っているのだが──深雪は、そうは思っていないのだろう。……となると他に、何があるかだが。

 しばらく考え込み、はたと思いつく。


「……じゃあ、そろそろ名前で呼んでくんない?」


 輔が言うと、深雪は不思議そうに首をこてんと傾げた。


「名前、ですか? でも、今も輔さんって──」

「呼び捨て。さん付けだと夫婦っぽくないし」


「あ……」


 輔がした追加の要望に、深雪は表情を固まらせる。

 それは嫌がっているというよりは、緊張しているような面持ちだった。


 深雪は苗字が輔と同じ、紀川になったあとも、輔のことをさん付けで呼び続けていた。以前、言及した際には、「緊張するから、しばらくそのままでお願いします……」と言われたのだが、今回は深雪の方からして欲しいことがないか聞いてきたのだ。今、この状況でなら言い逃れはできないだろう。


「……こ、ここでですか?」


 そう言って、きょろきょろと周囲を見渡す深雪。

 平日ではあるがお昼時なため、フードコートにはそれなりの人数がいる。


 別にここでじゃなくていいのだが、深雪の聞き方が輔の嗜虐心しぎゃくしんくすぐった。

「そう。今、ここで」


 輔が引き下がらなかったことで、深雪は覚悟を決めたのだろう。

 すっと息を吸って、輔の目をまっすぐ見据えて。


「たっ……」

「た?」


「…………た」

「言わなきゃ終わらないけど」


 深雪は輔のことをやや非難するような眼差しで見つめ──そして。


「輔──…………。…………さん。ひゃう……」


 無言で輔は深雪の両ほっぺたをつまみ、横に引っ張る。もちもちだった。

 ……いや、感触のことは今はどうでもいいのだが。


「なにそれ、わざと?」

「ごめんなさ……だって、急にってなると、その。恥ずかしくて……っ」


 深雪は目をきゅっと瞑って恥じらいに頬を赤らめ、やや震える声で言った。

 ──照れた時の深雪は、思わず手を出したくなるほどに可愛い。

 むしろこの表情が見られるなら、しばらくこのままでいいかもしれなかった。


「……まあいいや、今ので」

「えっ」


 輔は器を傾けてうどんの汁を半分ほど飲むと、椅子から立ち上がった。


「あと行ってないとこは──食品コーナーだけだったか」


「……そ、そうですね。食べ物は買っておいた方が、明日も楽ですし」


 深雪も輔にならって立ち上がり、足元に置いてあった荷物類を手に持つ。


「荷物、半分持つけど」

「……あ。ありがとうございます」


 輔が手を差し伸べると、深雪はUFOキャッチャーで輔が取ったぬいぐるみの入った袋を、おずおずと手渡してきた。


 それから、二人は食品コーナーに寄って。エコバッグに入るぎりぎりくらいの量の食品を買い込んで、またバスに乗って家まで帰った。




     ◆




 食品を冷蔵庫に入れて、買った服はクローゼットに入れて。

 部屋に戻ってきても、深雪はずっと表情筋を緩ませたままだった。


 輔は再度、深雪に問い掛ける。


「……買い物、そんなに楽しかったの?」


「はい、とっても。……もしかして、輔さんは楽しくなかったですか?」


 ……なんてことを逆に聞かれて。

 やっぱり表情筋のトレーニングでもした方がいいだろうか、と輔は思う。

 こんなでも、輔としては楽しそうにしていたつもりなのだが。


 やっぱり、言わなければ伝わらないものらしい。


「別に。……深雪と一緒に居られれば、なんでもいいや」

「……っ⁉」


 輔は徐に座布団を部屋の隅から持ってくると、深雪の前に敷く。


「そこ座って」

「……? はい」


 深雪は突然の行動に疑問を持ったようだったが、座布団の上に正座した。


「……その。なにか?」

「朝の続き」


 それだけ告げ、輔は畳の上に横になると、深雪の膝の上に頭を乗せた。

 太ももの柔らかい感触を右頬で感じながら、その心地よさに長めに息を吐く。


「……っ⁉」

「寝る。足疲れたら、起こしてくれていいから」


 輔は一方的に言って、目を瞑った。





     ◇ ──深雪視点




 ──どれくらい、経っただろうか。時計を見ていなかった。


 少しかたい黒髪を指で梳き、頭を優しく撫でて。

 深雪は、はぁと吐息を漏らす。


 輔さんは本当に寝てしまったみたいで、すやすやと寝息を立てている。

 普段はずっと大人で、かっこいい人だと思っているけれど、こうして寝顔を見ればどこかあどけなくて、子供のようにも見えてくるから不思議だ。


 ……ただ、あまりに無防備な寝顔を晒されていると。

 なんだか、変な気持ちにもなってきてしまう。


 一度、そのことを意識してしまったら、おしまいだった。


 ……大丈夫だろうか、ばれないだろうか。でも、すっかり寝ちゃっているし。ちょっとくらいなら。……だけど、もし起きちゃったら。

 なんて葛藤がぐるぐると頭の中を駆け巡る。


 そんなことを考えている間にも、身体は勝手に動いて。

 気付けば、輔さんの顔が間近にあった。


 睫毛が長い。二重が綺麗で、肌も意外ときめ細かくて羨ましいくらいだ。

 ──あとちょっと、頑張って身体を曲げれば、その頬に届く。


「…………っ」


 深雪はそこで、弾かれるように曲げていた背筋を正し、口許を右手で覆った。


 ……今、何をしようとしていたのだろう。

 こんな寝込みを襲うみたいな、はしたない真似──。


 と、そこで。


「……なに。キスしてくれるんじゃないの?」


 ──なんてことを輔が言ったものだから、深雪は一瞬にして耳まで茹で上がった。

 思いっきり取り乱して首を横に振り、髪を振り乱す。


「た、輔さ……っ、起きて……っ⁉」

「いや、あんな顔近付けられたら流石に起きる」


「……っ、ごめんな、さ……っ」

「許すけど」


「あ、……ありがとう、ございま──」


「もう一回、深雪から同じことしてくれたら」


 ……追加で、なんてことを言われて。

 キャパシティを超えた深雪は、音もなく畳に倒れ込んだ。

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親に捨てられて帰る家もない少女を拾った話 往雪 @Yuyk

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