リンは濃い緑のモッズコート、僕は革のジャケットを羽織り外に出る。時計は夕方の5時半を指していたが日が傾く様子は無く、辺りは真昼のように明るかった。海辺には潮風を浴びて錆びたガードレールが、痩せた老犬のように並んでいた。

 僕らは手を繋いで歩いた。彼女は僕よりも半歩だけ先を行く。僕の位置からは彼女の表情を垣間見ることはできない。でも、見えたところで同じことだ。僕には彼女の考えていることは理解できないのだから。僕にとってはそれが彼女の魅力だった。底の見えない井戸を覗き込んでいるような彼女の瞳は、不思議な儚さを秘めていた。それは、無から有を生み出そうとする人間に共通する、強い意志に満ちた脆弱性だった。何かを創り出そうともがき苦しむ彼女の姿は、陽子と中性子のバランスが釣り合わない不安定な原子核のように、常に妖しく放射線を放出していた。

 だが、部屋で見たリンはおかしかった。彼女の醸し出すオーラはあまりにも鋭利さに欠けていた。ロンドンの街角やブライトンの駅前に転がっているジャンキーと何も変わらない。奇抜な形の岩が河を下る間に角を削られ、ただの丸石になってしまったようだった。

「この頃ずっと自分が、半分だけで生きているような感じなんだ」

 僕が黙っていると、やがて彼女は口を開いた。

「手も足も一本ずつしかないから歩きにくいし物も食べにくい。頭の容量も半分になってしまったみたいでね。深く物を考えると頭痛がする。もうかれこれ3ヶ月もずっとそんな感じでさ。そろそろいい加減にしないといけないと思って半分の体を何かで埋めようと色々試したけれど、どうもうまくいかない。人の形をした穴に物を詰め込んでも、結局は形が合わなくてはみ出したり隙間ができてしまう」

 全ての言葉は彼女の口から一点の淀みもなく発せられる。それは、ケトルに並々と溜まった水が勢いよくシンクに放り出される時のようだった。僕はリンの口がただの金属の筒になってしまったのではないかと心配になり、彼女の顔を覗き込みたい衝動に駆られる。しばしの沈黙のあと、彼女は再び話し始めた。

「大麻に手を出したのも、その不完全な形を整えたかったから。誤魔化したかったといってもいいかもしれない。ピースの合っていないジグゾーパズルだって、無理矢理にでも接着剤で隙間を埋めたら一応完成したようには見えるじゃないか。でもね、接着剤の効力はとっても短いんだ。すぐにまた物が溢れ出てくるし、隙間はどんどん大きくなる。しかも一度完成した状態を見てしまっているから、パズルが未完成の状態で転がっていることに耐えられなくなる」

 僕は黙っている。再び訪れる静寂。彼女の話しぶりはまるで頭に浮かんだ事柄を、脊髄を経由させずにそのまま口にしているみたいだ。本来であれば頭の中の世界と現実の世界は、プラトン的洞窟の中と外の関係でなければいけない。思考とは洞窟に囚われた奴隷で、言葉とは洞窟から自由になった奴隷だ。体という入れ物から自由になった言葉だけが、善のイデアに近づく権利を与えられる。しかし、今の彼女の頭は外の世界と直接繋がっているようだった。そこに洞窟はなく、ただ平原が広がっていて、何やら得体の知れないものが駆け回っている。そんなふうに思われた。

 彼女は言葉を継ぐ。

「私には何が足りないんだろう。このままじゃだめだってことぐらいは理解してるんだ。いや、理解しているつもりだけど本当は何も理解できていないのかもしれない。でも多分それらは同じことなんだろう。結局そこには相対的か絶対的かという違いしかないんだから」

 路面でサブウェイのサンドイッチの包み紙が潰れていて、それにウミネコが群がっている。ふと僕は、彼女がイギリスという国に食い潰されてしまうのではないかと思った。ちょうど岩に括り付けられたプロメーテウスが内臓を鳥に啄まれるように。僕には彼女が何を言っているのかさっぱりわからない。半年ぶりに内耳に入ってくる彼女の言葉は、驚くほど希薄で冗長で論理性に欠けている。それらは真夏のアスファルトに落とされた水滴のように、地面を濡らす暇もなく蒸発してしまう。

 僕は立ち止まる。どうしてもそうしないわけにはいかなかった。後ろからやってきた黒人の夫婦が不思議そうな目で僕らを追い越していく。先を歩いていた彼女はだんだんと僕から離れる。緩やかな曲線を描いて繋いでいた手は直線に変化し、やがて線ですらなくなった。僕と彼女の肩から垂れ下がった2本の腕は、崩落したロンドン橋を思わせた。

「日本に帰らないか?」僕は言う。

 彼女は振り返り、切れ長の細い目をさらに細めて僕を見つめる。

「君は変わってしまった。良い方向に変わったこともあれば悪い方向に変わったこともある。環境が変化したんだ、それによって君自身に変化があるのは当たり前なのかもしれない」

 近くの交差点から鋭いクラクションの音と怒鳴り声が聞こえる。車のドアを乱暴に閉める音がする。もうじき殴り合いの喧嘩が始まるだろう。血が流されるだろうか。誰かが傷つくだろうか。僕らの頭上には組まれた足場と鉄骨。その上で、オレンジ色のベストを着た作業員たちが壁を塗装している。シンナーの香りが風に乗って僕らの間を吹き抜けた。

「それで?」彼女は言う。

「君に起こっている悪い方向の変化について、これはかなり深刻だと思う。自分で気付いているかどうか分からないけれど、君は曲を書くためにかなり多くの代償を支払っている。君はこのままここにいてはいけない。君はここにいては駄目なんだ。この街はやがて君を骨まで貪り尽くすだろう。そうしたら君は終わりだ」

 青いフォードの中から白人の男が、白いプジョーの中からヒスパニック系の男が出てきて、互いの額が接する距離で口論を始めた。通行人たちはそれを遠巻きにしている。通りかかった警官が間に入るが、火に油を注ぐだけだ。鉄骨の上の作業員たちは塗装の手を止め、煙草を吸い始める。道の真ん中に停められた車によって交通は堰き止められ、さらなるクラクションと怒号が溢れ出す。僕とリンはそんな渦中でただ見つめ合っていた。

 彼女は視線を落とすと、黙って首を振った。駄目だ。駄目なんだ。帰るわけにはいかない。わかるだろう?まだ何も成し遂げられていないんだ。微妙な角度に伏せられたリンの瞳は、確かにそう言っていた。

 彼女の手を取って日本に連れて帰ることができたらどんなに良かっただろう。僕にはその資格も勇気もなかった。渡英は彼女自身の決めたことだったし、勝手に彼女の居場所を探し出したのは僕の方だった。何より彼女が今帰国したら、彼女のシンガーソングライターとしてのキャリアは完全に断たれてしまうだろう。死んだことになっている彼女が生きているとわかったら、誰がどんな言葉を投げかけるんだろうか?彼女の母親は何をするんだろう?そうなったら僕はどうすればいい?

 何か他に道があるわけでもなく、物事はただひたすらにどうしようもなかった。誰も帆船からマストを奪うことはできない。それが現在の僕が置かれている立場だった。全ては最初から決まっていたのかもしれない、僕は漠然とそう思った。

 近くの交差点では、野次馬も巻き込んだ10人程度の集団が大乱闘を始めている。男が怒鳴り、女が叫ぶ。僕の嫌いなクラシック音楽みたいな音がした。拳銃が持ち出されなかったのは幸運としか言いようがない。白地に黄色とオレンジのラインの入ったパトロールカー数台が、めちゃくちゃな音程のサイレンを鳴らしながら僕の横を通り過ぎていった。あれが霊柩車だったらどんなに良かっただろう。

 リンは後ろで手を組んで僕の目を覗き込む。彼女の深い色の瞳は僕に温かい泥のような安心感をもたらすと同時に、僕の無力感の周りに濃い影を書き込んでそれを一層際立たせた。そして、背後で巻き起こる混沌のことなどまるで意に介さないように、彼女は僕にキスをした。彼女の柔らかい唇が僕の乾いてひび割れた唇に重なり、僕らの間に生じた全ての物質を押し並べて端から相殺していくようだった。

 この世に僕らの存在を気にするものは誰もいないように感じられた。


 *


 僕らは大通りに面したイタリア料理屋に入る。店内のいたる所に鉢植えの植物がぶら下がり、木から削り出した机と背もたれのない丸椅子が規則的に並べられていた。店の奥には石造りの窯が真っ赤にゆらめく口を開けている。僕らはマルゲリータとアンチョビのピザ注文し、分けて食べた。店員の男は、イタリア訛りを治そうとして失敗したような奇妙なアクセントの英語を話した。僕はシャンディガフ、彼女は赤ワインを飲んだ。リンは4ピースしか食べなかったので、残りの12ピースを僕が食べる。ピザを注文してから食べ終わるまでの間、僕らは一言も口をきかなかった。

 僕がオリーブオイルだと思ってかけたものは、実はチリオイルだったらしい。口の中を千本の針で刺されたような痛みが襲った。隣の席に座っている夫婦の皿には、こんがりと狐色に焼けたピザの耳だけが円状に残されている。それはどこにも繋がっていないゲートのように虚しく口を開けていた。

 食べ終わった後にレジの前で財布を取り出そうとする僕を、リンは手の動きだけで制して言った。

「わざわざ日本から来てもらってるのに、食事のひとつも奢らせてくれないつもり?」

 彼女はそう言うと、トートバッグから財布を取り出し、2人分の料金をクレジットカードで支払う。僕は何か言おうと思ったが、チリオイルによって灼かれた舌の痛みを顔に出さないようにするので精一杯だった。

 イタリア料理屋から出ると、リンはやはり無言で僕の腕を取り、ホブ・ゴブリンに連れて行った。その大きなパブはノースレーンと呼ばれる区域の南東の角を守るように存在していた。

 入り口には防弾チョッキに身を包んだ2人のガードが神社の狛犬のように立っていた。リンは顔が通っているようで、彼らは一時的に警戒を解いて彼女に道を開ける。僕は世界で最も人畜無害な顔をして彼女に続いたが、肩を掴まれて止められた。僕は身分を証明するものを一つも携帯していなかったので、顔写真を撮られ、誓約書のようなものに直筆のサインを書かなければいけなかった。ざっと読んだところ危険そうなものではない。店で少しでも暴れたり問題を起こすようなことがあれば、問答無用で現地の警察に突き出すとかそんなようなことが書いてあった。

 店内に知り合いが居たようで、彼女は何人かの客に向かって微笑んだり手を振ったりしている。席に着くと、店主らしき赤ら顔の男が出てきてリンと抱擁を交わし、僕に握手を求めてきた。彼の手は汗で湿っており、微かに震えている。彼女は身振り手振りを交えて僕という存在を説明しているようだった。しばらく彼女の言葉に耳を傾けていた男は、やがて納得したように頷く。彼は僕を頭からつま先まで視線で舐め回した後、店の奥へと引っ込んでいった。

 僕はマティーニ、リンはアイリッシュコーヒーを注文して席につく。背が高くて座りにくい丸椅子と、ネジが緩んでがたついたテーブルだった。彼女は飲み物を一口啜ると、いつものように僕の目を覗き込みながら訊ねた。

「大学はどう?」

 僕は言う。「まあまあだよ。楽しくもあり、退屈でもある。ときどき自分がどうして大学なんかに通っていて、何のために講義を受けているのかよく分からなくなるね」

「うん」

「でもあと1ヶ月もすれば長い休みに入るんだ。そうしたらまた君に会いにくることができるよ」

「そう」彼女は必要最低限の口の動きでそれだけ言うと、後は黙って僕の目を見つめる作業に戻る。まるでテニスの試合中にボールがコートの外に落ちてラリーがぱったりと途絶えてしまったみたいだった。

「君の方こそどうなんだ?活動はうまくいってるのかい?」

 僕はそう言って彼女の目を見つめ返す。彼女は微笑を浮かべた表情を崩さないまま、黙って視線を落とした。そしてテーブルの木目を指でなぞる。天板から突き出た釘の頭が、彼女の爪に触れて小さな音を立てた。

「君は本当に自分のことを話したがらないんだな」

 僕は、ゆっくりと、中立的な口調で言った。

「ごめんね」リンは言う。

「いろいろなことに時間がかかるんだ。きみがこうして海の向こうからやってきているのに、自分のことを話さないなんて不公平だと思うかもしれないね。でも、整理がついていない状態で説明するのは好きじゃないんだ。そんなことをしたら、きみも私も混乱するだけだと思うから」

 そう言うと彼女はテーブルの上に置いた僕の両手にそっと自分の手を重ねる。

「こっちでの活動が落ち着いたら色々話すよ。だからもう少し待って」

「わかってる」

 僕は自分の手のひらを返して彼女の手を握る。

「焦ることはないよ」

 僕はそう言うことしかできなかった。できれば彼女に全てを話して欲しかったし、何かあれば彼女の力になりたかった。しかし、彼女の瞳と、その奥に立ちはだかる壁は、外部の干渉を許さない圧倒的な力があった。

 店の隅に備え付けられたビリヤード台の方から、アクリル樹脂のボールがぶつかり合う音と大きな歓声が聞こえる。リンの肩越しに、例のパブのオーナーがこちらを見ていた。彼は、ホールとキッチンを繋ぐドアに寄りかかって、緑色のハイネケンの瓶を煽っている。先ほどリンと抱擁を交わした時に浮かべていた人懐っこい笑みは消え去っており、彼の顔には何の表情もなかった。彼はただ、青黒く濁った目で僕と彼女の中間にある空間を眺めているだけだった。僕はそれがどうしようもなく不快だった。

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