ムード・インディゴ

閏登志

 水滴で曇った窓を袖口でぬぐい、その隙間から外を覗く。赤いダブルデッカーバスの窓から見た景色は、今でも僕の目に焼き付いて消えない。濁ったように光るアジアンスーパーのネオン。堅く閉ざされたシャッター。ところ構わず吹き付けられた色とりどりのスプレーペイント。常に欠品を抱えるスーパーマーケット。その前に寝そべる乞食たち。彼らのそばで微動だにしない毛深い犬。教会に脇の公園にたむろする若者たち。人々の不満を吸収するために黒々と口を開けるパブとディスコ。煙草の吸い殻と割れた空き瓶。石畳。赤煉瓦。霧。ウミネコの群れ。

 イギリスの南端にあるブライトン・アンド・ホーヴと呼ばれるこの地域は、かつてはただの港町だった。だが18世紀末にジョージ4世が別居を構えたこときっかけとして徐々に人の目を集めてゆき、現在のような観光地となった。それに伴ってアジアをはじめとする世界各地からの移民が多く流入し、そのまま定住している。イギリスがEUを離脱した後も彼らはこの地に留まり続け、独自のコミュニティーを発展させた。

 ブライトンは僕にとって特別な街だ。正確に言うならば、ブライトンのような街は世界中を探せばどこにでもある。そこには全てが存在し、意味のあるものなんてひとつたりともなかった。よくある話だ。しかし、ここは僕が一度死んだはずのリンと生きて再び巡り合った地であり、僕らが互いに顔を合わせた最後の地でもあった。そういった意味では、ここがなんらかの特異点的な性質を持って地球上に存在している街であると言っても差し支えないだろう。少なくとも僕はそう思う。

 ここには希望と不安が一緒くたになって街のそこら中に立ち込めていた。それは偏西風によって作り出されたイギリスの、ヨーロッパの、世界全体の吹き溜まりのようだった。地中海性気候の暖かく穏やかな空気も、灰色のドーバー海峡を渡るうちにそのヴェールを引き剥がされ、人の心に入り込む隙間風と成り果てる。


 迫り来る夕闇に飲まれてしまいそうで


 この街に取り込まれてしまいそうで


 街の一部になってしまいそうで


 何者かになりたくて


 何者にもなりたくなくて


 誰もが歩みを止めることができないでいた。


 *


 海辺のバス停に降り立つ。しばらく歩き出すのを躊躇した後、僕はベンチに座り込んだ。潮風を深く吸い込んで吐き気と頭痛が収まるのを待つ。好奇心から二階建てバスの上階に座ったのがよくなかったのだろう。ベテランらしい太ったドライバーの手荒い運転によって、僕の三半規管はめちゃくちゃに掻き回されていた。

 煙草を吸いたかったが、そんなものが車酔いの症状を軽減するとも思えなかった。日本は穏やかな春の陽気が残る5月の下旬だというのに、ブライトンには相変わらずいつ小雨が降ってもおかしくないようなどんよりとした寒空が広がっていた。

 気分が少し良くなるのを待ってから、僕は歩き始めた。海を背にしてなだらかな傾斜がついた坂道を、両側に並び立つ家々の間を縫うように進む。規則的に置かれた黒と青のゴミ箱。車線を塞いでびっしりと駐車された車。アスファルトに引かれた黄色い中央線。車道と歩道を隔てる段差。それら全てが複雑に絡み合い、失われた文明の遺跡から出土した古文書のように、人智を超えたメッセージを生み出しているように見えた。

 呼び鈴を鳴らすと、感じの良い中年女性が出迎えてくれた。僕が買い物袋を目線の高さに掲げると、彼女はにっこりと微笑んで頷いた。袋の中から水の入ったペットボトルを2本取り出して、残りを彼女に渡す。食材を冷蔵庫に収納する間も惜しいというように、キッチンで紅茶を淹れる準備に取り掛かる彼女の気配を背後に感じながら、僕は階段で2階に登った。僕はここを発つまでにあと何杯彼女の作る紅茶を飲めばいいんだろう。

 僕はドアのノックに返事がないことを確かめ、部屋に入る。机に覆い被さるようにして彼女は眠っていた。僕がドアを閉める音にも部屋の灯りを点けたことにも反応は無い。螺子を巻かないと動かない機械人形のように、全ての生体機能を停止させているようにみえた。肩に手をかけ軽く揺する。そして首筋に手を当てて脈を計る。彼女の頸動脈は、寝ている人間にはふさわしくないほど速く動いていた。

 しばらくそうしていると、リンは突然上半身を跳ね上げた。唇から細い唾液の糸が舞うのが見えた。それは限界まで収縮したバネが元に戻る運動によく似ていた。髪の毛がばらばらに乱れ、乱れたまま元の位置に戻った。

 彼女は焦点の合わない目でぼんやりと僕を見る。部屋には枯葉を燃やしたような独特の匂いが微かに漂っていた。部屋の隅には、途中が二股に分かれたメスシリンダーのようなガラス管が転がっている。

大麻ウィードを吸ってるのか?」

 僕は彼女を刺激しないようにできるだけ静かな声で訊ねた。

 彼女は頷く。頷いたというよりは、首の力を一瞬抜いて頭を重力の働きに任せたと言った方が正確だった。肩と目の上できっちり切り揃えられた髪は、辛うじてショートボブの形を保っていたが、ところどころ跳ねたりほつれたりしていた。それは草むらの間から這い出したばかりの野良猫の毛並みを思わせた。

「いつからだ。何回ぐらい吸った」

 わからない。当たり前だ。大麻を吸った回数を正確に覚えている人間がいるものか。覚えていたくないから吸うんだろう。彼女の背中はそう言っていた。リンの肩から手を離すと、彼女は突然目を見開いて僕の腕を勢いよく掴んだ。

「お願いだ。電気を消さないでくれ。暗闇が怖い、気管の弁が閉じて息が詰まりそうになる」

 彼女の声は上擦っていて、ピッチの調整を間違えて再生されたCD音源みたいだった。

「部屋の灯りはついてるよ。僕がさっきつけた。僕が部屋に入るまでは真っ暗だったよ」

 彼女は不安とも安堵とも取れる表情で僕の顔をずっと見上げている。脳内で感情や本能が溢れそうになるのを理性で必死に押さえつけているようだった。彼女の思考は随分読み取りやすくなってしまった、僕はそう思った。その双眸からは、かつての重力場を歪めてしまいそうな深みや恒星のような輝きは失われていた。

 それらはただの質の悪いビー玉だった。濁っていて僕の姿が正確に像を結んで映っているのかも判らない。彼女は失われたものを取り戻したのだろうか。狂った母親によって破壊された彼女の人生を、再生することはできたのだろうか。


 そして僕はふと思う。


 僕がペットボトルの水を渡すと、彼女はそれを数秒で飲み干した。肩で息をしながら片手で空のボトルを握り潰す。

「すまない。少し包み過ぎてしまったみたいだ。きみの前で醜態を晒したくはなかったんだけれどね」

 冷静さを取り戻したリンはいつもの表情と口調に戻っていた。剥き出しになっていた彼女の表情は、幾重にも重ねられたヴェールの奥に秘匿されていく。宇宙に漂うガスの塊のようだった彼女の瞳は、再び膨大な質量を持つ天体へと戻っていた。僕はさっきスーパーマーケットで買ったマルボロのパッケージを剥き、一本咥えて火を点ける。8ポンドもした割には不味い煙草だった。

「ここには昨日の夜に着いてたんだ。部屋を訪ねたけれど君は居なかった。空き部屋を貸してもらってそこで寝たよ。午前中は大家さんに頼まれて街まで買い物に行ってた」

 僕は、とても事務的で平坦な声で言った。どういう声色で話せばいいのか分からなかった。多分どんな声色で話しても、それは部屋の壁に反響して灰色の波紋を広げるだけだっただろう。単振動する波形同士が干渉し合ってそこには何が生まれる。何も生まれない。

 彼女は記憶を辿るように視線を宙に泳がせる。

「昨晩は、そうか。私はずっとホブゴブリンに居たんだっけ」

 ホブゴブリンというのはブライトンに星の数ほど存在するパブの中でも、特に大きい部類に入るものの一つだった。リンのプロデューサーとその店のオーナーは旧知の間柄で、彼女は自分の作った歌を披露し名前を売る場所としてそのパブを使うことができた。家主の女性がそんなことを言っていたような気がする。

「久しぶり」

 リンはそう言って椅子から立ち上がり、僕の体に手を回す。僕は立ったまま彼女を抱き寄せる。彼女の髪からは石鹸と煙草と、それから大麻の香りがした。

「きみと会う時はいつも久しぶりって言ってる気がする」

 僕の肩の上で肉付きを確かめるように顎を上下に動かしていた彼女は、肩から顔を離すとそう言った。

「仕方ないさ。僕らは実際のところ数ヶ月に一度の周期でしか会えていないんだから。前回は君を探し出すのに5ヶ月かかったし、今度はイギリスへの渡航費を稼ぐのにもう4ヶ月かかった」

 リンは目を伏せ、書斎の本棚から本を選び取ろうとするようにしばらく思索を巡らせていた。しかし、結局のところ適当な本は見つからない。いつもそうだ。僕らは大事なことを喋ることができない。重要なことはあとから遅れてやってくる。濃い霧を裂くようにして線路の向こうに先頭車両の光が見えた頃には、もう誰一人としてホームに残っていないのだ。

 彼女は机に寄りかかり、諦めたように笑って言った。

「ご飯でも食べに行こうよ。近くにそこそこ美味しいイタリアンがあるんだ」

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