第25話 関係の終わり




 ──時間は飛ぶように流れていって。

 輔の気構えが整ったのは、一週間後のことだった。


 輔が海に行くと伝えると、深雪はさっと支度を済ませてきた。

 といっても、特に荷物などはなかったのだろう。前と同じ、白黒を基調としたレイヤードワンピースを着て、輔よりも先に玄関で待っていた。


 靴を履いて外に出ると、輔は眩しさに思わず眉をひそめた。


「晴れて良かったですね」

 と、手でひさしを作って空を仰ぎながら深雪が言った。


 雲一つない夕晴れの空の下を歩いて、バス停に向かった。


 快晴でありながら、昼頃まで降り続けていた雨で空気はじめっとしていた。アスファルトにできた水たまりがきらきらと陽光を反射している。

 世間では夏休みももうじき終わろうという時期であるにもかかわらず、日差しに乗る茹だるような残暑はじりじりと容赦なく肌を焼いた。


 誰もいない停留所に着き、時刻表を見ていると、すぐにバスはやってきた。他の乗車客も誰もおらず、一番後ろの長シートの両端に二人で座った。

 見慣れた街並みを通り過ぎ、住む町よりも更に田舎へバスは向かった。


 ずっと、このままの時間が続けばいいと切に思う。

 いっそのこと、胸懐に反する責務から逃げ出してしまえれば。バスが目的地を失って、バス停に着かず、このまま回送して家まで戻ったなら。


 シート上に置かれた深雪の手を、握れたなら。

 そうすれば、きっと。しばらくは、問題を先延ばしにできただろう。


 そこまでおもんみて──車窓の外に見えた海に、詮無い考えだと頭を振る。

 バスはただ前へと、二人を行く先に運んでいく。


 着いたら降車ボタンを押していいと言うと、深雪は少し嬉しそうにはにかんだ。輔は窓の外に視線を巡らせて、堤防の向こう側に見える夕日を眺めていた。やがてバスが停車して、財布を取り出し2・5人分の料金を清算してバスを降りた。

 運賃箱を見ていた運転手は、輔の手元に一瞬怪訝そうな顔をしたが、多い分には見間違えだという考えに落ち着いたのだろう。特に何も言われることはなかった。


 海の側だけあって、頬を撫でる潮風は比較的涼しい。

 そこからの道は人通りもなく、手を繋いで並んで歩いた。輔から小さな手を握ると、深雪はこちらを見て、それから微笑みを湛えてぎゅっと手に力を込めた。


 道中、会話らしい会話はほとんどなかった。遠くから聞こえる波の音だけが、絶えず鼓膜を揺らし続けていた。


 堤防の切れ間に着くと、輔が先導して階段を下りた。エスコートでもするように輔が手を引くと、深雪は「これ、ちょっと恥ずかしいですね」と頬をかいた。


 砂浜に降り立つと、また二人で並んで、波打ち際を歩く。

 晴れ間こそ大きかったが、海の向こう側の空は黒雲に閉ざされている。


 昨晩の雨のせいか波は高く、砂浜に打ち寄せる海水も少し濁っていた。潮は引いていた。波打ち際には流れついた海藻や貝殻が転がっていた。

 台風の後だ。多少荒れているのは仕方ないだろう。


 輔が無言で歩き続けているからか、深雪も黙ってその後を着いてきている。砂浜が濡れていて座れないこともあり、二人はしばらく砂上に足跡をつけ続けた。


 前に来た時よりも日は短くなっており、暗くなってくるのも早かった。

 明るかった空が徐々に暗くなり、海の向こうに太陽が沈んでいくのを眺める。遠方を望めば、海は台風の後日とは思えないくらいに穏やかに広がっている。


「やっぱり、綺麗な場所ですね」

「まあ」


「……輔さんって、海が好きなんですか?」


「人がいない、静かなところなら。海水浴場とかみたいなとこは好きじゃない」


「ここはほとんど貸切でいいですよね」


 そんな、他愛ない会話を挟んで。

 そうして、心の準備と台本が整ったところで輔は口を開いた。


「──前にここで言ったこと、覚えてる?」


 いきなり話題を振られ、深雪が長い髪を揺らしながら輔の方を向く。

 輔の表情を見て、やや緩んでいた口元が引きしめられる。


「えっと……どの話でしょうか」


 その疑問はもっとだろう。輔は以前、ここでいくつかの話をした。


「ここが、人から教わった場所だってこと」


「はい」


 ぴんと背筋を正しながら、深雪は頷く。

 輔は目を眇め、口を動かす。


「──以前、一人だけ付き合ってたやつがいた。そいつから教わった場所だった」


 波打ち際の、ずっと奥。輝う水平線を眺む。

 近くで見れば荒れて見える海も、遠くではいつもと変わらず綺麗だった。


「……その人は、今は?」


 だった、という部分に引っ掛かりを覚えたのだろう。

 慎重な表情で深雪は聞いてくる。


「もういない」


「……。そう、なんですね」


 短い返事に、暗然とした表情で深雪は視線を落とす。


「…………」

「その。輔さん」


 気乗り薄な様子で、それでも深雪は続けた。

「……どうして、また私をここに連れてきてくれたんですか?」


 僅かに深雪から視線を逸らすと、海に反射した夕焼けが目を眩ませた。

 視界の端でワンピースの裾がひらひらと風に揺れる。


 ──その問いの先に行けば、もう後には戻れない。


「聞きたい?」


 委ねられた判断に、深雪はすぐには首を縦に振らなかった。

 どこか不穏な空気を深雪も感じ取っていたのだろう。


「…………」

 考え込んだ末に、深雪が唇を噛みながら頷く。


 輔は深く息を吸って、煙草の煙を吐き出すように長い溜め息を吐くと、


「──話をするなら、この場所だと思った」

 口火を切って、それから目尻を険しく吊り上げた。


「最初に会った時から、ずっとだ。深雪は──お前は、陽縁の代わりだった」


「……っ」


 唐突に鋭い視線で睨まれた深雪は、不可解そうな目で輔を見返してきた。

 それはそうだろう。陽縁という名前自体、彼女は知らないのだから。


 憮然として肩を竦める深雪に向かって、輔は続ける。


「俺がお前を側に置いていたのは、そいつとお前の眼が似ていたからだ。お前の眼を通して、俺はずっとそいつを……陽縁だけを見ていた」


 自分の声が、全く別の人物の口から発されているような気がした。

 台本通りの言葉であるはずが、何を言っているんだと笑いさえ込み上げてくる。


 ──最初はそうだったかもしれない。

 出会った頃、その憔悴しきった目に陽縁の面影を見たのは嘘ではない。

 ただ、今となっては何もかもがつまらない言い訳だった。


 輔が惹かれたのは、その頃の深雪ではない。

 だからこそだ。本心じゃない部分で取り繕う以外になかった。


 つまるところ。それしか、方法が見つからなかったのだ。彼女を傷つけずに遠ざける理由付けを、輔は未だ見つけられずにいた。


 かといって──そんな胸中が伝わるわけでもない。


 深雪は僅かに、けれど確かに傷付いたような表情で輔をじっと見ている。

 そうして、次の言葉を──おそらくは撤回の言葉を待っている。


「…………」

「──お前も同じだろ。お前にとって俺は、いなくなった親の代わりだった」


「さ、最初は。そうだったかも、しれません……。でも……っ」


「でも?」


 深雪が言い条を探す時間を与えないよう、即座に言葉尻を捕らえる。


「っ…………私、は」


「──ストックホルム症候群って、知ってる?」

 深雪の言葉を遮るようにして、輔は次の一手を打つ。


「……ストック、ホルム? ……いえ」


「誘拐に遭った被害者が加害者と一緒に過ごすうちに、本能的に、好意や信頼みたいな好意的な感情を持つことがある現象のことだ」


「……。なんで、そんなこと」


「分からない? お前が俺に抱いている好意は、偽物なんだよ」


 今度こそ、酷くショックを受けたように、深雪が色を失う。


「……偽も、の?」

「そうだ」


 非日常で芽生えた感情は常識では語れない。それが人間的心理によって偽造されたものだということに、当人は気付くことさえできない。

 これ以上、今の関係が続けば、その境目は更に曖昧になるだろう。


 全ての言葉が、自分に言い聞かせているも同然だった。

 どうしたって取り返しがつかなくなる前に、終わらせる必要があった。


「そいつに傷つけられようが、それでも大切な存在だと感じるようになる。『心的外傷後ストレス障害』って心理現象の一つなんだと」


「わ。私、輔さんに傷つけられてなんて……」


 食い下がってくる深雪を輔は見下して、聞こえるように舌を打つ。

「……これからは、そうなる」


「っ……」


「そもそも──お前の気持ちが変わろうと変わるまいと、俺は端から割り切る気もない。俺はお前を一人の人格としては見れない。所詮、ずっと陽縁の代替品だ。そんな関係、まだ続けたいと思える?」


 職業柄、詭弁を弄するのには慣れていた。

 ……まさかこんな形で使うことになるとは思わなかったが。


 深雪は何かを言い返そうとしたのか、唇を微かに震わせた。だが、そこから零れるのはほとんど声の乗っていない震えた息だけだ。

 高波の音に掻き消されて、輔の耳には何も届かない。

 その目は既に泣きそうに潤んでいて、だが深雪が泣き出すことはなかった。


 しばらく無言が流れて。

 輔が身体を背けようとした瞬間。深雪が、口を開いた。


「か、代わりで……いいです」


 精彩を欠いた言葉は妥協ではなく、かといって本心とも思えなかった。

 言い切った後、深雪はよろめくように足の踏み場を変えて、一歩輔の側に寄った。顔が見えなくなるくらいに深く俯き、胸元に手を宛がう。


「…………」

「それで輔さんと一緒にいられるなら、……彼女さんの、代わりでいい、です」


 小さな手が小刻みに震え、ワンピースの生地をくしゃっと握る。

 その肩は走った後のように大きく上下している。


「お前で代わりが務まると?」

 烏滸おこの沙汰だと、輔は道端に唾でも吐き捨てるように告げる。


「それは……分からないですけど、輔さんのためなら、……何でもします」


 今度こそ聞き捨てならない発言に、輔は再び溜め息を吐いた。

「何でもって、意味分かって言ってんの?」


 そう聞かれたことに何を思い浮かべたのかは分からない。何にせよ、深雪は両目をぎゅっと瞑って、右手で自分を抱きしめながら頷いた。


「た……輔さんがそうしたい、なら」


 ──なんで、そうなる。


 深雪のためにと思って取った言動が、ことごとく思い通りにならないことに歯噛みし、輔は指先で頭を掻きむしる。

 そんな顔をさせるくらいなら、むしろ拒絶された方が良かった。


「…………」

 


 今からでも遅くはない。全部嘘だと、そう吐いて楽になってしまいたい。

 年齢が、出会いが、社会が違えば、それも或いは叶ったことだろう。


 ……だが、それで楽になるのは今だけだ。いくら互いに想いあっていようと、現実から目を背けていようと、今のような関係が続けられるはずがない。


 輔は深雪の保護者でもなければ配偶者でもない。

 それどころか、社会的に見れば辻と同じく、ただの犯罪者なのだから。


 いくら外聞を憚って生活していても、限界がある。

 いつかは必ず引き離される未来があって、二人平等に後悔する時が訪れる。もう二度とあんな思いはしたくないし、深雪にも味あわせたくない。


「じゃあ、一生俺のとこで暮らすっての?」

「……ダメ、ですか? だって、私、輔さんのこと──」


 淡い期待の込められた声は、やがて勢いを失って。

 その表情が怒ったような悲しむような、曖昧なものに歪められる。


「なん、で……」

「…………」


「……なんで、嫌いって言わないんですか! 私のことが嫌いになったなら、そう言ってくれれば……っ。そんな、突き放すようなこと、しなくたってっ……!」


 嫌いになったわけじゃない、と言いそうになり、輔は口を噤む。ここで否定してしまえば、きっと深雪が輔を嫌うことはできなくなる。

 因果を含めることはできない。

 できれば彼女の意志で。別れを決断してほしかった。


「…………」

「ほんとに、何だって……します。……お金も、これからは私が働いて、払います。一緒にいてくれる、だけで、何もいらないですから……っ」


 ほとんど泣き声で、募り積もった心緒が吐き出される。


 今すぐに耳を塞ぎたい衝動に駆られながら。

 何も言えずに、輔は喉奥に詰まる鉛のような感覚に意識を向けていた。


「……お願い、だからっ。輔さんまで……私を捨てないで、ください……」


 胸を締め付けるような嗚咽に、輔はとっくに手遅れであったことを悟った。

 装うのも限界だった。


「……………………。そうか」


 どうすればいいのか分からなかった。

 ──いつも、こうだ。


 やろうとしたことは空回って、伝えたいことは伝えられずに。大事にしようと思っていたはずが、結局、必要以上に傷つけてしまう。


 ただ一つ言えることは、無理に相対尽くで決めるべきではなかったのだろう。

 ……けじめをつけておこうということ自体、輔のエゴで、お為ごかしだった。深雪にまで背負わせる必要など、初めからなかったのだ。


 こうなることだろうと、推して知るべしだった。


「分かった。……この話は終わりだ。俺が、悪かった」


「……え?」


「お前は──深雪は、陽縁の代替品なんかじゃない」


 ゆっくりと顏が上がり、深雪の目から大粒の涙が溢れる。

 何かを恐れるように深雪の唇が動き、噤まれ、やがてまた言葉を紡ぐ。


「……。じゃあ」


「…………腹減った。帰る」

 曖昧な返事すらせずに、輔はきびすめぐらせて来た道を戻り始めた。


 深雪の顔は見れなかった。

 しばらくして、控えめな足音が後ろを着いてきた。




     ◆




 そこからは何の会話をしたのかも覚えていなかった。


 暗くなっていく道をバスに乗って、家に帰って。玄関の電気も点けずに、深雪が先に家に上がるのを待つ。振り返った深雪から、輔は顔を逸らす。

 輔は靴を脱がずに、上着のポケットから煙草とライターを取り出した。


「外で煙草吸ってくる」

「……じゃあ、その間にご飯の準備しますね」


 廊下の奥へと向かっていく深雪を眺め、輔はほぞを固めてスマホを操作する。


「ああ」




 その晩の食卓に並んだのは、凝った料理ではなく、豚バラとピーマンを炒めたものに、いつも通りの惣菜類、サラダだった。

 輔がお腹が空いたと言ったため、さっと用意してくれたのだろう。

 そういうちょっとした気遣いに今になって気付く。


 テレビはついていて、バラエティ番組特有の素材の笑い声が聞こえていた。

 静かすぎるよりもその方が良かった。


「……食べないんですか?」


 心配そうに言う深雪も、まだ一口も食べていない。

 輔が食べ始めるのを待っているのだろう。


「えっと……お口に合わなそうなら、作り直しましょうか」


 深雪が輔の気褄きづまを合わすように言ったのは、ほとほと的外れな提案だった。


 輔は手をついて立ち上がると、深雪の側まで歩み寄る。

「…………」


 深雪は上半身を捻って横を向き、こちらを見上げてくる。


「輔さん──ひゃっ、……っ⁉」


 輔は膝を折ると、深雪の顔に顔を近付けた。何かされると思ったのだろう、深雪はぎゅっと目を瞑り、それから段々と細目を開けていく。

 髪に触れられ、頭を撫でられた深雪が蕩けた表情を作る。


 叶わないことだと知りながら、いつまでもこうしていたかった。


 ──と、そこで。インターホンの音が鳴り響いた。

 


 状況が飲めていない深雪に「来て」と告げて、玄関まで向かう。その間も輔たちを急かすように、インターホンとノックが交互に聞こえていた。


 輔が鍵を開けると、向こう側からがちゃりと扉が開けられた。そこから無遠慮に入ってきた二人組を──正確にはその服装を見て、深雪は表情を凍り付かせた。


「あなたが、深雪ちゃん?」


 二人組の女の方が深雪の前までさっと歩み寄る。

 それを横目に流して、輔はもう一人の男の方に視線をやった。




「──さきほど、未成年略取の疑いで通報がありました。……あなたが、紀川輔さんご本人ですね。署まで、ご同行願えますか?」


 手を差し伸べてくる警官に輔は頷き、振り返りながら告げる。


「……。ちょっとだけ、待ってもらえますか」


「た、……なん、で……」


 深雪は、酷い裏切りでも受けたような顔をしていた。輔が腕を伸ばして深雪の頭を撫でようとすると、それは間に入った婦警によって阻止された。

 仕方がない。


 輔は溜め息を吐くと、数秒、天井を眺めて。関係の終わりを告げる。


「今まで、悪かった」


「……ぃ、や」


 深雪が目に涙を溜めて、ふるふると首を横に振る。

 それが最後に見る顔になると思うとやるせない気分になりながら、


「次はもっと、ちゃんとした奴に逢えよ」


 輔は深雪に背を向けて、それきり振り返ることはなかった。

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