第24話 夢と誘因
窓の外では雨が止んでいて、部屋は静かだった。
「……。今の、どういう意味?」
風呂から上がり居間に戻った黒シャツにジャージボトム姿の輔は、深雪からされた提案に、今度こそ自分の耳を疑った。
深雪は輔よりも先に風呂を済ませており、ピンクのルームウェアに着替えている。髪も丁寧に乾かされていて、微かにシャンプーの匂いがする。
頬が紅潮しているのは風呂上がりだから、というわけではないだろう。
「だから、今日はまだ、終わってないので……」
「から?」
「……今日だけ、こっちで寝ませんか?」
細い声で深雪が再度告げる。どうやら聞き間違いではなかったらしい。まだ今日が終わっていない間は、一緒に過ごす範疇に含むということらしい。
輔は深く溜め息を吐くと、我ながら意地が悪いと思いながら言葉の粗をつつく。
「それって十二時までこっちいて、過ぎたら帰っていいってこと?」
「えっ、……と」
「…………」
輔は深雪の顔に手を伸ばす。
「な、なんでしょうか……?」
ふいに額に当てられた手に、深雪は不思議そうな顔をする。
「いや。なんでも」
……言動の突飛さに熱でもあるのかと思ったが、そうではないらしい。
輔のように酒を飲んでいるわけでもない。あくまで素面で、だ。輔は手を引き戻して後頭部をがしがしと掻くと、薄く開いた半眼で深雪を見つめる。
「……輔さん、えっと。その」
輔が深雪から視線を逸らすと、追いかけるように声がかかった。
「なに?」
「……。いえ、やっぱり」
深雪は前髪を弄りながら小さく唸って、結局何を言うでもなく黙り込む。
どうにも今日の深雪はじれったく、趣旨が分からない。
──いや、予測はついていた。
そのうえで、輔は気付かない振りを続けていた。
「…………」
そろそろ、認識を改める必要があったのだ。
今日一日、一緒に過ごして確信した。深雪が抱いている感情の正体に輔は気付いていた。だからこそ、輔も彼女に惹かれる時があったのだろう。
深雪は確かにかわいいと思う。性格もいい、といって差し支えないだろう。だが、輔の好みではない。歳だって離れすぎている。──それなのに、好意を抱かれていると思うだけで、なぜこうまで惹かれてしまうのか。
頭では、理性では、最初からそれが正しくない感情なのだと分かっていた。
年齢や関係上、倫理的にも社会的にも、そうあってはならない。何より輔の根底にあるものが、深雪とそういう関係にあることを望まない。
深く浸かれば浸かるほど、関係が壊れた時に深い傷を負うことになる。
そして、この関係が長続きしないものであることも、分かり切っている。
何のためにこれまでも自分に言い聞かせてきたのだと。
だが、輔がどれだけ情動を押さえようとしても、既にできあがってしまっている距離の近さが、彼女を遠ざけようとするのを許さない。
……なら、互いに今この瞬間さえ良ければそれでいいのか?
そこまで考えて、自分への甘さに輔は思わず笑いそうになる。
──それが、結論だった。
結局のところ、今の関係を続けるための鍵は最初から輔が握っていた。
それをどうすべきなのかも、ずっと前から知っていた。
考えを纏めあげ、輔は踵を返す。
「……。書斎から布団持ってくるから、場所開けといて」
深雪は一瞬落としかけた肩を跳ねさせて、
「わ。わかりました……!」
と、慌てて自分の布団を端に寄せ始めた。
◇
「おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
仮の挨拶を交わして部屋の電気を消し、布団で横になる。
エアコンが除湿で働く駆動音と、呼吸音だけが静謐な部屋に響いている。
室内は妙な緊張感に支配されていた。
居間がそれほど大きくないため、ほとんど敷き布団同士はくっついていた。深雪はちゃんとした布団を被っていたが、輔の方は薄手のタオルケット一枚だ。
深雪は気を遣ってか「寒くないですか?」と聞いてくる。
「別に。除湿切ったら暑いし」
ぶっきらぼうに言うと、「そうですね」と返ってきて、会話が途切れる。
「……こうしてると、おはぎちゃんがいた頃のこと、思い出しますね」
しばらくしてまた、輔の背中に深雪は声をかけてきた。
おはぎ、というのは黒猫の名前だったか。確かにそんなこともあった。
「つっても二日? だったけどな」
輔は深雪に背中を向けたまま、テレビの真っ暗な画面を見つめて口を動かす。
「おはぎちゃん、公文さんも。元気にしてるでしょうか」
深雪はややしんみりとした口調でそんなことを呟く。
たった二か月そこらで何もないと思うが。
「気になるならまた連絡とってみれば?」
「……連絡先、知ってるんですか?」
「多分スマホに残ってるから」
最近、輔の携帯にかかってくる着信はほとんどない。おそらく着信履歴の、それもかなり上の方に残されていることだろう。
「……今度、電話お借りしてもいいですか?」
「好きにすれば。ロックのパスワードは──」
「か、勝手にっていうのは、ちょっと……。でも、ありがとうございます」
「話、一つ戻るんですけど」と前置きを置いて、深雪は続ける。
「……あの二日、私。緊張してあんまり眠れなかったんですよ」
「知ってる」
「えっ」
なぜか、意外そうな反応が返ってくる。
……あれで隠せていたとでも思っていたのだろうか。
「いや、明らかにびくついてたし」
「……そうだったんですね。……で、でも。今はもう、大丈夫ですよ」
「それも知ってるけど」
輔が即座に答えると、深雪は「そうですか」と囁くように言った。
背中に視線を感じる。時折、呼吸が寸断する音に、なにか話しかけようとしているのが分かる。話題がないなら無理して喋らなくてもいいと思うが。
「──まだ寝ないなら。いっこ、聞いてもいい?」
会話の切れ目に、唐突だとは思いながらも輔は口を切る。
「はい」
「深雪は、夢とか将来やりたいこととか、決まってんの?」
話題作りのためのふとした質問ではなく、しばらく考えていたことだった。
とはいえ、その答え次第でどうこうしようという意図は輔にはなかったが、深雪は何かを推察する時間のように黙り込む。
「夢。って、難しいですね」
「そんな深いこと聞いたつもりじゃないけど。特にないなら、それでいい」
「……そうですね。あんまり、ないかもしれません」
「そう」
言い方は悪いが。今の状況で描く夢など画餅に帰すのが落ちだ。
むしろ、ないならないでその方が今は良いとすら思えた。
だからこそ、深雪が「でも」と言葉を続けた時、輔は苦々しい表情を作った。
「……夢とか将来のことは、今はまだ考えられてないですけど。でも……ずっと、今日みたいな日が続いたら……って、思います」
噛みしめるように、ゆっくりと告げられる。
深雪の言葉は、救いで、
輔はぎり、と奥歯を摺り合わせ、布団の中で軽く拳を握る。
それから──深呼吸をひとつ挟み、全身からゆっくり脱力していく。
憤りこそないが、確かに逸る鼓動を押さえて。根柢にある考えとは切り離して、言葉通りに甘い響きとしてのみ考え直す。
今日一日は、深雪のための時間なのだから。
「……。そう」
なんとか喉奥から絞り出した時には、声は掠れ切っていた。
お互いに話題が尽き、そこで会話は途切れた。
輔が思考を巡らせていると。カチリ、と時計の短針が進む音が聞こえた。
ちらりと暗闇に慣れた目を時計に向けると、十一時四十五分を過ぎたところだった。普段よりもかなり早めに布団に入ったため、なかなか寝付けなかったのだ。
ぼうっとする頭で時計の秒針を追っていると、か細い声が聞こえてきた。
「輔さん。……まだ、起きてますか」
輔は身じろぎ一つせずに呼気をおさえる。
「…………」
「……寝ちゃいましたか?」
輔が眠っていたとすれば、無理に起こすつもりはないのだろう。それくらい小さな声で、深雪は独り言つように声をかけてくる。
「──私。最初は輔さんのこと、怖い人だと思ってたんですよ」
深雪は輔の空寝を疑っていないらしかった。その状態で話を聞くのは深雪に不誠実な気がしたが、今から耳を塞ぐこともできない。
「──でも、海に連れて行ってもらって、おはぎちゃんを助けてくれて。一緒に過ごすうちに……ああ、とっても優しい人なんだなって、思ったんです」
「…………」
「──……あの時も、ほんとは、誰も助けになんてこないんだって。そう思ってて。それなのに……輔さんは、来てくれて」
深雪は声を微かに震わせて、
「──私の言いたいこと聞いてくれるところも、したいことをしてくれるところも。私の心の中なんて、全部見抜かれてるんじゃないかって、思うくらい」
穏やかな声音が、どこか緊張を孕んだものに変わる。
「──もしそうなら、私の気持ちも」
カチリ、と針が刻まれる。十一時五十七分、日付の変わる三分前。
「輔さん。──そっちにいっても、いいですか?」
独語が初めて聞く甘えるような声に変わり、思わず反応を返しそうになる。
輔がそれでも無反応を貫いていると、背後で微かに布の擦れる音が聞こえてきて。
「ほんとに寝てるんですか……?」
次に聞こえた声は、すぐ真後ろからのものだった。
「…………」
「……もし、起きてたら。こっち、向いてください」
指先か何かで背中をつつかれ、仕方なく深雪を巻き込まないよう寝返りを打つ。
「──」
そこにあった深雪の顔に、輔は静かに息を呑む。
それから数秒──ともすれば十数秒は、輔はただじっと動けないでいた。
深雪は僅かにうるんだ目をして、身体ごと顔を近付けてくる。
「……たすく、さん」
切なげな囁き声で、名前を呼ばれる。
──少なくともその瞬間だけは、愛しさが理性を上回った。
ほとんど無意識に輔の右手は動いていた。
長い髪に指が触れ。ほんの一瞬、怯えるように躊躇して、その頭を抱き寄せる。ゆっくりと、深雪の手が、同じように輔の頭に回される。
目を瞑る。
互いの唇をそっと触れ合わせるだけの、淡い口づけ。
「────」
深雪の高い体温が、大きく脈打つ鼓動がこちらまで伝わってくる。
輔は深雪の華奢な肩を掴むと、やんわりと突き放した。解かれた深雪の腕が名残惜しそうにその場に残った気がして、輔は考えを振り払うように首を振る。
ずっと息を止めていたのか、手と顔を離すと深雪は肩で息をし始めた。
それから深雪は、唇に指で触れ、目を細める。
「……輔さんの匂いがします」
「煙草の臭い?」
「はい。……なんだか、安心します」
──赤く染まり、微かな色気を持ち始めた頬と、あどけない笑顔。
そのアンバランスさに、取り返しのつかないほどの深い後悔を覚えた。
時刻はとっくに十二時を回っていた。
輔は深雪の背に回されていた手を持ち上げ、深雪の頭をぽんぽんとして、
「……眠い。そろそろ寝る」
心中に渦巻く感情をつとめて隠してそう告げ、壁側に寝返りを打った。
「……はい。おやすみなさい、輔さん」
深雪はしばらくの後、そう言って輔の背中に手の甲を当ててきた。
自分の布団に戻ったらと言おうとして、やめた。
三十分ほど待って。一定の間隔で静かな呼吸が聞こえ始めて、深雪が眠ったのを見計らってから、輔は少し距離を取って改めて目を瞑る。
その頃には眠気はやってきていて、誘われるように意識が薄れていく。
──その晩は、何の夢も見なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます