部屋に戻ると、リンは本棚からスケッチブックを取り出して彼女が書いた歌詞を見せてくれた。それは僕の部屋で広げていたスケッチブックと同じものだった。彼女はまるで何かの教義のようにずっと同じスケッチブックを使い続けているのだろう。

 僕が床に座りベッドに背をもたせかけてそれを読んでいると、リンは僕の隣に座った。互いの肩と膝が触れる距離だった。薄手のタートルネックシャツを通して、彼女の体を質量のある物体として確かに感じとることができる。僕がリンの書いた歌詞を読んでいる間、彼女は僕の肩に頭を載せていた。やがて静かな寝息が聞こえ始めた。僕は右肩に彼女の体重を感じながら、歌詞に読み耽った。

 僕はそれら全ての歌詞を目に焼き付けると、スケッチブックを脇に置く。リンはまだ眠っている。彼女の華奢な体を抱き上げて、ベッドの上に降ろした。最後に彼女の体に触れたのは何ヶ月前だっただろうか。彼女の体は以前より軽くなったようにも思われたけれど、少しも変わっていないようにも思われる。僕の手は彼女の重さを正確に記憶しておくには不器用すぎたし、他の色々なものに触れてしまっていた。

 彼女はしばらく眠たそうに目をこすっていたが、やがてベッドに膝をつき、僕の方に両手を伸ばす。僕は彼女のシャツを脱がせてやった。タートルネックが髪の毛に引っかかり、綺麗な形のショートボブをくしゃくしゃにしてしまった。彼女は左手で髪を整えながら、右手だけで器用にブラジャーを取り去る。

 よく考えてみれば、明るいところで彼女の体を見るのは初めてだった。彼女の日焼けとは無縁の白い肩は、僕の視界の右半分に海と面したホワイトクリフのように切り立っている。薄い胸板にはなだらかな丘のような形の良い乳房が乗っていて、それらはうっすらと浮き出した肋骨によって微妙なバランスに支えられていた。リンは膝立ちの状態でジーンズまで脱いでしまうと、ベッドに腰掛けた僕の胸にそっと頭をつける。彼女は目を閉じて、じっと僕の心臓が鼓動する音を聴いていた。

「意外と早いんだね」

 きっかり1分後、彼女はつぶやくようにそう言った。

「ちょっと早すぎない?死んじゃうんじゃないかってくらい早いよ」

「興奮してるってことさ。そういうのって顔に出ないんだ」

「きみは死なないでね」

 リンは僕の胸筋の線を指でなぞりながらそう言った。僕は彼女の肩を抱き寄せた。柔らかくて暖かい耳の軟骨と、硬くて冷たいピアスの感触を同時に感じる。彼女が呼吸するたびに髪の毛が揺れて、僕のへその上あたりをくすぐった。僕は彼女と僕の体温が混ざり合い、熱力学の法則に従って平衡状態に移行してゆくのを感じる。それは、僕らが同じ断熱系に存在していることを実感させてくれた。

「一度死にかけた人間が言うと説得力があるな」僕は言う。

 リンは小さく笑い、僕の両手に指を絡ませた。僕はそのまま彼女を仰向けに押し倒した。ショーツの間に差しこんだ指を動かすたび、彼女は小さく声を震わせる。しばらくして、僕はリンが泣いていることに気がついた。涙を流すこともせず、声も上げず、ただ引き攣ったような呼吸音のみで、彼女は確かに泣いていた。まるでやり方を忘れてしまったように、うまく泣けないみたいだった。

 僕が驚いて彼女の体から離れようとすると、リンは首を横に振りながら鼻声で訴えるように言う。

「だめ、だめ、やめないで」

 それから彼女は僕の顔を両手で包み込み、永遠とも思えるような長い口付けをした。そして僕に手を添え、暖かく湿った彼女の中へ導き入れた。

 彼女の中で動いている時、僕は無意識のうちにリンの両手首をベッドに押さえつけていた。そんなことをしなくても彼女が逃げ出したりしないことは分かっていたが、そうしないと彼女がまたどこかに飛んでいってしまうような気がした。僕の手にどれぐらい力がこもっていたのかは分からない。それは明らかになんらかの種類の恐怖の現れだった。僕は、自分の感情と衝動に混乱する。結局僕は最後の瞬間まで彼女の手首から手を退けることはできなかった。

 それが僕の覚えている彼女の最後の感覚だった。


 *


 ブライトン駅からヒースロー空港に向かう電車の中で、僕はなんとなく二度と彼女に会うことはないだろうと思った。途中、ターミナルであるロンドン・ヴィクトリア駅で時間を潰さなければいけなくなったので、僕はベンチで泥を薄めたような味のコーヒーを啜りながら、くしゃくしゃになったフリーペーパーを読む。どこかに昨日のブライトンでの乱闘騒ぎが載っていないかと思って隅から隅まで読んだが、そんなものはどこにもなかった。

 ページをめくるたびに指が黒ずんでいくようなその新聞は、ただひたすらに就任からわずか1ヶ月で辞任した女性首相を批判することに執心していた。

『政府は経済状況が悪化した原因を究明し、対策に専念していました。しかし国民やメディアの識者は、考え無しに私の政策が原因であるという評価を下したのです』

 女性首相はそう述べていた。

『正直に申し上げて、私たちは水を坂の上に押し上げようとするような苦境に直面しておりました。大多数のメディアや国民は、税制や経済政策に関する主要な問題をよく理解しておらず、世論は時間とともに左傾化してゆきました。不運なことに我々は、数ヶ月前から徐々に忍び寄りつつあったさまざまな問題の格好のスケープゴートにされてしまったのです。これは非常に残念なことです』

 非常にイギリス的な物の言い方だ。

 僕はふと、昨日のことが全て夢だったんじゃないかと思った。両手に残る彼女の手首の感覚は、ざらつく新聞紙の細かいインクの粒子と、つるつるとしたコーヒーカップの手ざわりによって早くも上書きされようとしていた。

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ムード・インディゴ 閏登志 @hanaguma1221

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