第26話 好きです




 古いアパート特有の無機質なインターホンの音が、続けて三度鳴り響いた。

 寝癖で髪があらぬ方向へと跳ねている自覚はあったが、それを整えようともせず、輔は渋々、布団から起き上がると重い腰を上げ玄関へと足を運んだ。


 鍵の閉まっていない玄関ドアを開けたとき、既に事件は起きていた。


 玄関先に、見知ったの少女が立っていたのだ。

 白いハーフスリーブのデニムワンピース。品のあるヒール付きのミュール。ふいに吹いた風に、長い艶やかな黒髪の先が揺れる。


 少女は輔を見ると嬉しそうに目を輝かせて、かと思えば丁寧にお辞儀をした。呆気に取られていた輔はそれで我に返り、ドアノブを握る手に力を込める。


 シャアシャアと蝉が鳴いている。湿気の多い初夏の空気が肌に張り付く。


「なにしに戻ってきた」

 半開きのドアの隙間から、鬱陶しそうに輔は投げかける。


「──お久しぶりです、輔さん」


 少女──深雪はそれすら懐かしむように、優しくはにかんだ。




     ◇



 玄関先にずっと立たせておくわけにもいかず、輔は深雪を家に上げた。

 服装や細かい仕草による思い做しか、身長や顔つきこそほとんど変わらないその姿は、一年前よりもどこか大人びて見えた。


 対面に座り、輔は膝を立ててそこに頬杖をつく。

 深雪は相変わらずの正座で、膝上に両手を揃えてこちらの出方を窺っていた。


「──あの時。なんで、警察に本当のことを言わなかった?」


「本当のこと、ですか?」


 首を傾げる深雪を懐疑的な目で見つめ、輔は溜め息を吐く。


「お前が一言でも、お前が俺に手を出されたと言えば、その時点で俺は略取罪で逮捕されていたはずだ。ってことは、お前が喋らなかったってことになる」


 ──あれから、任意での取り調べや在宅捜査があったが、輔は何事もなかったかのように釈放され家に帰された。

 その時点ではまだ嫌疑不十分だったのかとも思った。


 しかし、一日経って警察がまた家に訪ねてきたときも、輔は逮捕されることなく、事件化も、自首の受理すらされずに、「次があればすぐに通報するように」と厳重注意のみで終わった。

 輔の部屋に深雪の荷物があったことや、一緒に買い物などへ行っていたことなどから、証拠は揃っているはずだった。にも拘らず、罪に問われることはなかった。


 そこで、未成年者略取誘拐罪について、輔ももう少し詳しく調べてみたのだが、どうやら被害者本人か保護者の意思で告訴されるかが決まり、そうなって初めて犯罪が成立するらしい。


 親告罪以前に、そもそも現行犯なのではないかと考えたりもしたが、逮捕要件と訴訟要件はまた別の話らしかった。

 ……つまり、犯罪は起きているが告訴権者が告訴しなかったことで起訴ができず、そのまま釈放されるという流れになったらしい。


「はい。同意の上で家に入りましたし、特に何もされてませんって言いました」


 まるで何事もなかったかのように深雪が告げる。

 そんなわけがない。事実として、輔は深雪を無理やり自分の家に住まわせていたし、一度きりとはいえ手も出した。


 それを隠すメリットも、深雪にはなかったはずだ。


「なんで」

「ここに戻ってきたかったからです」


「答えになってない」

 吐き捨てた言葉も、優しい笑みで看過されてしまう。


「そもそも、帰ってこいなんて言ってないし」

「はい。言われてません。……だから、勝手に訪ねてきたんです」


 まともに顔向けができず、輔は頬杖をずらして手のひら全体で顔を覆う。

 どこまでも輔のことを信頼するような眼が、鋭利な刃物のように胸に突き刺さる。


「…………」

 ……なぜまだ、そんな眼ができるのか。

 かつて輔は一方的に、その信頼を破ったというのに。


「っ──……俺は、お前を捨てた。親と、同じことをした」


「そうですね。……そうかもしれません」

 深雪は軽く俯きながら眦を下げると、顏の前に垂れてきた髪を耳にかき上げた。


「それでも。私は輔さんと過ごした日々が、一番幸せでした」


「…………」


 聞いていられなかった。

 座に堪えなくなった輔が無言で立ち上がり、居間を後にしようと襖に手をかけると、その背中を、駆け寄ってきた深雪の声が追いかけてきた。


「──輔さん。初めて会った頃のこと、覚えてますか?」


「……。いや」


「あの時、言ってたじゃないですか。一人でいるのが辛いなら、一緒にいてくれるって。他に住むところがないなら住まわせてくれるって。……だから、その通りにしてくださいって、お願いしにきたんです」


「……覚えてない」

「今更、こんなことを言って、何言ってるんだって思うかもしれません」


 何もかもが輔にとって都合のいい言葉にしか聞こえなかった。


「……あの時。輔さんが、私がどうしたいかで決めろって言ったから。だから、決めたんです。だから帰ってきたんです」


 ──それも出会った頃、輔が言ったことだった。

 あの時の深雪は何も答えを出せずに、ただ謝るだけだった。

 泣き声まで、はっきりと耳朶に残っている。


「それとも……もう、輔さんの気持ちが変わっちゃいましたか?」


 憂虞するように深雪が告げた。それがきっかけだった。輔はおもむろに振り返ると、感情に任せて、深雪の華奢な肩を抱きしめた。


「……⁉ た、え、っ……え」


 背の高い輔に強引に引き寄せるように抱きしめられ、深雪は爪先で立つ。状況を飲みこめていないようで、抵抗は全くなかった。


「お前さ。……なに考えてんの?」


 輔は唇を嚙み、無意識に腕に入る力を抜く。


「か、考え……ですか?」

 深雪は動揺しつつも、嫌がることはせずに訊いてきた。


「お願いって、なに。……気持ちが変わったかって、なに? 変なことばっか覚えてるくせに。……最後に言われたことは、もう忘れたの?」


 きつく抱きしめている体勢から、深雪がどんな表情をしているのかは分からない。


「……それは。この感情が、偽物ってことですか?」

 腕の中で深雪がぽつりと呟く。


「……。それが分かってんなら──」


「考えたうえで、……それでもいいと思ったんです。私が輔さんにしてもらったことは変わりませんし、気持ちだって変えようがありません」


 ゆっくりと、輔の背に手が回される。


「輔さんが、いいなら。……また、一緒にいてくれませんか?」

 声を和らげて深雪が訊いてくる。


「っ……んとに、何考えてんの」

「…………」


「無理やり突き放そうとしても帰ってきて」

「はい。……帰ってきちゃいました」


「お前だってこの先、あいつと同じように俺の前からいなくなるかもしれない」

「輔さんが嫌って言わないなら、私はどこにもいきません」


「保証がないって言ってんだよ」

「約束します」


「……約束なんて、破れば終わりだ」

「──輔さんは、私がいたら嫌ですか?」


 されたくない聞き方だった。

 嫌かどうかなんて、答えは分かり切っている。


「──……嫌かどうかじゃ、ないだろ」


「私は、施設でも、一人の家でもなくて。輔さんがいる家に帰りたいです」


「……お前は助けられたと思い込んでることに、勝手に恩義を感じてるだけだ」


「思い込んでるんじゃなくて……本当に助けて貰ったんです」

「最初から施設なりに入れられてた方が、間違いなく上手くいってた」


「もしかしたら、そうかもしれません。……でも、私が一番大変な時に手を差し伸べてくれたのは、輔さんだったんですよ」


「……。そもそも俺がいなきゃ、こんな面倒事にはなってなかっただろ」


 顧みて他を言う輔に、深雪は優しく訂正してくる。

「面倒事なんて、なにも起きてないです」


 それから輔の襟元を引っ張って、少し身を屈めさせて。その頭に片腕を伸ばして、子供でもあやすときのように優しく撫でてきた。


「────」

 輔は驚いて一瞬目を見開き、苦しさにすぐにまた細める。


「──俺は、お前を傷付けるだけだった」


 語るに落ちた輔の心の丈に、深雪が輔を抱きしめる腕の力を強める。


「…………。あの時は。捨てられたと思った時は、本当に、つらかったです。私はお母さんにとっても、輔さんにとってもいらない子だったんだって、そう思って。……でも、あれから色々考える時間があって。それで、もしかしたら──輔さんは、私のためにそうしたんじゃないかって。思ったんです」


「……ただの買い被りだ」


 柄にもなく目頭が熱を持っていくのを感じる。

 誰のためだろうが、あの時、深雪を傷付けたことに変わりはない。


「──彼女さんのことは、私じゃ代わりになれません。でも、私は──輔さんがいる場所に、私が帰りたいと思ったんです。だから今しているのは、私の一方的なわがままです。……その。それじゃ、いけませんか……?」


 腕の中で顔を上げながら、深雪は心配そうに訊いてくる。


「…………」


 息苦しさが限界点を超えて、何も言い返せなくなる。

 ……いや。本当は──もっと前の時点で、輔の負けだったのだろう。


 輔は深雪の眼を見つめる。


 そこにかつての面影は見えない。

 怖めず臆せず、輔のことだけを真っ直ぐに見つめる──芯を感じさせる眼だった。


 長い沈黙を挟んで。輔はその名前を呼ぶ。


「……深雪」

「はい」


 否定材料なら幾らでも思いついた。未だにあの時の選択を、正しいことをしたとは思っていないし、深雪の人生を狂わせたのは確かだとはっきり言える。


 だが、何もかも。今となってはどうでもよかった。

 理も非もない。


 一年も経っていて、忘れられなかったのは輔も同じなのだから。


「──。……いいや、何でも」


「……?」


「そういや。……さっきのあれって、プロポーズってこと?」


「ぷ、ぷろ……っ、そんな、大層なものじゃ……ないかも、しれないですけど……」

 深雪は顔に紅葉を散らして、口をもごもごとさせる。


「違うの」

「……いえ。違い、ません。……ダメですか?」


「なわけない」


 輔は深雪の肩を掴んで突き放し、一度その顔をじっと見て。

 ──それから、顔を横に向け、不意を突くようにその唇に自分の唇を合わせた。


 深雪は輔が接近する一瞬、目を白黒させていたものの、しばらくすると穏やかな呼吸に戻って、その行為を全身で受け入れた。

 長いことそうした時間が続いて。

 輔が口を離した時、深雪は初めて見るくらいに顔を真っ赤に染め上げていた。


 息継ぎをして、深雪が安堵するように眦を下げる。

「……輔さん」

「なに」


「あの時、言えなかったんですけど……私、輔さんのこと────っ⁉」


 何を言われるのか分かった上で、輔はその口を再度塞いだ。

 今度こそ驚いたのかただの反射か、輔の背中に回されていた手がシャツを掴む。

 だが、今度も拒否されることはなかった。


 甘く時間が解けていく。

 感触を、息遣いを。互いに渡し合って。


 輔はその永遠とも思える瞬間を、至極幸福なものだと受け取った。




     ◇




 ドアが開けられ、玄関に入った少女はふぅと息を吐いた。

 暗い玄関の電気が点けられ、ぱっと明るくなる。

 その手には中身の詰まったエコバッグが、やや重そうに持たれている。


「……思ったより遅くなっちゃいましたね」


 少女に続いて入ってきた壮年の男は、両手に持った大サイズのビニール袋を一旦廊下に置くと、上着を脱いで靴箱の上に放った。

「遠出したのも久々だったし、買い物もしたからな」


 靴を脱いだ少女は猿臂えんぴを伸ばしてその上着を手に取り、腕にかける。

 あとで洗濯してくれるつもりなのだろう。


「映画、とっても良かったですよね。……家で見るのも良かったですけど、やっぱり大きいスクリーンで見ると、違うというか」

 少女はこちらを見上げてきながら、少し含みのある笑みを浮かべる。


 男は数秒考え込んだ後、やや怪訝な表情で口を開く。


「その割に浮かなそうに見えるけど」

「そ、そうですか……?」 


 図星を突かれたように少女が視線を彷徨わせる。

 口では誤魔化そうとしているが、嘘が下手なのはずっと変わりない。


「なに。なんかあった?」

 男が聞くと、少女は視線を落として、それからしょうがなさそうに笑った。


「その……最近。ちょっとだけ、不安になるんです。……今が幸せすぎて、いつか急に、この日々が終わっちゃうんじゃないかって。そう、思って」


「心配?」

「おかしいですよね。……幸せなのが、不安なんです」


「そう」


 短く返すと、男は少女の髪の先を手に取り、そこから伝うようにして頭を撫でた。

「別に、おかしくはないけど」


「…………。けど……?」


 くすぐったそうに、照れ混じりに少女が訊いてくる。

 男は少女の長い前髪をかき上げると、そこに顔を近付けた。おでこに触れるようにキスをして、顔を引きながら舌で自分の唇を舐める。


「……っ⁉ え、えっと……?」

 少女は顔を真っ赤にして、相変わらず初心な反応を返してくる。


 その表情を見ていれば、もう一度してやろうかという気分にさえなるが、それを繰り返していたらおそらく終わらないだろう。

 顔を背けながら、男はもう一度だけ少女の頭にぽんと触れた。


「不安になったら、そん時はまた言って」

「──……⁉ は……い」


 


「腹減ったな」


 男がそう言ったことで、少女は我に返ったようだった。

 エコバッグを手に取って、一緒に持とうとしたビニール袋を男が横から取る。


「そ。……それじゃ、晩ご飯の用意してきますね」

「ありがと」


 他愛ない会話をしながら、短い廊下を歩く。

 キッチンに着くとその場に一旦袋を置いて、座卓の準備に居間に向かう。


「今日は唐揚げを作ろうと思います」


「知ってる。さっき肉とか一緒に買ったし。手伝うことある?」

「……じゃあ、お願いしてもいいですか?」


 嬉しそうにはにかみながら、少女は居間へと繋がる襖を開けた。

 

 男は僅かに口元を緩める。

 幸せとは、きっとこういうことを言うのだろう。


 彼女がくれたもので、全てが変わった。


 去年の今頃の自分を思い返し、変わったことを再確認する。何も変わらない古アパートの内装に、むしろ安堵するような感覚を覚える。

 季節は冬に近づきつつあって、家の中だと言うのにやや肌寒い。


 彼女と暮らす冬は初めてのことだ。

 この冬で少しでも何か返せるだろうかと、そんなことを思う。


「輔さん?」

 居間に入る手前で考え事に耽っていた男に、少女が声をかけてくる。


「深雪」


「はい……?」

 首を傾げる少女を見て、──いや、と考え直す。


 ……今すぐじゃなくてもいい。彼女は来年も次の年もきっと、そばにいてくれる。少しずつでも返していこうと、ひっそりと心に決める。


「……なんでもない」






 ──午後七時を回って。暗くなってきた居間に、温かな明かりが灯る。




     - End -

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